四
エンファントの緑とともに千鶴が合宿所として利用したという廃校舎にやってきた恵都は、校舎前にいる男性の姿に唖然と目を見張った。
「なぜ、ここに?」
思わず冷たい声が出てしまう。一緒に来てくれるという使徒のことは待っていた。だが、他には誰にもここに来ることを告げていないはずなのに、なぜ彼がここにいるのだろう。
振り向いた石崎が不愉快そうな表情を浮かべている。その横にニコニコと笑みを浮かべているエンファントの赤がいた。
「朝突然来てみたくなった。初日に来た時には誰もいなかったが、もう一度調べるべきだという気がした。なぜかはわからないが」
絶対に石崎の意思ではない気がする。エンファントが何かしたのだろう。
「こんなこともできるのね」
「操ったわけじゃないよ? そんなことをしたら女神さまどやされるしね。ちょっと深層心理に語りかけただけ。ボクたちは表立って助けられないし、いないよりマシでしょ」
恵都の小さな呟きは石崎には聞こえなかったらしく、軽く首をか傾げている。人間相手であればこれ以上ないほどの助っ人のような気がするが、もし、相手がヒト以外の何かだった場合は単なる足手纏いな気がする。
「何か言ったか?」
「いえ。石崎さん、もしついてくるのであれば、私のやり方に口を出さないことと、他言無用でお願いします」
「は?」
「もし破ったら……呪いますから」
「呪いって」
意味がわからない、とでも言うかのように鼻で笑った石崎を冷めた目で見る。こういうタイプが非現実的なものを信じないのはわかっているし、実際恵都に人を呪う力なんてない。だが、千鶴失踪事件がエンファントが言うように人ではない何かが関わっているのだとすると、石崎から見た恵都は頭がおかしい人に見えても不思議ではない。
困惑気味の石崎を無視して校舎に目をやる。ひんやりとした冷たい空気を感じた気がした。
恵都には霊感はない。それは事実だが、エンファントたちと関わるうちに少しそういう空気を肌に感じるようになった。
「石崎さんは、本当に彼女と付き合っていないんですか?」
人気のない廃校舎の周りを歩きながら尋ねる。興味があるわけではないが、話を聞くことはカウンセラーの使命だ。ただ黙っているよりも話をしていた方が気も紛れる。恵都にしても石崎にしても。
「付き合ってない。俺にとっては妹でしかないし、向こうも家族愛でしかない」
淡々と答える様子は嘘を言っているようには見えない。ただ、血の繋がらない兄妹や幼馴染間の恋愛話はよく聞くし、それが決して架空の話ではないことを恵都はよく知っていた。
「血の繋がりはないんですよね。実の兄妹でもここまですることは珍しいですよ」
「あんた、警察官が嫌いなんだろ? の割にはまるで取り調べ中の刑事みたいだな」
嫌味な言い方にムッとする。確かにそれは否定できないが、それを石崎に指摘されると腹が立つ。自分が言う分にはいいが、人に言われるのは嫌だ、という状況の典型的なものだろう。
「はっ、本当にすぐに顔に出る。カウンセリング中に患者相手に喧嘩してんじゃないのか?」
「そんなことしていません!」
「どうだかね。まあ、周りから見ておかしく見える、というのは理解している。千鶴の父親は俺が通う道場の十代目で、昔からよく娘を連れてきていたんだ。だから、千鶴は道場の門下生が育てたようなものだった。昔から目が離せなくて、可愛くて仕方がない。でも、どうしてもそこから先の感情は湧かない。それは千鶴も同じだ」
千鶴について語る石崎は優しそうな表情を浮かべていて、ずっと厳しい口調と表情だった石崎とは雰囲気が違って見える。ただ、そこに恋愛感情はないようだが、きっと彼の千鶴への感情を理解できる人は多くはない。
「石崎さんは恋人と長続きしなさそうですね」
「なぜわかる」
「私はこれでも人を見る目はあるんです。千鶴さんのことは直接会ったことがないのでわかりませんが、あなたが彼女に対して恋愛感情を持っていないことはわかります。でも、それを理解できる相手は多くなさそうですし、今までの恋人より千鶴さんを優先していたのでは?」
「そ、それは……」
心当たりがあるのだろう。石崎がさっと目をそらした。そういう様子に思わず笑ってしまった。警察官の石崎快斗ではなく、ただの石崎快斗という人を初めて見たような気がした。
「それを気にしない相手……ああ、違うか、石崎さん自身が千鶴さんよりも優先できる相手を選ぶべきなんでしょうね」
「なぜか、そういう相手ができる気がしないんだが」
困ったような表情を浮かべている石崎の様子が面白い。石崎と千鶴は一体どういう関係なのだろう。多分、他人にはわからない繋がりがあるのだろう。
「まあ、そのうち、見つかるんじゃないですか?」
「適当だな」
「そりゃ、私には関係ありませんから」
ぐるっと一周回って玄関口に戻ってきた恵都はその場の様子に軽く眉を顰めた。
「石崎さん、さっき、ここ開いてましたっけ?」
正面玄関には鍵がかかっていた。それは一番初めに確認している。だが、今はその玄関の扉が小さく開いていた。
「閉まっていたはずだ。初めに確認していただろう」
「ですよね」
ギイと音を鳴らしてガラス戸が大きく開く。なんとなく嫌な予感がする。それでも、行かないという選択肢はない。
「何か、いるよ。気をつけて」
赤と緑が揃って同じような表情を浮かべている。こういう時はろくなことがない。そして、恵都はその感覚に慣れることができなかった。
チラリと石崎を見る。今までエンファントに話しかける時、人気がないことを確認していたし、誤魔化せる方法を探していた。だが、この距離で誤魔化せるとも思えない。
「石崎さん、これから先は質問はなしでお願いします」
「は?」
「赤でも緑でもいいけど、案内して」
「こっち。でも、ごまかすのやめたの?」
不思議そうな表情で首を傾げた赤に恵都は困ったような表情を浮かべた。エンファントたちが何を考えているのかはわからない。ただ誤魔化せないこの状況に持っていったのは彼ら自身だった。わざわざ石崎をこの場に呼び出して一体全体何がしたいというのだろう。もしこの先に幽霊が関わっているのだとすれば、何も見えない、エンファントの声さえ聞こえない彼はただの足手纏いでしかない。
「誤魔化せないようにしたのは、あなたたちじゃない」
見えない何かと話している恵都を石崎が見つめてくる。その顔にどんな表情を浮かべているのか見る勇気は恵都にはなかった。初めて彼らを見た頃は、自分でもよく理解していなくてつい普通に話してしまい、狂っていると思われていた。だが、それもすぐに落ち着いたため事故の後遺症で混乱していたのだろうと思われていた。いくら嫌いな石崎相手とはいえもう一度あの目を向けられる勇気は恵都にはない。嫌いな相手や関係ない人に何と思われても構わない、と言うほど達観することはいまだにできない。
石崎は恵都のお願いを守ってくれるつもりなのか、明らかに不審な動きをしている恵都に口を挟まなかった。
エンファントに連れられて奥に入っていく。進むにつれてひんやりとした空気が肌を刺す。その冷たい空気にブルリ、と肩を震わせた。
エンファントに連れて行かれたのはこの学校の体育館だった。その体育館の中央に竹刀を手にした少女が立っていた。ポニーテールにしている髪を軽く揺らして振り向いたその顔は写真で見せてもらった顔と同じだった。彼女が矢吹千鶴なのだろう。確かに女性にモテそうな印象を感じる。
「ちづ……」
思わず近づこうとした石崎の腕を取る。彼女は初対面の恵都から見てもどこかおかしい。
エンファントが恵都の空いている方の手を握る。恵都はエンファントたち使徒と接触をしている時のみ幽霊が見える。普段は空気を感じることはできるが目にすることはできない。
千鶴に被ってもう一人の女性の姿が見えた。着物姿でスラリと長い剣を持っている。遠目でもわかる、手入れの行き届いたよく切れる真剣だ。
「石崎さん、私の前に出ないでください」
グッと息をのむ。こちらを見る彼女の姿が時折千鶴の姿とダブって見えるが完全に重なってはいない。まだ間に合う。
「あなたは、誰?」
恵都の問いかけに彼女が小さく笑ったような不思議な雰囲気を感じた。視界がゆらゆらと揺れているかのような気がしてひどく気持ち悪い。
「わたくしが、見えるのですか?」
千鶴の奥にいる女性と目が合う。
「あ……」
その瞬間、強い感情が頭の奥に叩きつけられたかのような気がした。
「おい!」
立っていることができずにその場に座り込んだ恵都の腕を石崎がつかんだ。それを無視して、女性の顔を見上げる。彼女から叩きつけられる感情は、ひどく揺れていて、息苦しく感じた。
ふらふらと立ち上がり、彼女に近づく。遠くから話すのでは何もできない。ついてこようとした石崎を押しとどめ、エンファントに支えられるようにして彼女の前に立った。
「あなたの名前は?」
「わたくしは、杉」
「杉様? あなたは、なぜここにいるのですか?」
杉と名乗った彼女に釣られるようにして思わず丁寧な口調になってしまう。なんとなく昔の身分の高い女性のような気がした。
「わかりません。気がついたらここにいました」
「あなたのことを、教えていただけませんか?」
恵都に強制的に除霊をすることはできない。相手が生きていても死んでいてもやることは同じだ。カウンセリングをして前向きにする、それ以外の方法を恵都は知らない。そもそも、そのためにカウンセリングを学んだと言っても過言ではないのだ。自分の身を守るために、その力が必要だった。
「わたくしは、幼い頃から父の道場で剣技を学んできました。ですが、わたくしは女。いずれ父が決めた相手に嫁ぐ運命。ですが、身分の高い方が、わたくし妻にと、望んでくださいました。嫁いだら手にすることさえ許されないであろう剣を持つことも許してくださいました。ですが、それ以来誰も本気で打ち合ってはくれなくなりました。いつも、怪我をさせないようにと手を抜くのです」
言葉を切った彼女の話の続きを待つ。なんとなくまだ話は終わっていないような気がした。だから、彼女が話し切るまで待つ。
彼女が生きていたのがいつの時代かわからないが、身分の高い人の妻は護衛対象となるはずなので、本気で打ち込むことなどできないだろう。適度に汗を流させ、いい気分で勝たせるような、そんな打ち合いだったに違いない。それに、有頂天になり勘違いする人も多いだろうが、目の前の彼女は、勝たせてもらうことに有頂天になるタイプには見えない。こういう凛とした女性にとってそのような状況が息苦しいものであることは簡単に想像できる。
「本来ならば、二度と持つことを許されないはずの真剣を与えてくださったあの方には感謝しておりますわ。ですが、あの方は無実の罪で、叔父である秀吉様に切腹させられ、わたくしは気がついたらここに。ここには、かつて、父の道場がありました」
無実の罪で豊臣秀吉に切腹させられた人物で思い浮かぶのは一人しかいない。彼女はたくさんいたという豊臣秀次の側室の一人なのだろう。
恵都はさほど歴史に詳しいわけではない。だが、歴史小説を読むこともあるため、多少の流れは知っている。豊臣秀次は、豊臣秀吉の甥で、秀吉の跡を継いで関白となったが、謀反を企てたと言われ、切腹させられている。確か数多いた側室は全員連座で処刑されていた気がする。側室の名前を全て覚えているわけではないが、それでも杉、という名に覚えはない。
「杉様、あなたの望みは何でしょうか?」
「わたくしは」
その視線が、手元の真剣に向く。恵都は背後で黙って待っている石崎へ一度だけ視線をやり、千鶴を見る。青白い顔をしている。普通ならもう、全てを失っていてもおかしくはない状態で、これ以上は危険なはずだ。でも、なんとなく彼女なら大丈夫な気がした。確認するかのようにエンファントを見ると、にっこりと楽しげに笑っていた。恵都がこれからやることを知った上で、構わない、と言っているのだろう。
「一度だけ、手加減なしで手合わせをしてみますか?」
「え?」
「流石に真剣を扱うことはできませんが、竹刀であれば問題はありません。あなたが憑いている彼女も、それから、ここにいる男性も、素晴らしい使い手ですよ」
実際のところは知らないが、エンファントが連れてきたのはそのためのようながする。
「本当に?」
「ええ。石崎さん、一度だけ本気で彼女と手合わせを。それが、彼女を助ける唯一の方法です」
千鶴を見る石崎が何を考えているのかわからない。
「構わないが、道具がない」
「持ってきます」
千鶴の本来の声ともう一つ、高い静かな声が二重写しのように聞こえてきて、若干気持ち悪い。体育館の外へ駆け出していく千鶴を見送りつつ石崎が恵都を見た。
「手加減なしでやればいいんだな」
「ええ、実際はどれくらい差があるんですか?」
千鶴の方が強いとは思えない。
「瞬殺できる。あの歳では強いが、そもそも、もともとのキャリアが違う」
パーーン。大きな音がして、石崎が持っていた竹刀が綺麗に決まる。剣道の優劣なんて恵都にはわからない。ただ、先ほど石崎が言っていたほどの実力差があるとは思えない。それが、杉の実力なのか、それとも千鶴本来の力なのかはわからないが、杉だけではなく石崎も楽しそうに見えた。
ふわり、と千鶴の体から抜け出した杉が恵都の前に立った。その背後で石崎が千鶴の体を支えているのが見えた。
「ありがとう」
千鶴の体を通してではない彼女の声は思ったよりもずっと力強く響いた。
「私は何もしていません」
「いいえ。あなたがいなければ、彼がここへ来ることはありませんでしたもの。彼は、強いですわ。そして、わたくし相手に手加減なしでやってくださいました」
晴れ晴れとした、いい笑顔を浮かべている。さっきまでの儚い印象の顔も綺麗だったが、それとは比較にならないほどに美しい。
「私は、剣道については何も知りませんが、二人ともとても楽しそうに見えました。もう、大丈夫ですか?」
恵都の言葉に杉がふわり、と柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。そろそろ、行きますわ。きっと、あの方が待っていてくださいますもの」
優しい表情で目を細めた様子は、さっきまでの凛々しい顔とはまた違う、美しさがあった。同じ女性なのに、思わず見惚れてしまうほどだった。その視線の先には、一体どんな景色が映っているのだろう。
恵都たちの様子を、黙って見ていた赤がスッと上を指で示した。それに釣られるようにして恵都と杉が上を見た。
恵都の目に映ったのは、体育館の天井だけだった。だが、杉の目には別の光景が映ったらしく、小さく息をのむ音が聞こえてきた。
「上、様」
小さな、掠れるような声に顔を向けると、杉の体がふわり、と浮き上がっているのが見えた。
「感謝、いたします」
その言葉とともに杉の体が天に昇り、空気に溶けるように消えていった。
「成仏した?」
「うん。したよ。迎えが来たしね」
「迎え?」
「そ、本来ならすでに転生できる状況なのに、最後の一人を待ち続けていたお人好し」
それが誰なのか、たとえこの目に見えなかったとしてもなんとなくわかったような気がした。
「そう、よかった。その二人は、転生、するよね?」
「多分ね。悪霊にならなかったし、あの女の子も無事だったから」
「そっか。なら、いつか会えるといいな」
「会えるよ、恵都なら、ね」
エンファントの声はあまりに小さくて、恵都の耳には届かなかった。