十
千鶴は自分の部屋に立てかけたままずっと触れていない竹刀の前に座り、じっとそれを見つめていた。あの事件が起こる前は毎日のように竹刀を握っていた。部活のある時は学校の道場で、部活がない時には家の道場で、毎日素振りをし、時には人と立ち合いをしていた。竹刀を握ると雑念を忘れ、目の前の一点に集中できる。その時間が千鶴は好きだった。一日の大半を竹刀とともに過ごしていて、竹刀を手にしない日はなかった。
でも、あれ以来、竹刀に触れようとすると人の首を斬り落とした感触が手のひらに蘇る。あれは夢なのだと何度も何度も頭の中で唱えているのに、あまりに生々しい感触を感じて、完全に夢だと割り切ることができない。カウンセラーの篠崎は、剣士の霊と波長が合ったその影響が抜けきれていないだけだと、その夢は千鶴には何の関係もないのだと言ってくれた。でも、あまりに生々しい夢に、どうしてもそう割り切ることのできない自分がいた。
こんなに長く竹刀に触れないのは初めてだった。
いつも時間さえあれば防具を身につけ、竹刀を握っていた。その時間が消えるとぽっかりと大きな穴が空いたみたいで、退屈だった。
「私から剣道を取ったら、何も残らない、のに。あれは、ただの夢なんだから、気にする必要なんてない」
そう口にしてみる。だが、竹刀を手にするとどうしてもあの、人の肉を斬る感触が蘇ってきて、握り続けることができない。
頭に浮かぶモノを慌てて振り払い、立ち上がった。
「走ってくる!」
母に告げて家を出た。何か言いたげな表情を浮かべている母の顔を見ることはできない。母も父も、そして道場の人たちもみんな千鶴を心配してくれている。それはわかっているのだが、まるで腫れ物に触るような扱いに辟易していた。
タ、タ、タ、と一定のリズムで走る。剣道にも当然体力は必要なので走り込みはしていたが、陸上をしていたわけではないので、さほど長く走ることはなかった。竹刀を握る前の準備運動程度だ。だが、今は違う。そこそこ長い距離を走っている。
「は、は、は」
一定のスピードで走る。景色や道を見ることなく、まっすぐと走って行く。苦しくなればなるほど余計なことを考えなくてよくなる。
「はぁはぁはぁ」
距離にしてどのくらい走ったのかはわからない。だが、流石に苦しくなってきて近くの公園のベンチに座り込む。カバンの中に入れていた水筒からお茶を飲んだ。ほどほどに冷えていて、でも、冷たすぎないそのお茶が気持ちよく喉を潤してくれる。
一息ついた千鶴は、膝の上に軽い衝撃を感じて、下を見た。そこに、真っ白い猫がいた。毛並みがよい、可愛い猫だ。その猫がくるん、と体を丸めて膝の上に乗っている。
「え? 猫……?」
首輪もその他、飼い主を示すものも何もない。野良にも見えるがそれにしては随分と綺麗な毛並みをしている。ただ、飼い主らしい人の姿は見えない。
「君、迷子? ねえ、私、どうすればいいのかな? 剣道のことが頭から離れないんだけど……でも、竹刀を握るのは、怖い……あの、肉を断つ感触が忘れられない……って、何言ってんだろ、猫に言っても意味ないのに……」
疲れた頭で不意に口にした言葉に自嘲気味に笑った。こんな猫相手にそんなことを話すなんて、我ながらおかしいと思う。それでも、その猫がクリンとした瞳をこちらに向けてきていて、その瞳にどきりとする。まるで猫が「君はどうしたいの?」とでも聞いてきているかのような気がした。そんなことあるはずがないのに。
「ありがとう、猫ちゃん。話したらスッキリした」
軽く猫を撫でてから立ち上がった。心なしか、気持ちが楽になったような気がする。誰か(人ではないが)に話すと楽になる、というのは本当のことらしい。