~繋がる~
愛純奈は一人、大久野島に居た。2018年の西日本豪雨で、一部損壊した遺構もあるため、立ち入り禁止のところもいくつかあるが、「ここで毒ガスを作っていました」という、黒歴史とも言える雰囲気はそのままだ。
神川のゼミ室でたまたま見つけた本は、祖父の俊之の著書だった。借りて帰ったその日から、「必ず大久野島に行く」と決めていた。実は、幼い頃に家族で大久野島へ行ったことがあった。ウサギが寄ってきたことと、たくさんの大人達が手を合わせていたことを、ぼんやりと覚えている。愛実が愛純奈に、「おじいちゃんはね、ここでお仕事をしたんよ」と言ったのだが、当時の愛純奈には意味が分からなかった。
愛純奈の祖父、俊之は、大久野島で毒ガス製作に携わっていた。当時14歳だった。その時の日記を保管しており、それらの手記をまとめて、2000年に出版した。すぐに絶版となったため、手にしている人間の方が珍しい本となった。
毒ガス貯蔵庫跡に立つと、立ち入り禁止の柵の向こうで、ウサギが休憩していた。自分の祖父が、この地で毒ガスを作っていたのかと思うと、愛純奈は何とも言えない気持ちになった。俊彦が生前、「中三の時、親父から毒ガスの話を初めて聞いて、信じられなくて距離を取るようになってしまった。自分にその血が流れていると思うと嫌で、広島を出た」と言っていたのを思い出した。
思春期で多感な時期に、父親が人殺しのための毒ガスを作っていたという事実を知らされたら、誰だって混乱するだろう。両手の関節が全て真っ黒なのは、毒ガス工場で働いていた人の後遺症であり、国のために力を注いだ勲章でもあると俊之から聞いた。俊彦は信じたくなかったが、紛れもない事実だった。
俊彦は高校を出てすぐ、広島から離れたくてとりあえず岡山の専門学校へ行き、建築家を目指した。卒業後は更に広島から遠い場所へと離れて実務経験を積み、着々と一級建築士への道を歩んでいった。親が毒ガスを作っていたことを知らない場所へ…広島ではない場所へ…そんな思いを抱えながら生きた。29歳で、三度目の挑戦にして一級建築士の試験に合格。30歳を迎える年、「急に広島に帰りたくなった」とのことだった。
大久野島の毒ガス資料館へ足を運んだ30歳の俊彦は、当時使用した防護服、製造機械、写真類の展示をしっかりと見た。人によっては耐えられないだろう。特に、実験された人達の写真は、直視できるものではない。だが、俊彦は目を逸らさなかった。ふと、俊彦の隣で涙を流す女性が居た。それが、後に妻となる女性、愛実だった。
愛純奈は、俊彦と愛実が出会った資料館に行き、このストーリーを思い出しながら展示物を見た。20年間、父の死をどうしても受け入れられずにいたが、何となくここに来れば、気持ちの整理が付くような気がした。
結局みんな、その時その時にできることをするだけだ。環境や立場、年齢、性別など、制限がある場所であったとしても、それでも生きていく。目が覚めた時点で、生かされている。
俊之は、確かに生きていた。あの時代を、この過酷な環境を生き抜いた。国のために働いた。そして俊彦に命を繋いだ。俊彦と愛実が出会い、愛純奈に命を繋いだ。みんな、生きていた。それは変わらない事実だ。そして今、愛純奈は生きている。もう、それでいいじゃないか、他に何を望むのだと、愛純奈は自分に問うた。肉体は消えても、魂は消えない。亡くなった人も、見えない小さな粒となり、空中をさまよって存在している。消えたようで、消えていないのだ。つまり、みんなそばに居る。今も、今までも、これからもずっと。
愛純奈は、法医学の仕事が好きだ。法医学に出会わせてくれたのは、紛れもなく俊彦だ。もっと言うと、俊彦の死だ。誰かの死が、今を生きる人に影響を与える。愛純奈は、それを自分の人生で立証している。
もっと祖父に、話を聞きたかった。父から聞けば良かった。そんな後悔を胸に、翌日、愛純奈は広島市の自宅へ帰った。ほんの2日空けただけだが、もう1週間ほど帰っていないような、久しぶりな感覚だった。丸3日仕事をしないなんてことが、ケガをして復帰して以来なかった。明日から仕事に行けることに、愛純奈はワクワクした。こんなに仕事が好きだったのかと、自分で自分のことを笑った。
「ただいまー」
リビングには、省吾と龍哉が居た。
「おっかえりーー!」
「お帰り、姉ちゃん」
「ん。部屋で休むわー」
「おぅ、ゆっくりしんさい」省吾は、いつもの笑顔で言った。
愛純奈が2階の部屋へ入ったような、ドアをパタンと閉める音に耳をそばだてて確認した省吾と龍哉は、「あっぶねーー!」と吹き出した。
「姉ちゃんに聞かれたらマジでハズいっしょ」
「ハズいどころの話じゃねーし。本気でビビったわ…」
「ぷふっ…省って、おもろいよな」
「なんだよー」
「まぁまぁ、そうはぶてんなって」
省吾はほうじ茶を一口飲み、1回ため息をついてから、改めて切り出した。
「で、もっかい聞くけど…お前…どうやってプロポーズしたん?」
「っっ…わりぃ…!なんか笑っちまうわー!」龍哉は笑いながら、ほうじ茶をすすった。
「なんだよ…こっちは真面目に…」
「だからゴメンって~!もー、姉ちゃんのせいじゃわ。帰るなら帰るってLINEせぇよなー」
「え?愛純奈ならそういうの言ってそうじゃけど、なかったん?」
「ん。ないない…あれ?」
龍哉はスマホを操作して、愛純奈からLINEが来ていたことに気付いた。ちょうどほうじ茶を入れていた時だったので、気付かずにそのまま省吾と話を続けてしまっていたようだ。
「お…俺か…」
「んだな」省吾はクスッと笑った。
龍哉は改めて省吾を見つめ、ニヤニヤしながら聞いた。
「遂に、決めましたか~?」
「ん…まぁ…」
「おぉ~~!!やっと来たかー。長かったな~もう何年?20年くらい待ったで、俺は」
「なんでお前が待っとんのよ」省吾は少し笑った。
「待った待った~。姉ちゃんがヘンな奴と付き合うたんび、なんでかなーって俺は悲しかったよ。マジで何考えとんじゃろって。こんなすぐそばにさぁ、省がおるのにさぁ」
「龍…」
「省がさ、カメラマンの修行?とかって、広島出てったじゃん?あん時さぁ、マジでどうなるかと思ってさぁ」
「どうなるって?」
「姉ちゃんと省、離れたらどうなるんかなって。あれってさ、姉ちゃんに彼氏おったけぇ、広島出てったん?」
龍哉に聞かれて、省吾は思い出していた。4年近く前、師匠の紘希氏から「行ってみないか?」と誘われた。カメラの仕事は楽しい。もっと上達したかったし、自分の可能性を広げたかった。紘希氏に言われたことには、ほとんど「NO」と返したことがない。その時も直感で、「行ってみたい」と感じたので行ってみることにした。
が、正直言うと、愛純奈と3年間も物理的に離れてしまうことは気になっていた。当時、愛純奈には交際相手が居て、結構長く付き合っていたし、もしかしたらこのまま結婚かも…と考えた省吾は、もう自分とどうにかなるなんてことはないのだろうと、半分は愛純奈を諦めるためでもあった。
「そうじゃな…まぁぶっちゃけると、それもあった」
「そっか…じゃぁ、帰って来て、姉ちゃんがフリーって知って、嬉しかった?」
「フッ…嬉しいっつーか…ん~…そう…かもな」
「ふふっ」龍哉はほうじ茶をすすった。そして、少し遠くを見ながら続けた。
「姉ちゃんはさ、ずっと正直になれんかったんよ。父さん死んで、大好きな人がおらんくなって、甘えられんくなってさ。弟はまだ小学生だし、自分がしっかりせんといけんって、思ったんじゃろうね。母さんのこと支えよう、父親の役割をしようって」
省吾は黙って聴いていた。龍哉は5つ年下だが、自分よりも大人びているな、きっと自分には分かり得ない、壮絶な経験をしてきたのだろうなと思った。
「姉ちゃんはさ、俺の幸せをとにかく願ってた。父さんの死因が分かるまでは、他のことはしないって…。他のことってのは、多分…恋愛とか結婚のことだと思う。俺には、『好きな人と一緒に居ろ』って、しょっちゅう言いよったけど」
「そうなんや…」
「うん…」
数秒間、静かな時間が二人を包んだ。
「あの日…省が帰って来て、みんなで居酒屋で飲んだ時さぁ、姉ちゃんの顔見た?すっげぇ嬉しそうだったよな。アレだよほら、ご主人様が帰って来たワンコみたい」
「フッ…確かにな」どちらかというと、愛純奈の方が飼い主で俺が犬っぽいのだが、と思ったが、省吾は龍哉の話の続きを待った。
「あの時俺は確信した。姉ちゃんの心ン中には、やっぱり省がおるんやなって」
省吾は照れて、視線を下げた。龍哉は腕を組み、名推理を話す探偵のような表情で頷きながら続けた。
「やっぱり省なんよ。母さん死んでから、仕事で上手くいかんことが続いて、その時たまたま近くにおったんが、同じ職場の人やったんじゃろうけど…」
当時の交際相手のことだろう、と、省吾は想像した。会ったこともないが、愛純奈が付き合うぐらいだから、きっとイイヤツだったんだろうと、省吾は勝手に思った。
「まぁでも、俺も大阪におったけぇ、彼氏おるって知ったのも、だいぶ経ってからだしさぁ、どうしようもねーわなぁ」
龍哉はしみじみと、最後にため息をついた。龍哉は表情をコロコロと変えるので、見ていて面白いなと省吾は思った。
「あ、ゴメン。話が逸れたわ。プロポーズねぇ…」
いきなり本題に戻るので省吾は一瞬驚いたが、これは山田姉弟にはよくあることだ。
「省ってさ、今まで付き合った人で、結婚考えたの一人もおらんかったん?」
「あ~…ん…おらんね…」
「そうなん?」
「ん…なんかさ、ピンと来なくて。俺、小さい頃から母親と二人で、親が揃ってんのがよく分かんねぇっつーか。あ、龍ントコの親はさ、いつも仲良くて、いいなって思っとったよ。羨ましかった。でも、結局よそン家だし、自分のこととして考えらんねーっつーか…」
「そっかぁ…で、今は自分のこととして考えられるようになったってワケ?」
「いや…まぁ…龍に泣かれちまったらなぁ…」
「…ん?」
「ん?って、こないだ泣きながら言うたやん。『俺の兄貴になってくれ』って」
「俺が?」龍哉は右手の人差し指を自分の顔に向けた。
「他に誰がおんねん!」
「マジで?ガチ?」
「マジでガチじゃわ」
「うわーーー。全ッ然覚えてねー!」龍哉は頭を抱えるポーズを取った。
「はぁっ?」省吾は声が裏返ってしまった。
「ま、とにかくおめでとうってことだわな!で、プロポーズの言葉は?」
「んだからぁ、お前はどうやってプロポーズしたんか?って聞きょーるんじゃが」
「ああー、そっかそっか。俺は、フツーに『結婚しよ』って」
「フツーに?」
「そ。シンプルに」
「指輪パカッて?」省吾は、手を指輪のケースに見立てて、パカッと開ける仕草を見せた。
「あはは!そーゆーんじゃなくて。俺ら、付き合っとる時からペアリングしとったけぇ、なんかもう改めて指輪がどうのとかなくて。楓があんまり気にせん人でさ。こっちはちゃんと、けじめっつーか、夫婦になるってのを覚悟決めて、色々と考えとったんじゃけど」
「うん」そりゃ色々と考えるよな、と省吾は想像した。
「なんやろな…あれこれ考えとったけど、結局は言いたくなって言うたって感じ」
「言いたくなって…」
「うん。サプライズとか、高級ホテルとか?色々調べて…でも、楓が喜ぶことを考えてたら、なんかちげぇよなって、一旦調べるのやめたんよね。で、いつものようにメシ食ってて、あ~、幸せじゃわ~って思って…気付いたら言うてたわ」
「へぇ~!なんかめちゃくそカッコエエじゃん!で?楓ちゃんはどんな反応じゃったん?」
「ビックリしとったけど、そのうち目が潤んで…『うん』って」
その時を思い出したのか、幸せそうな、恥ずかしそうな表情をする龍哉。省吾は、龍哉の人生の全てを知っている訳ではないのだが、どこか大人びていたり、人並み以上の苦労が垣間見えるのを時々感じていた。愛純奈と同じく、龍哉には幸せになってもらいたいと、ずっと思っていた。だからこうして、本当に今幸せなんだなと分かって、省吾は安心した。
「省はさ…」
「ん?」
「省は、省のままがいいよ。姉ちゃんがどんなことで喜ぶか、知っとるじゃん?」
「んまぁ…多分…」
「安心しなって。大丈夫よ。姉ちゃんはさ、省とおる時だけが、本来の自分でおれるんよ。省が思ったまま、そのまんま伝えればいい」
「うん…サンキュ」
「おぅ。お茶淹れるわ」
そう言って、龍哉は空になった湯飲みを2つ持って、台所へ消えた。照れ隠しだと、省吾にはすぐ分かった。龍哉にアドバイスをもらい、省吾はなんとなくだが分かったような気がした。やっぱり頼れるヤツだと思った。
しかし、あれだけ泣いて懇願して来たのに、忘れたというのは本当なのだろうか、と、省吾はあの日を思い出していた。「俺の兄貴になってくれ」「愛純奈と結婚してくれ」と、頭を下げたのだ。もし忘れたフリをして演技をしたならば、主演男優賞を授けようと、省吾は心の中で呟いた。
湯を沸かす龍哉の後ろ姿を見ながら、省吾は父と母のことを考えていた。自分がプロポーズすると本気になった時、「父はどんなふうに伝えたのだろう」と、もし生きていたら聞いてみたかったなと思った。母の圭子とは、もう何年も連絡を取っていない。会社員をしていた頃は同居していたが、カメラの道に進むと決めてから一人暮らしを始めてからは、時々連絡を取る程度だった。いつしか圭子にパートナーができたらしいと勘付いてから、連絡を控えるようになった。紘希から日本を発つことを提案された時、「圭子と離れるいい機会だ」と考え、「母さんは、父さん以外の人と一緒になっても構わない」といった気持ちを伝えた。圭子は、「今更結婚する気はない」と言っていたが、既に交際は数年間続いているようで、今後も変わらない付き合いをしたいと思っているとのことだった。
省吾は、自分が外国に行くことで、圭子がその交際相手と幸せになってくれればと思った。自然と連絡は途絶え、帰国してから一度電話をしてみたが、「この番号は現在使われておりません」のアナウンスが、省吾の耳に響いた。自ら離れたとは言え、このような形で終わるとは…と、少し寂しさを感じた。
「バタバタバタッッ」
リビング階段を勢いよく下りる愛純奈の足音で、省吾は現実に引き戻された。
「忘れとった~!ハイ、お土産食べてね~!」
愛純奈の手には、「うさぎのふんじゃないよ」と書かれた袋と、「うさぎの鼻くそ」と書かれた袋があった。それぞれ、チョコレートクランチとココアピーナッツらしい。
「コレね、喫茶があるんじゃけどさ、そこで『うさぎの鼻くソフト』ってソフトクリームがあってさぁ、それにコレが付いてんの。美味しかったけんお土産にしたん」
愛純奈は嬉しそうに、ココアピーナッツの袋を指差しながら、省吾と龍哉に説明した。
「…ふっ…」
先に省吾が笑い、続いて龍哉が笑った。
「なに~?そんなおかしい?」
「いや、別に。サンキュ。」省吾は愛純奈のお土産を受け取った。思わず「結婚しよ」と言いそうになったが、龍哉が居るのでやめておいた。
【2029.3】
今夜は満月。満月の夜に、愛純奈と省吾が必ずやることがある。省吾の部屋で、出窓から月を眺めることだ。省吾は、愛純奈の大好きなカフェラテビターを準備した。
今日は満月に加えて、もう一つ特別なことがある。愛純奈の母親、愛実の命日だ。丸9年となる。愛純奈はいつものように、出窓の張り出し部分に2つのリングを並べ、月の光に当てた。省吾はコーヒー、愛純奈はカフェラテビターを各々飲みながら、静かに並んで立っていた。すると、愛純奈がまん丸い月を見上げながら、話を切り出した。
「省吾さぁ、誕生日に家族旅行したの、覚えとる?萩に行ったの」
「もちろん。写真もあるしな」
「ふふっ。父さんと母さん、省吾のことホントの息子だと思ってた」
「うん、なんかすげぇ大切にしてくれたの、覚えとる」
「省吾のお父さんとお母さんにもね、ホントに感謝してるって。省吾を産んでくれてありがとうって、手紙書いて送ったことあるって、母さん言いよった」
「そうなん?そこまで?」
「うん。なんでか分かる?」
「えっ…なんでだろ…?」
愛純奈の両親が自分を可愛がってくれる理由なんて、省吾は一度も考えたことがなかった。俊彦も愛実も、自分の子供と省吾が仲良くしてくれていることが、単純に嬉しかったんじゃないのか。
すると愛純奈は、手帳から一枚の写真を出した。省吾はその写真に見覚えがあった。先日、たまたま愛純奈がリビングでうたた寝をしている時、テーブルの上にあったのを見てしまったのだ。
それは、エコー写真だった。愛純奈が起きてしまうとマズいと思い、すぐにその場を去ったが、ここであの写真に再会するとは夢にも思わず、省吾は驚きを隠せなかった。
「これ…」
愛純奈は微笑んだ。「これね、『しょうご』って子なんよ」
省吾は意味が分からず固まった。
「この子は、私のお兄ちゃん」
「えっ…?」
「母さんはね、一人目の妊娠の時に、流産したんだって。これは、16週の検診の時に撮ったやつ。この次の検診の時、既にお腹の中で赤ちゃんは、亡くなっていた…。この子ね、もう名前付けてたんだって。男の子だって、父さんが勝手に決め付けちゃってさぁ。それが、『しょうご』って名前で、予定日が6月19日なんよ」
「えっ…俺の誕生日…?」
「そう。1991年6月19日に生まれる予定のしょうご君。お空へ行ったハズのね。」
愛純奈はエコー写真を左手で撫でながら続けた。
「だけど、母さんが手話通訳をしてた時、たまたま出会った人と仲良くなって、その人の息子さんの名前が『省吾』で、しかも6月19日生まれだって知ったらさ…」
「そうか…それで…」
省吾は思い出していた。愛純奈の誕生日会に呼ばれて行った際、俊彦に誕生日を聞かれた。その答えに、驚きと感激で俊彦は泣いていた。愛実も瞳を潤ませて、その場に座り込んでしまった。まだ小学生だった省吾は、大人を困らせてしまったことに戸惑った。俊彦は省吾を抱きしめ、「ありがとう…」と何度も言った。
そういうことか…と、省吾はエコー写真の持ち主が愛純奈ではないことに安心した。一瞬でも神川との関係を疑った自分をぶん殴ってやりたいと思った。
「見て…いいか?」
「もちろん」愛純奈はエコー写真を省吾に渡した。
「しょうご君…」省吾はエコー写真の中の「しょうご」君を、左手の人差し指で優しく撫でた。
ふと気が付くと、愛純奈は瞳を潤ませていた。
「ありがと…省吾…産まれて来てくれて…」
省吾を見つめるその表情は、まるで愛実のようだった。
次の瞬間、省吾は愛純奈を抱きしめていた。そして、言った。
「結婚しよう」
「…えっ…?」省吾の囁きのせいか、愛純奈の耳が熱くなった。
省吾は、愛純奈をさらに強く抱きしめた。
「今…言いたくなった」
「…」愛純奈は涙を堪えていた。省吾は、もう一度言った。
「結婚、しよ」
愛純奈は、省吾の背中に腕を回し、精一杯頷いた。声にならなかった。涙が次々と溢れ出した。
省吾も頷いた。何度も頷いた。大きく息を吐いた。省吾も涙を止められなかった。
俊彦の死。愛実の死。そして今知った、「しょうご君」の死。死があるということは、そこに紛れもなく「生」があったということだ。今こうして愛純奈と居られるのも、単純に自分が生きているだけではなく、親や兄弟の「生と死」があったからだと、省吾はひしひしと感じていた。
産まれてきて良かったと、心から思えた瞬間だった。
次の日、省吾が家に帰ると留守だった。愛純奈は休みのハズだったが、どこかにでかけたのかと思ったところで、神川からの着信があった。
「もしもーし!」
「本田。今ちょっと話せるか?」
「ん?なんかヤベー話か?」
神川の異様な雰囲気が、電話越しに伝わって来た。
「ん…愛純奈さんに伝えるべきか、ちょっと迷っとんよ」
「…どしたん?」
「ん…あぁ、電話じゃやっぱアレだな。会って話したい。近々二人で会えるか?」
「おぅ。今から行けるで?」
「んなら、俺ン家、来れるか?」
「オッケー!」
神川は、いつもと違う様子で電話を切った。急いで伝えたいことがあるようだ。例の石森とかいうヤツのことだろうか。せっかく愛純奈と結婚するというのに、ヤツが動き出したのだろうか。省吾は、何とも言えない気持ちのまま、愛純奈のことを少し気にしつつ出かけていった。
「2月28日付けで、石森が名誉院長を退任しとるんよ。コレ、どう思う?」
神川は、省吾を家に招き入れるなり唐突に話し始めた。大田山病院で勤める友人から聞いた話なので、間違いないらしい。
「まぁ…ちょっとヘンだわな…」
「じゃろ?あ、愛純奈さん、勘付いとる?石森のこと、なんか言いよった?」
テーブルにヱビスビールを並べつつ、神川は聞いた。
「いや、多分勘付いてはないかな…ってか今日はまだ顔見とらんかったわ。休みの日はとことん寝よるしな」
「ふっ…もうすっかり家族やな。結婚とかせんのん?」
「あぁ…実はそのことで、報告がある…」
「マジか??遂に来たか??」神川は目を大きくして、少年のように瞳を輝かせながら聞いた。
「あぁ、愛純奈と結婚する」
「マジかよー!ちょちょちょ、まずは乾杯しよーや。ヱビスにして正解!」
神川は少しはしゃいだ様子で、ビールの缶を強めに当てたので、中身が飛び散った。一口飲むと、早速省吾に聞いた。
「んで?いつ?」
「いやいや、その石森って人の話は?」
「あとあと。本田と愛純奈さんの方が大事。で?いつなん?」
「日取りは、まだ。3月はほら、年度末で忙しいけぇ、それが落ち着いてから…かな」
「ふーーん。指輪は?」神川が興味ありげな表情をした。
「あぁ。愛純奈が、両親が付けとった指輪ずっと大事にしとるけん、なんか俺らには必要ないかなとも思ってみたり…」
「ほーぉ、ご両親の指輪ね」
「うん。いつもさ、ネックレスしとるじゃろ?あれ」
「あー!そうなんじゃぁ。愛純奈さんなら、それを付けたいって言いそうじゃもんな。で、本田は、それでえぇん?」
「ん?」
「なんかさ、証拠っつーかさ。オレのもの!じゃないけど…そういう気持ちを形にして、愛純奈さんにプレゼントしたいとは思わんの?」
「あー…なんだろ…俺の親さ、指輪しとらんかったし、なんかそういうの、よぅ分からんしな…」
「本田って、そういうトコあるよな…」
「そういうトコって?」
「いやなんか、こだわりがないっつーか…あっ、イイ意味でな」
「イイ意味で?」省吾は腑に落ちない表情だ。
「ま、とにかくめでてーな。日取り決まったら、ぜってぇ教えろよ?」
「分かった分かった。で、そっちの話は?」省吾は座り直して、正面から神川を見た。
「あぁ…石森な」神川は、一口ビールを飲んで、一度ため息をついた。
「前はさ、俺にしょっちゅう電話して来たり、ウチの院に来たりさ、結構困ってたんだけど…2月はほとんどなかったな…」
「今年になってから、神川のトコに会いに来たんだっけ?」
「そう。20年ぐらい会っとらんかったのに、急に現れて。あの時は、ホントに何かされんじゃないかって、怖かった…マジで、何考えとんじゃろ…なんかさ、どうやら病院を休んどったらしい」
「休む?どっか悪いん?」
「どうじゃろ…そんな様子は…」
そもそも神川は、まともに石森の顔を見ていないので、体調がいいのか悪いのかといったことは、分かりようがなかった。
「その石森先生…愛純奈にとってはすげぇいい先生なんよなぁ。愛純奈は、石森先生が休んどることとか、体調とか知っとるんかな?」
「んー…もしかしたら、愛純奈さんの方が詳しいかもしらんな」
「ほっか…」
しばらくの間、二人を沈黙が包んだ。先に口を開いたのは、神川だった。
「なんか…俺達で愛純奈さんを守るとか言いながら、俺、結局石森のことなーんも掴んでねぇし…スタッフで産休入る人が居てさ、その人がおらん間だけでも、臨時でスタッフ欲しいのになかなか人が来んでさぁ…頭ン中いっぱいいっぱいで、俺、何やっとんじゃろって」
広島の夜景を見ながら、頭を掻きむしる神川。そんな神川を見て、省吾は少し羨ましさを感じていた。省吾は事務所に所属するカメラマンで、経営なんて全くやったことがないし、やろうとも思わない。悩んでいる神川には申し訳ないが、そんな悩みがあるのも、立派な経営者だからだと、心の中では羨んでいた。
「偉いよ、神川は」
「ん?」目線を省吾に向けた。
「えらい」省吾は、微笑んで言った。
「ふっ…なんか今の顔、愛純奈さんのお父さんっぽかった」
「ははっ、愛純奈にもよく言われんだよな。『省吾って、時々父さんっぽい』って」
突然、神川が立ち上がった。
「よし、飲み行こーや」
「え?外じゃ出来ん話なんじゃろ?」
「石森の話は終了!飲み行こーや」
「お、おぅ」
「まずは、コイツ飲んでからな」
そう言って神川は、立ったまま缶ビールを飲み干した。
「所長、どうされたんですか?」
広法研の検査技師、飯田が話しかけた。愛純奈と仲が良く、プライベートでも時々会う。「生涯現役の検査技師」が口グセの、仕事が大好きな55歳。愛純奈のことを、娘のように慕っている。
「あぁ、山田先生宛てにレタパで届いとるんじゃけど、今日休みなんよなぁ…なんか色々入っとるっぽいんで、はよぅ渡した方がえぇものなんか…」
「どなたからなんですか?」
「石森先生」
「石森先生からあすちゃんに?」
「そう。なんじゃろうね」
「石森先生から届いとるよって、写真送ってみたらどうです?で、すぐに返事来たらビデオ通話にして、開封の儀式を行う」
「ほぉぉぉ…飯田さん、スゴいね…なかなか思い付かんよ」若干引いている様子の所長。
「まさか…」ニヤリとして、飯田は所長の顔を見て続ける。
「なんかヤバいもんが入ってるとか?」
「なに…ヤバいもんって…」
「さぁ?最近、大田山病院の名誉院長を退任されたそうじゃないですか。こんな中途半端な時期に、おかしいと思いません?」
「まぁ、確かに」
「所長、あのウワサ、ご存じないです?大田山病院で、患者が謎の死を遂げてるって」
「あー。健康な人が、寝てる間に死んじゃうやつね」
「そうそう。あれ、殺人じゃないかって言われてるんですよ。それで、石森先生が関わってるってウワサが」
「そうなん?全くヒドいなぁ…」
「爆弾とか薬とか入ってんじゃないですか?」
「ちょっとぉ…飯田さん怖いから…」
「たちまち、あすちゃんにLINEしてみますわー」
「あっ、ハイ、よろしく…」
夕方、愛純奈は広法研へ向かった。飯田からのLINEで、石森からレターパックで届きものがあると知り、「夕方取りに行きます」と返事をした。
愛純奈の机の上に、それらしきレタパが置いてあった。石森から直接なんて、緊急で見て欲しい文書があったのだろうか。医師会関連のものならば、個人宛には届かない。持った感じは軽いが、何となく気分が重くなる。昨日の夜は、省吾からプロポーズされてフワフワしていたのに、一夜明けるとここまで気分が変わるものかと、せっかくの休みを「プロポーズ明けの日」として、ただじっくりと味わいたかった。「明日見るので置いておいてください」と伝えても良かったのだが、なぜか胸騒ぎというか、「今すぐ見なさい」という声がどこからか聞こえてきた気がしたのだ。
封を開けて数秒後、愛純奈は固まっていた。石森直筆の手紙と、USBメモリ数本、鍵が同封されていた。その手紙には、このようなことが書かれていた。
(石森からの手紙全文)
山田先生へ
この手紙を読んでおられるということは、私はもう、この世に存在していないということです。
どういうことかと申しますと、3月現在私は、肺癌のステージⅣで、余命幾ばくもない状態です。昨年12月中旬、診断が下った時点で余命は3ヶ月程でした。私はもう十分にこの命を全うしたと判断しまして、安楽死を選び、自らの手で実行したのです。自宅にあるのは、私の魂の抜け殻です。出来るだけ早く、私の身を献体へと協力させていただきたいので、山田先生にはお手数ですが、この手紙を読み終え次第、然るべき所へのご連絡をお願いします。
なぜ、このようなお手紙を差し上げたのかと、疑問をお持ちでしょう。今から、山田先生が一番知りたいであろう20年前の出来事について、全てここに綴ります。事実を語ると、お約束します。
20年前のことをお伝えするためには、私の生い立ちも必要な情報となりますので、ご興味はならずとも、どうぞ最後まで目を通していただけたらと思います。
私の父、石森勝二郎は、15歳の時に大久野島で、毒ガス製作に携わっていました。これは、山田先生のお爺さまである山田俊之氏の著書にもありますので、もしかしたら山田先生はご存じだったかもしれません。出版後すぐ絶版になっているので、この本を持っている人の方が珍しいでしょう。
父は、毒ガスの後遺症で呼吸器を患い、40歳の時に亡くなりました。私は9歳でした。父は無類の本好きで、よく私を図書館へ連れ出してくれました。実は、父は医者に憧れていたそうで、私は幼いながらにも、父の想いを叶えたいという気持ちがあったのでしょう…父の病気を治してやりたかったし、いつの間にか、医者に憧れを抱くようになりました。
後に、母が肝臓癌で亡くなりました。私は15歳でした。当時、日本で抗がん剤はまだ主流ではない上、母は手術を拒否したため、がんを発見して3ヶ月で、苦しみながらこの世を去りました。母は、最期にこう言いました。「もう、殺して」と。
私の脳裏には、父と母の苦しむ姿が焼き付いていました。どちらも、大変辛そうでした。まだ子供だった私には、到底耐えられるものではありませんでした。そして思ったのです。自分が死ぬ時は、安らかでありたいと。猛勉強して医者になり、安楽死の薬を作ることを、決意したのです。
奨学金を借りて大学へ入り、大学2年生の、ある夏休みのことです。両親の遺品を何気なく見ていた所、勝二郎と山田俊之氏との、文通を見つけました。そこにある住所を頼りに、私は俊之氏に会いに行きました。
当時、俊之氏は50歳で、俊彦さんという、私と同い年の息子さんの存在を、お写真で教えてくださいました。そこから私と俊之氏との文通が始まり、数年に一度、私が会いに行くというのを互いに楽しみにしておりました。後に、お孫さんが産まれたことも、お手紙とお写真で教えてくださいました。
2000年、毒ガスの障害者認定が決まったことのお知らせが、最後のお手紙でした。ご高齢でしたし、「体がつらい」とよく仰っていましたし、いくらか想像がつきました。
私は30歳頃から、極秘で3人の医師と共に「チームCD(ChooseDeath=死を選ぶの意)」を結成し、安楽死の薬を研究し始めました。その後、移植医療に携わることとなり、「死後も生きて行ける」という夢のような医療に、魅力を感じました。もしも患者が、抗がん剤のような苦痛を伴うものを使わず、安楽死の薬で苦しまずに死ぬことが出来たら、どれだけいいだろうかと考えました。
もちろん、誰彼構わずという訳ではありません。死を希望する人で且つ、移植医療のドナーであることを条件にすれば、人の「死」を誰かの「生」に繋げることが出来る。何年待つか分からない日本の移植医療で、これは希望となるのではないかと。
そして私達チームCDは、当時まだ建ったばかりの大田山病院を乗っ取りました。院長や部長を落とすのは簡単でした。彼らは医者ではありますが、極々普通の人間です。人間行動学や心理学を学べば、人間の心を動かすなんて、赤子の手をひねるようなものです。特に、医者のような特殊な人間ほど。あとは、いくらかの金銭を積めば、悲しいかなどんな人間でも簡単に、落とせてしまうものなのです。
チームCDは、院内に研究室とオペ室を設けました。研究室には数台ものPCを揃えて、サイトを運営しました。そこへ、自殺願望のある人が集います。我々は、単に死にたいという希望を叶えることはしません。死んだ後、人のお役に立つという気持ちのある人にだけ、チャンスを与えたのです。希望者とカウンセリングをして、研究中の安楽死の薬「ネオルール」を投与することを希望した人にだけ、極秘で薬を投与しました。
そうやって研究を続けるうちに、心臓移植を求める患者と、安楽死を希望する者とを繋げられないかと思ったのです。チームCDで話し合った結果、こんな案が生まれました。
「心臓移植を求める患者の家族に、入院中の患者でドナー希望者へ、ネオルールを投与させる」
通常の人間だったら、おかしいと思うでしょう。しかし、我々はずっと真剣にやってきました。苦しまずに死ぬ方法を、研究し続けました。そして、いつまでも進展のない移植医療に飽き飽きしておりました。
ドナーを待ち続ける間にも、病状は刻々と進み、歳も取ります。いざ手術となった時に、長時間の手術に耐えられない可能性も出て来ます。我々は特に、若い人の未来を救いたかったのです。移植という方法はあるのに、それに踏み出せずに何年も過ごすなんて、もしも親だったらどうだろうかと。
ネオルールを使えば、体には何の負担もありません。3日かけて全身を巡り、眠っている間に亡くなります。そのままオペをすれば、確実に移植が出来ます。脳死と同じだけの臓器を、提供出来るのです。なんて夢のあることだと、我々は感激しました。
そして、2008年11月27日。山田俊彦氏が亡くなりました。その原因は、ネオルールの投与による心停止です。
チームCDは、極秘ではありましたが規模が大きくなっていました。我々に助けを求める人々が後を絶たないのです。そのうち、我々の手下のような存在が出来て、彼らは常に、我々の指示に従って動いていました。いわば、駒のようなものです。
その駒の1つである男が、チームCDのメンバーの医者に、金銭を要求しました。つまり、脅したのです。この研究をバラされたくなければ、1億円寄越せと。脅された医者は、「この薬を患者に投与したら、3億やる」と言いました。駒の男は、その条件を受け入れたのです。
私は反対しました。移植医療を望まない者に、安楽死の薬を持たせてはならないと。しかし、それは無駄でした。私は研修医の頃から、その医者の支配下にあり、従うほかありませんでした。
駒の男は、3億円手に入るならと、喜んで患者に薬を投与しました。夜勤中に、看護師の巡回が済んだのを確認して、点滴ボトルに刺すだけです。ほんの数秒です。患者が亡くなるのは3日後。それも、寝ている間に、文字通り眠るように亡くなります。誰にも気付かれることはありません。
が、それは本来、別の患者だったはずでした。金銭を要求された医者が示した患者は、隣の部屋の患者だったのです。名前がよく似ていたので、暗い中でよく読めず、間違えてしまったのでしょう。
その駒の男は、「患者が死んだのでカネを取りに来い」と呼び出されました。病院から離れた河川敷で、例の医者にネオルールを筋注され、その場で逝きました。ネオルールは、筋注すると3分で効果が出ます。
私は、あの日の朝は当直明けでした。ある患者が夜間に急死したと申し送りがあり、名前を聞いて驚きました。私がよく知る人と、同姓同名だったのです。
患者が移された個室へ行くと、俊之氏に見せていただいたお写真の顔と、全く同じ人がそこで眠っていました。私は、慌てながらもどうにかしたいと思い、あることを思い付きました。俊彦氏のカルテには、臓器提供意思表示の所に、「全ての臓器を提供する」とあったのです。俊彦氏の心臓を、今まさに心臓移植を待ち望んでいる患者に提供出来ないかと。
心停止して数時間。過去にアメリカで、「死体心臓を用いた心臓移植」の例があることは有名ですし、まだ希望はあると思いまして、院長を説得しました所、承諾を得たので執刀しました。
「心臓移植を待ち望んでいる患者」とは、私の姉の娘、つまり姪でした。私に姉がいたことは、医学生の頃に知りました。何年も連絡を取っていなかったのですが、数年前に突然、姉から相談がありました。それが、姉の娘の心臓移植に関することでした。離婚して、治療に充てるお金がない。娘のドナーがいつ現れるかも分からない状態で、もう心が限界だといった内容でした。私はすぐに院長へ相談し、入院させました。入院費用は全て、私がもちました。
ネオルールを使えば、今すぐにでも誰かの心臓を止めて、すぐにでも姪に移植できる。一旦止まって時間が経った心臓でも、移植は理論上可能です。ですが、まだ日本では件数が少なく、大田山病院でも前例がありませんでした。いくら海外で経験を積んだ医師達も、執刀は拒否しました。
姪の入院から数年の時が経った頃、俊彦氏の死があり、私は心に決めました。姉に全てを打ち明け、姪のオペを承諾してもらったのです。
山田先生はここまで読まれて、私のことを飛んだおかしい人間だと思ったでしょう。いいえ、そもそも同じ人間とも思いたくないかもしれませんね。みんな、自分のことや自分の家族が一番なのです。姉は、「娘の命が助かるなら」と、戸惑いながらもオペを承諾しました。私のことを、黙っていてくれました。
後に、姉は風邪をこじらせ肺炎になり、そのまま亡くなったことを知りました。姪に関しましては、全く連絡先も分からないので、現在どこで何をしているのかは不明です。もしも元気に過ごしているとしたら35歳、今年で36歳になるのではないかと思います。
山田先生のお父様、俊彦氏の心臓は、大変綺麗な心臓でした。通常、成人男性の心臓と15歳の少女の心臓が合うはずがないとイメージしがちですが、俊彦氏は小柄で痩せ型、姪は背が高く、体重の差も範囲内で、奇跡的に二人の心臓はマッチしたのです。
俊彦氏の奥様、つまり山田先生のお母様に、俊彦氏の臓器提供意思表示についてお伝えし、署名をいただいた際、何とも言えないお優しい表情だったのを記憶しております。「俺は親孝行もしてないし、ずっと自分勝手に生きてきたから、死ぬ時ぐらいは役に立ちたい」と、臓器提供意思表示をすることについて、過去に話したことがあるそうです。ご夫婦で臓器提供についてお話をしているなんて、なかなかありません。本当に、貴重な存在です。その意思表示のおかげで、一人の命が救われました。
こんなことを申し上げても、俊彦氏はもう帰ってきません。俊之氏に、どんなことを言われても受け入れる次第ですし、山田先生がどれだけ私を憎んでも憎みきれないのは、重々承知です。
もう一つ、お伝えしなければならないことがあります。2年前の5月、山田先生が背中にケガを負ったことがありましたね。その犯人は、チームCDの駒の一人でした。私のことを個人的に恨んでいる者が、私の周りにいる人を傷付けていったのです。山田先生の他にも数人、ケガを負った知人がおります。
あの時、たまたまあの道を通りかかって、山田先生がうずくまっていたのを見て、すぐにピンと来ました。その犯人は、チームCDの医者が例のごとく、死へと追いやりました。
その後、傷の方はいかがでしょうか。きっと、心の傷の方が深く、まだ癒えないのではと考えております。私のせいで、大変申し訳ありませんでした。
ここまでで、私から山田先生にお伝えする事は全てです。どれだけ謝罪しても許されないことは承知の上で、勝手ながらお手紙を差し上げました。私の研究内容、ネオルールのレシピ、過去のデータを全てUSBに保存したものを同封しております。皆様のご判断で、然るべき機関へ提出なさってください。そして、私の体を使って、ぜひとも未来の医療へ活かしてください。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
2029年3月9日 石森勝三
マスコミに追われる日が1ヶ月程続き、広法研と大田山病院は、全国で有名な場所となった。20年前の「事実」が分かり、愛純奈の長年の想いが叶った訳だが、心身共に疲弊していた。むしろ、知らないままで良かったのではないかとさえ思った。
あの日からしばらく、愛純奈はショックで声が出なくなった。警察の人間から何度も同じことを聞かれたり、疎遠だった医学部時代の同期から連絡が来たり、毎日いいことなんかなかった。省吾は、そんな愛純奈を気遣いつつ、変わらず接した。結婚の日取りについては、一切話題がない。省吾と龍哉は話し合い、愛純奈からその話題が出るまでは、こちらからは出さないことにしようと決めたのだ。
所長と話し合い、愛純奈は仕事を続けることにした。何かしていないと、逆におかしくなりそうだったのと、法医学者として生きている姿を、俊彦や愛実に見せたかった。
そんなある日、楓から愛純奈に連絡があった。「良かったら気分転換にウチ来ん?」と、LINEのメッセージと柴犬のスタンプが来た。久しぶりに会えるし、まだ小さな明菜を見ることで癒やされるかもしれないと思い、即OKの返事をした。
愛純奈が楓と会うのは、本当に久しぶりだった。ビデオ通話で話すことはあっても、こうして家でゆっくり話すのは、今年になって初めてだった。
「おぉきゅうなったね~!」
明菜を見た瞬間、親戚のおばちゃん風なしゃべり方になる愛純奈。というか実際、弟の娘、つまり姪なので、愛純奈は紛れもなく「おばちゃん」だ。
「あーちゃん、言い方ウケる」
「だってー、ホンマにおっきくなっとるんじゃもん!何ヶ月?」
「今ね、9ヶ月」
「そっか~!ハイハイするん?」
「するする~!速いんよ~!龍ちゃん、追いつかんからね」
「そんな速いん??」
「ぶり速いで」
楓の言い方が面白くて、愛純奈は久々に声を出して笑った。すると、明菜もハハハと声を出した。
「まさかね~、ウチが子供産むなんて、信じられんよ」
楓はしみじみ言った。
「そうなん?子供キライ?」
「んーん、子供めちゃくちゃ好き」
「ほぅよね?前にそんなこと言いよったもんね」
「うん…ウチね、小さい頃から入院ばっかでさ。大人になれんかもしれんって、ずっと思っとったんよ」
「え?それ初めて聞いた!」
「初めて言うたもん。龍ちゃん以外では、あーちゃんが初めて」
「そうなんや」
「うん。ウチね、心臓悪くて入院しとったん。移植せんと助からんってやつ」
「移植?え?したってこと?」
「うん。見る?キズあるよ」
「えっ…いいん?」
「いいよいいよ~。ちょっと待ってね…あ、ついでに明菜におっぱいあげるわ」
明菜が楓の膝を掴み、立ち上がりそうな動きを見せる。
「もう立てそうじゃね…」
愛純奈は明菜の猛スピードな成長ぶりに驚いていた。
「ほら、これこれ」
楓は明菜に乳を与えながら、胸骨の部分を指差した。鎖骨の中心から、真っ直ぐみぞおち辺りまで手術痕があった。
「15歳の時にね、急に手術受けられることになってさ。心臓をもらって、ウチは生まれ変わったんよ。あーちゃんの誕生日と同じ日に」
「え?11月27日?」
「そう。今年で21年じゃね」
「21年…前…?15歳…」
愛純奈の心臓は、今にも飛び出しそうな程にバクバクしていた。
「楓ちゃん、35歳?」
「うん、35よ。もうすぐ36じゃわ~アラフォーじゃね~」
愛純奈は、恐る恐る聞いてみた。
「ちなみに…どこの病院じゃったん?」
「大田山病院よ」
「大田山…!」
「大阪におったんじゃけど、入院するのに広島に来て。2年くらい入院しとったんよ。そこで、奇跡的に合う心臓が見つかって…元気に退院しただけじゃなくてさぁ、大人にもなれて、仕事もできて、結婚もできて、こうやって子供も産めてさぁ…」
愛純奈は、言葉が出なかった。あの時の…父さんの心臓がここに…?石森が執刀したのは、楓だったのか…。
「父さん…」愛純奈は、楓の胸の手術痕を見つめた。
「あっ…あーちゃん?どしたん?泣きょーるん?」
楓は、右腕に明菜を抱いた状態で、左手で愛純奈の頭を撫でた。
「あーちゃん?」楓は、訳が分からない。
「父さんっ…うぅっ…父…さん…」
愛純奈の瞳から、大粒の涙が次々と溢れ出して止まらない。楓は何も聞かず、ただただ愛純奈の頭を撫でていた。
父さん。死んでなかったんだね。ずっと、ここにいたんだね。