十一
竹刀を片手に訪ねてきた千鶴の様子に恵都はホッと息をついた。目の下のクマもなくなっているし、生気がなかった頬に赤みがさしている。二週間前に会った時とはまるで別人のようだった。
「篠崎さん、私、剣道やめません。やっぱ、好きなので」
カウンセリングルームに入るなり開口一番に告げてきた千鶴はまっすぐな力強い瞳をしていた。写真では見たことがあるが、実際に恵都が目にしたのは初めてだった。ここに泊まった日から一体全体何があったのだろうか。ただただ、目の前にあるものを楽しんでいるかのような清々しい表情を浮かべていた。
「そう。よかったわ。あなたが竹刀を振るっている姿は格好よかったもの」
千鶴が、自分の意思で決めたことならば、その決定を応援したいとは思うが、それでも一つだけ伝えておきたい。
「でも、一つだけ。剣道とはこれから先のあなたを構成する一つでしかないわ。決してそれが全てではない。それを忘れないで」
「それ、快兄やお父さんにも言われました」
くすり、と笑った千鶴には、剣道しかないのだと口にしていた時のような危うさはない。今の彼女なら、もう大丈夫だろう。そう思えた。
「そうなの?」
「ええ、辛いなら、嫌ならやめてもいいって言っていました。でも、頭の中の九割が剣道で占められているような人に言われても、まるで、諦められて、お前なんかいらないのだと言われたみたいで、素直に聞けませんでした」
それはとんでもない邪推をしたものだと思う。石崎のことは気に食わないが、それでも流石に不憫になってくる。
「でも、違いました。本当に剣道以外の道もアリなんだと思ってたみたいです。私が私であれば構わないと。そもそも、父も昔道場を継ぐことに嫌気がさしていた時期があったみたいです。昔から、それ以外に面白いことなんてないって顔していたのに……。快兄だって……なかなか強くなれない自分に苛立って他人に当たって、よく喧嘩してたらしくて。警察に捕まらなきゃ別に構わないって」
その言葉に唖然とした。
「それ、警察官が口にする言葉としてどうかしてるとしか思えないけど」
「ですよね。だって、喧嘩するなとか、怪我させるな、じゃなくて捕まるな、ですよ。びっくりしちゃいました。捕まらなければ前科もつかないし、何とでもなるって、こんな警察官がいていいのかと、思っちゃいました。流石にお父さんにぶん殴られていましたけど。変なことを教えるな、喧嘩するな、捕まらなければ、じゃなく、捕まることをするな、千鶴をお前のような悪の道に引きすり込むなって」
くすくすと楽しそうに笑っている千鶴の様子に恵都は軽く口元に笑みを浮かべた。本当にもう大丈夫なようだ。
ひとしきり笑ってスッキリしたのか、千鶴が少しだけ真面目な表情を浮かべて、予想外な言葉を放ってきた。
「あの、篠崎さんは、猫がみ様って知っていますか?」
まさか、彼女の口から聞くとは思わなかった名前に軽く目を瞬く。公園にいる真っ白い可愛らしい猫。あの子に悩みを打ち明けると解決すると言われていて、この辺では下手なアイドルよりも人気がある。よく、あの猫の周りには人が集まっているのに、不思議と切羽詰まった人が話している時には誰もいないことが多い、という噂だった。
「知ってるわ。有名だもの」
「私、竹刀に触れたくて、でも怖くてどうすればいいのかわからなかった時に、その猫がみ様に会ったんです。なぜか、猫に真剣に相談してました。なんで、あんなこと話したんだろう。今でもさっぱりわからないんですけど、でも、なんか話したらすっきりして、夢を見なくなったんです。夢を見なくなったら、あの夢がまるで遠い過去のことのような気がして。不思議ですよね、あんなに怯えていたのに。まるでそれが嘘みたいに心が晴れたんです」
なぜ、夢を見なくなったのかは、恵都にはわからない。でも、その猫がみ様との出会いは、千鶴にはよいものだったのだろう。それに、過去に触れているとはいえ、千鶴自身が経験していることではない。であれば、ただの夢だ。夢はいずれ忘れる。
「なら、よかったわ」
「はい。本当にありがとうございました。それで、あの……これ……」
千鶴が一枚のチラシを恵都に差し出してきた。今度行われる剣道の試合のチラシのようだ。
「今度、この大会に出るんです。もしよかったら、見に来てくれませんか?」
日付を見る。その日は予約も入っていないので問題はないだろう。
「喜んで、行かせてもらうわ」
千鶴の顔にパッと笑みが浮かぶ。年相応の明るい表情だった。クライアントのこういう表情を見ると、カウンセラーをしていてよかったと思う。もっとも、今回は恵都はお礼を言われるようなことなんて何もしていないが。千鶴をあの悪夢から救ったのは、恵都ではない。いや、それは今回の千鶴のケースには限らない。クライアントからの「ありがとう」という言葉を聞くたびに、いつも落ち着かない気分になった。お礼を言われるようなことなんて何もできていない。
「何かしたの?」
千鶴が帰るなり、恵都は近くにいた黄色いエンファントに尋ねた。いくら何でも展開が早すぎる気がする。
「何もしてないよ。ボクたちもだけど、女神さまもね」
「本当に?」
「ほんとだよ。ただ、あのネックレスも身につけてるし、あの子が会った白い猫も女神さまの猫だけあって清廉な気が強いから、あの子の中に残っていた影響を薄めてはいるよ。あとは、あれじゃない? 誰かに話すと楽になるってやつ。そもそも、あの子が見ていたのはただの夢だよ。前世の記憶が多少は溢れてきているけど、今世には関係がないんだから、夢以外の何物でもないよ。だから、一度影響から脱しちゃえば早いんだよね」
エンファントたち神々の使徒の上司、女神さまが飼っている猫。それは普通の猫とは大分違うらしい。恵都にはただの猫にしか見えないが。
「まあ、後はあの子次第、よね。友人でも、家族でもない私にできるのは、ここまで、ね。でも、今回はいい経験ができたわ。除霊の真似事なんて普通に生きていたら絶対にできないもの」
「これから増えたりして」
「除霊の真似事が? 冗談やめてよ」
貴重な経験になったとは思うが、何度もこんな仕事が入ったらたまったものではない。心底嫌そうに顔を顰めた恵都にエンファントたちがドッと笑う。今日は珍しく、彼らが七人揃っているのだ。着ている服の色が違うとはいえ、同じ顔が七つ並んでいるとひどく混乱する。たとえ服の色を入れ替えても気が付かないだろう。
「……そういえば、服っていつも同じ色、着てる?」
「さあ?」
「でも、どうでもいいんじゃない?」
「ボクたちは七人で一人だから」
口々に投げかけられた言葉にそれ以上考えるのをやめた。確かに彼らに関しては区別することに意味はない気がする。