六
恵都は、千鶴が入院しているという病院の屋上でぼんやりと空を眺めている彼女に会った。今日は下見だけで、実際は石崎と来る予定だったので、まさかこんなところで出会うとは思ってもいなかった。
千鶴はぼんやりと空を眺めている。その様子はどこか危うくて、恵都が写真で見た生命力に溢れている少女の姿はどこにもない。ぱっと見の印象だが、悠長に構えていられるほど余裕があるようには見えなかった。
今日は見かけても声をかけるつもりはなかったが、直感が今でなければいけないと訴えかけてくる。
ほぼ音も立てずに静かに近づいたはずなのだが、スポーツ少女の耳には微かな音もしっかりと届いたらしい。ふっと振り向いた千鶴の目が大きく見開かれた。誰にも言えない思いを抱えている、そんな気がした。千鶴をそばで見続けていた石崎が、いけすかないであろう恵都に頭を下げに来るわけだ。
「あ、あの時の……幻?」
どこまでが夢でどこまでが現実なのか区別がついていないのだろう。それにしてもまさか恵都まで幻だと思われているとは思っていなかった。
「いいえ。幻ではないわ。篠崎恵都です。石崎快斗さんの友達だと思ってくれればいいわ」
アレを友達だと口にすることに強い抵抗感を感じたが、それをなんとか堪えた。
「快兄の?」
「そうよ。友達。ね、千鶴さん、思ってること全部吐き出してみない? どんなことでも聞くわよ」
「どんな、ことでも?」
「ええ。我慢する必要なんてないし、話すか否かを考える必要もない。ただ、思ったことを話してみて。絶対にバカにしたり、笑ったりなんてしない」
「信じてくれる、の?」
「もちろん。私もあの場にいたもの……それに、ああいうモノを見るのは初めてではないから」
「わ、私……おかしくなったかもって、思って……」
堰を切ったかのように話し始めた千鶴の言葉を隣に座って黙って聞いた。小さな声でポツポツと話す言葉は時に聞き取りづらいものがあるが、口を挟まずに彼女が話したいように話させる。場面が二転三転していて理解が難しい部分もあったが、おおよその流れは掴めた。
千鶴が彼女を初めて見たのは、合宿に使った廃校舎の体育館で一人で朝練をしていた時だった。練習開始時間よりも早く目が覚めてしまったので一人で素振りをしていたのだ。
千鶴が初めて竹刀を握ったのは五歳の時だった。だが、父に連れられて道場に初めて行った時から竹刀を握りたくて仕方がなかった。そんな昔のことなんて普通に何も覚えてはいないが、竹刀を初めて手にした時の感動は忘れることができない。あの日から、剣道が千鶴の全てだった。授業中以外はずっと道場にいた。道場にいなくてもいつも竹刀を手にしていて、それがそばにないときはひどく落ち着かない気分になった。
「あなた、それが、好き?」
軽く首を傾げた様子で聞いてきた声に初めは気がつかなかった。ここに人がいるはずがない、と思っていたのもあるが、それよりも何よりもその声がひどく小さくて弱々しかったからだ。
再度小さな声が聞こえ、顔を上げた千鶴は目の前に立つ女性の姿に軽く目を瞬いた。千鶴が着ている道着とは違うが、白くパシっとした道着を着ている二十代半ばくらいの女性が立っていた。長い真剣を持っているが、それがよく似合うからか、不思議と怖いとは思わなかった。
彼女が普通の人ではないのはすぐにわかった。よく聞く半透明な人というわけではない。きちんと見えて存在感もある。だが、その存在感が異質だった。それに、今は手にすることなんてできないはずの真剣を手にしている。
答えない千鶴を気にした様子もなく、彼女はどこか淡々と話し続けた。
「わたくしも、好き。本当は、ずっと続けていたかったけれど、うまくはいかないものですわね」
千鶴の周りではあまり聞かない、おっとりとした上品な口調に思わず聞き入ってしまう。
この世界にとどまっている幽霊には未練がある。それはどの物語でも定番の話だ。もちろんそれが本当かどうかはわからないし、おそらく目の前の彼女でなければ千鶴は気にもかけなかった。なぜ、こんなに気になるのかはわからないが。
「未練は、もっと剣を振るいたかった、から、ですか?」
「最後に、一度だけ。本気で戦ってみたいですわ。結婚してからは、わたくしとまともにやり合ってくれた方は、いませんでしたもの。もっとも、この体ではできませんから、見ているだけでよかったのです。でも、あなたの動きは、昔のわたくしに似ていましたから。それに、わたくしが見えているようですし」
「たとえば、私の体を乗っ取っても、本気で戦う感覚は得られませんよ。少なくとも、ここでは」
この部内で、先生も含め千鶴とまともに打ち合える相手はいない。そもそも千鶴はずっと格上の、もっと年齢も上の相手と渡り合ってきたのだ。高校生の部活で本気になどなれない。全国大会でさえ物足りないと感じてしまうのだ。それでも部活に参加しているのは、同年代の実力を知るために必要だと父や、道場に通う人たちに勧められたからにすぎない。そうでなければ、わざわざ部活動に参加などしない。家の道場で練習する方がずっと有意義だ。
「そのようですわね。あなただけ、力が違いますもの。でも、あなた以外ではおそらくわたくしの望む動きはできませんわ」
諦めたかのようなその言葉に胸の奥で何かが弾ける。この女性は全てを諦めたまま、この場にとどまり続けるのだろうか。そんなのは嫌だ、と思ってしまう。
「なら、取引をしませんか?」
「取引、ですか?」
「この合宿の間、私に剣道を教えてください」
「?」
「そしたら、私は合宿が終わった後でもう一度戻ってきます。それから最大で二週間、あなたとここにいます。そうしたら、多分探し出してくれるから」
「え?」
「私が勝てない人が。だから、二週間後にその人とやり合ってください」
なぜ、こんなことを口にしたのかわからない。こんな回りくどいことをしなくても、この場に呼び出せばいい。いや、たとえ呼び出したところで千鶴にしか見えない存在を信じるような相手ではない。真面目に話も聞いてくれないだろう。二週間くらいなら何とでもなる。その後で、記憶がないフリでもすればいいだけだ。
「いいのですか? もしかしたら、もう体を返さないかもしれませんわよ?」
「あなたはそんな人ではありません。私は、今目の前にいるあなたと、そして自分の直感を信じます」
信じられる、と思った。それに、自分が成長するためには彼女に力を貸すことが必要な気がした。実際に、彼女は部活中の千鶴を見て、朝二人だけの時にアドバイスをくれたし、他に人がいる時には決して近づいてこなかった。
だが。合宿が終わって廃校舎に戻ってから少しずつ様子が変わり始めた。ふと気がつくと、千鶴は体の自由を失うことがあった。ただただ、剣を振るうことを渇望する、そんな意識が自分の中に入り込むことが増えた。まるで長い夢を見ていたみたいで、本当に全てが夢で、自分が狂っていたんじゃないかとさえ思うほどだった。