~想う2~
【2008.9】
「これを、あの患者に投与するだけでいい。夜間の巡回が、最高のチャンスだ」
「はい。分かりました」
男は、透明な液体の入った小さな注射器を受け取った。
石森に言われた通り、夜間の巡回中を狙い、男は病室に忍び込んだ。4人部屋で、患者は全員寝息を立てている。看護師がこの部屋を巡回し、先程出て行ったばかりなので、ここに再び戻ってくる可能性は限りなく低い。大病院は夜勤でもスタッフが多いが、さすがに自立度の高い患者が入院している病棟では、看護師の巡回はさほど頻回にはない。チャンスはいくらでもある、ということだ。
男は、患者のベッドに近付いた。名前を確認し、点滴ボトルの底に注射器を差し込み、透明な液体を注入した。ほんの数秒のことだ。結果は、3日後に分かる。
3日後、男の思惑通りにことが進んだ。患者が死んだのだ。男は、石森の元へ向かった。
「約束したものを…」
「もちろんだ。もう振り込んであるから、好きなだけ使いなさい」
「あっ…ありがとうございますっ…!!」
男は涙を流した。石森は微笑んだ。
「これで、あなたのお子さんは助かりますね。一緒に走り回るのが、夢だったのでしょう?」
「はっ…はいっ…うぅっ…」男は涙を流した。
「先生、ホントに…あっ…ありがとうございました…!!」
男は深々と頭を下げた。石森はゆっくりと頷いた。男は涙を流しながら去って行った。
これで、また一人の子供の命に繋がった。患者の気持ちを繋いだ。この薬を研究し続けて15年以上。日本ではまだ認可されていないが、必ず役に立つ日が来ると信じている。
「神川先生、先日4階病棟で急に亡くなった患者さん…」
主任看護師が、やや声を抑えて話しかけた。神川俊彦は、カルテに記入していた手を止め、看護師の方を向いた。
「あぁ、救急搬送されて、僕が開頭オペした人だよね?もうすぐ退院だって、嬉しそうに話してたのにな…」
「えぇ。その患者さんの担当だった、病棟の看護師が、辞めたそうです」
「そうか…看護師が責任を感じることはないのだが…」
「患者さんは、基礎疾患もなく健康で、経過は至って良好でしたよね」
「うん…大きな事故だったが、オペも成功した。幸い脳の後遺症はなかったし、退院してリハビリへ転院だったハズだ…」
「ウチの病棟の看護師達も、その患者さんのことは耳にしていて。自分達も、同じことが起きたら辞めるだろうって話してるのを、さっき聞いてしまいまして…」
「ん…こういうことは、誰も悪くないからね…ヒトが亡くなるのは、医療職には避けられないことだ。対応の仕方や心の持ち方、そう言ったことを、みんなで話し合ったり教えていくのも、今後は必要だね」
「先生、ウチの看護師みんな、素晴らしい子達です。患者さんが亡くなることは、ゼロには出来ないとしても…それでも、患者さんに元気になって欲しい、退院して社会復帰して欲しいと思って、毎日看護しています。もしも…もしも、同じことが起こったとしても…辞めないで欲しいです」
「うむ。僕もそう思うよ。話してくれてありがとう」
神川俊彦―神川隼の父で脳外科医―は、ある噂が気にかかっていた。先日の医師会で聞いた話だが、ここ数年、大病院で患者が急変して死に至るケースが勃発しているとのことだ。しかも、どの患者も基礎疾患はなく、そろそろ退院という頃に心臓麻痺で亡くなっている。いずれも、巡回中の看護師が、患者が呼吸停止していることに気が付いたものの、時既に遅しというものであった。
「人間の死因は全て心停止」と言ってしまえばその通りだが、入院加療していた患者で、基礎疾患もなく経過良好の場合、寝ている間に突然心臓発作を起こすというのは稀だ。高齢者ならまだしも、医師会のメンバーによると、どの患者も30~40代と若いらしい。「もしかしたら殺人かも」という噂まで立っており、ウチの病院では勘弁と思っていた所だった。
入院中に患者が亡くなることそのものは珍しくない。世の中では、医師というものは全ての患者の命を救うスーパーマンか、ゴッドハンドの持ち主だと思われている部分もあるが、救えない命は数知れずある。みんな、持てるだけの知識と技術を持ち寄って、全力で目の前の患者を救うことに力を注いでいる。その結果、助かることもあるし、死に至ることもあるのだ。
神川医師がどうにも出来なくて歯痒いのは、死に至った患者と関わった、看護師の心のケアだ。関わる時間が長かったり、死の直前に自分が関わったとなると、「自分のせいでこの患者は亡くなった」と、自分を責める看護師が後を絶たない。それだけいつも、真剣に看護をしている証拠でもある。誰も悪くはないのだ。人はみな、必ず死ぬ。誰かのせいで亡くなるんじゃない。神川医師は、「全ての人は寿命を全うしている」という考えだ。それが、どのような死に方であっても。
神川医師は、遅い昼食を摂っていた。午前中にオペが続き、やっと一段落した所で、看護師達から「休憩に行ってください」と言われた。食堂には、スタッフ以外にも患者や、その家族、一般人も自由に入れるので、常に人が居る。15時過ぎても、ランチの定食が食べられるのは非常に助かる。
ふと、チェック柄の長袖シャツを着た高校生らしき青年が、神川医師の視界に入って来た。
「隼?」
「父さん、ここにおったん」
息子の隼は、父の向かいの席に座った。
「どしたん?病院に顔出すなんて、珍しいのぅ」
「ん、さっき詰め所行ったら、休憩って聞いて」
「な~に。父さんに会いに来たんか?」
「ふっ。まぁな」
息子がわざわざ顔を見せに来た理由が分からなかったが、普段なかなかゆっくり話せないので、単純に元気な顔が見られただけでも、神川医師は嬉しかった。
隼は、一旦周りを見た上で、声のトーンを少し抑えて言った。
「父さん…母さんが、心配しとったよ」
「ん?」
茶を啜りながら、息子の顔を見た。こんなに正面から顔を見るのは久しぶりだ、すっかり男らしくなったじゃないか、などと感じつつ、神川医師は息子の脳内を探った。
「最近、父さん元気ないって。病院でなんかあったのかもって。俺は、父さんは働き過ぎじゃないかって思うけどね」
「ははっ、そうかそうか。アイツ…心配かけたか…ありがとな、隼。父さんは、この通り元気じゃけ」
両腕をL字に曲げ、分かりやすくポーズを取る。そして続ける。
「父さんはな、仕事が大好きなんよ。仕事が生きがい」
「それは知っとるけど…体壊さんでよ?」
「はい。分かっております。隼先生」
「やめろよ、俺は父さんとは違うし」
「父さんはヒトのお医者さん。隼は動物のお医者さん。お互い、頑張ろう」
神川医師はそう言って、右手でグーを作り、息子の顔の前に出した。
「ふふっ…おぅ」
隼は、父の拳に自分の拳を軽く当てた。
父さん、思ったよりも元気で良かった。と、隼は安心した。医師という仕事は過酷だ。脳外科の場合、緊急のオペが入ることがよくある。患者の状態によっては、すぐに開頭手術が必要な場合もあり、その際には何時間も要することも少なくない。
隼は、父を心から尊敬している。多忙な中、患者一人一人と丁寧に向き合う姿勢が好きだ。次期院長候補とも噂されているが、当の本人は全く気にしていなくて、院長であろうがなかろうが、やることは変わらないという。むしろ、現場を離れなければならないのであれば、院長なんかなりたくないとも言っていた。それほど、人と触れ合える臨床の場が好きらしい。
父の顔も見られたし、帰ろうかと思っていると、とある人物から声をかけられた。
「隼君?」
「石森先生」
「どうしたんですか?どこか調子が悪いのですか?」
「いいえ、あの…父に会いに」
「神川先生に?もしかして…隼君も聞いてるのかな…?」
「…?何でしょうか?」
隼は石森と二人で、ある小さな会議室に居た。「誰にも聞かれたくないから」と、石森が隼をここに連れてきたのだ。
「先生、ここに居て大丈夫ですか?診察は…?」
「今日は非番なんです」
「え?」
「家に居ても落ち着かなくてね。白衣を着て、ただウロウロしてるだけのオジサンですよ」
「先生…」隼は少し笑った。
「隼君、先程、神川先生に会いに来たと。何か心配事があるのですか?」
「あぁ…実は、母が父のことを心配していて。元気がないから、病院に行って様子を見て来いと」
「そうですか…お母様も、ご心配なさってるんですね…」
「石森先生、何かご存じなのでしょうか?」
「ん…これは…隼君に話していいものか…」
「教えてください、先生」
隼は、真っ直ぐに石森を見た。
「これはね…少し前…2ヶ月くらい前のことだけど、神川先生の受け持った患者さんが、ある日突然亡くなったんです。もうすぐ退院するってほどに、元気な人がね。夜中に、きっと眠っている間に、心臓麻痺を起こしたんでしょうね」
「…」隼は、緊張しながら続きを待った。
「もちろん、病院側で出来ることは全てやりましたし、誰も悪い人なんか居ない。人が死ぬのは、当たり前だからね。健康な人でも、突然心臓発作を起こすことはあります。でもね、神川先生のオペでミスがあったんじゃないかって、一部のスタッフで噂があってね…」
「えっ…?」
「それを、神川先生自身がどこかで、聞いてしまったみたいで。神川先生は落ち込んでしまったんです。僕は、神川先生にミスがあったなんて思わないし、事実、オペは成功しています。ごく一部の誰かの言うことなんて気にするなって、励ましたんだけど…その亡くなった患者さんを担当していた看護師も、結局辞めちゃってね。神川先生、そっちの方がショックだったんじゃないかと思うんです。ほら、神川先生って、一人一人に丁寧な対応するし、救急で関わった患者さんも、病棟に移ったら必ず声かけるし、退院まで見届けたいって人でしょう?スタッフのことも常に考えてるし、看護師からは、『看護師以上に観察するドクター』とか、『神川先生の記録は看護師並み』って言われてるんです。ホントにいいお医者さんだから、余計にメンタルの部分が気になってね…」
「そう…だったんですか…」
「ごめんね。学生の時から神川先生のこと知ってるから、ちょっと心配で」
「いえ…お話聞けて、良かったです」
「このことは、内密にしましょう。もしも神川先生が、息子にこのことを知られたなんて分かったら…もっと落ち込むでしょう」
「はい…誰にも言いません」
「隼君、本当にいい子だねぇ。素晴らしい獣医になることでしょうね」
「あっ…ありがとうございます。あの、父のこと、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
患者が突然死、か…。隼は脳内で、石森の言葉を繰り返していた。そして、何とも言えない違和感に苛まれていた。
石森は、ずっと隼の後を付けていたのだ。隼が病院に着いた時、既に背後に視線を感じていた。食堂で隼が父と話した後、トイレに向かう石森を見かけた。確実に、隼の近くに居たのだ。それなのに、偶然見かけたような態度で声をかけてきた。更に言うと、なぜ父に会いに行っただけで「心配事」と決め付けて聞いてきたのか。どう考えても怪しい。
本当に、たまたま非番だったのだろうか。もしかしたら、もうずっと前から監視されているのだろうか。家に盗聴器なんか仕掛けられていたりするのだろうか…。考え出すともう、止まらない。
そもそも、石森の話は真実なのか。もちろん、病院で人が死ぬこと自体は当たり前だ。だが、それが父のミスだという噂が本当にあったのだろうか?父は、この病院でかなり信頼されているハズだ。本人の気持ちはさておき、次期院長候補とも言われている。そんな父に、患者の死はオペのミスが原因だという噂自体、立つだろうか。どうも納得がいかない。
モヤモヤとしていても仕方がないので、一旦家に帰ろうと正面玄関へ向かうと、ある男性とすれ違った。白衣を着ているが、ネームを付けていない。この病院では、スタッフ全員がネームを付けているハズだ。おかしいと思った隼は、後を付けてみることにした。
隼自身、自分は一体何をしているのだと、自分に聞いてみたが答えは見つからなかった。気が付いたら、勝手に体が動いていたのだ。人の後を付けて、隠れて息を殺すなんて、これまでにやったこともない。しかし、ここまで来たらもうとことんやってやれと、半分ムキになっている。どうやら、この白衣の男にはバレていないようだ。
しかし、さっきから同じフロアをウロウロするだけで、診察室にも入らないし、スタッフに挨拶もしない。もしかして、コイツは医者ではないのか…?だとしたら、なぜ医者の格好をして、この病院に紛れ込んでいるのだろうか。
ちょうど、人が少なくなったタイミングを見計らい、隼は思い切って行動に出た。エスカレーターに乗り、徐々に距離を縮める。白衣の男が降りた瞬間、声をかけた。
「あの…すみません」
「ひゃっ」
白衣の男は、驚いて肩を上げつつ振り向いた。
「そ、そんなに驚かなくても…あの…」
「ごっ、ごめんなさいっ…僕、知らないですから…」ようやく聞き取れるほどの小声だ。
「えっ、あ、あの、まだ何も…」
「はっ…はっ…」白衣の男の様子が、明らかにおかしくなった。息が上がっている。
「だっ、大丈夫ですか?あ、こっちに座るところが…」
隼は、すぐそばにあるソファの方へ、「どうぞ」という感じに手を向けた。しかし、その男は隼の案内には従わず、更に小さな声で、絞り出すように言った。
「すみません…やっぱり僕…助けてください…」
「えっ?」
涙目で訴える様子に怯えつつ、隼は察した。
「とりあえず、外へ。白衣はトイレで脱ぎましょう」
「はい…」
男の名は、シライシマサキ、と言った。年齢は28歳。妻が心疾患で、臓器移植の提供を待っているところだそうだ。とにかく情報が欲しくて、インターネットで片っ端から検索してみたところ、石森の存在に辿り着いた。いわゆる、闇サイトだ。どうやって、何をキーワードに入れたかも分からない。気付いたら、そのサイトを開いていて、管理人にメッセージを送信していたらしい。
石森は、シライシにあるものを渡した。透明な液体の入った注射器だ。これを、夜間の巡回中に看護師の目を盗み、患者に投与する。ほんの数秒で済む。3日間かけて薬液がじっくりと全身を巡り、心臓の筋肉が弱っていくことで死に至る。眠っている間に死ぬので、誰にも迷惑をかけない上に、患者は一切苦しむことはない。証拠も残らない。
この薬を投与すれば、その場で最低でも数百万円のカネが手に入る。それ以上の金額でも、希望額を言えばいくらでも支払われるが、薬を投与しなければならない患者の人数が増える。いわゆる、口止め料である。
薬を投与する患者は、ドナー希望者だ。死んだ後に、自らの臓器を提供したい者と、今まさに臓器の提供を待ち望んでいる者を、繋ぐ。相談者は、愛する家族や恋人の生存を望んでいる。一秒でも早く、ドナーを見つけたいのだ。石森は、そのお手伝いをしているに過ぎないのだと、シライシに話した。絶対にバレることはない。絶対に痕跡が残らない。これは人殺しではない。ドナーとレシピエントを繋ぐ、立派なビジネスだと。
シライシは今夜、正確には日が変わって深夜、実行する予定だった。日中から病院内に入っておき、白衣を着て歩いていれば、もし夜間に顔を見られたとしても怪しまれないとのことで、石森の指示で院内をウロウロしていたらしい。しかし、途中で怖くなって、どうにかやめたいと思っていたところへ、隼が声をかけてきたというタイミングだった。
隼はシライシを見送ったあと、家路に向かいながら、シライシの怯えた表情を思い出していた。にわかには信じられないことではあるが、シライシが嘘をついているとも思えない。一体、石森は何を考えているのだろうと思うと、頭痛がした。
隼が学校へ行く準備をしていると、外が騒がしいことに気が付いた。2階にある隼の部屋の窓から覗くと、マスコミが大勢押し寄せていた。しかも、「患者が急死」「医療ミス」「謝罪」といったワードを連呼している。大迷惑極まりない事態だ。今朝のニュースで、「大田山病院で患者が急死」と出ていたが、それと父と、何が関係しているのだろうか。わざわざ家にマスコミが来るとは、どういうことだ。そもそも、なぜ家の場所を知っているんだ。
隼は考えた。父さんが何をしたというのだ。当直の間に、何か問題が起きたのだろうか。アイツか。まさか、アイツなのか。父さんは、アイツに嵌められたんじゃないか…
今すぐ石森に会って、聞きたい事が山ほどあるのだが、外にはマスコミが大勢居るので出られそうにない。例え病院に行ったところで、マスコミが溢れていそうなので、外出は諦めた。母は夜勤で、帰るのは今日の昼だ。隼の兄弟は皆、実家を出ている。この家には、隼一人だ。今すぐ相談出来る人も居ない。携帯で兄や姉に連絡しようかと一瞬思ったが、すぐにその案は消え去った。
そう言えば、名刺をもらった記憶があったと、引き出しを探してみたら見つかった。番号が変わっていなければ、繋がるハズだ。震える手で、携帯電話のボタンを一つずつ押した。
繋がった…!鼓動が速くなる。出て欲しいような、欲しくないような…。5回目のコールで、石森が出た。
「隼君ですか?」
ドキッとした。番号を知っていたのか?自分の携帯を使ってしまったことを後悔した。石森に番号を登録されたら、今後つきまとわれそうだ。
「あ…はい…隼です」
「きっと、隼君から連絡が来るだろうと思っていました」
ねっとりと話す石森。何だか嬉しそうにも聞こえてくる。
「あの…石森先生…」
「何でしょうか?」
いつもに増して低く、まとわりつくような話し方だ。
「今、どこに居ますか?」
「自宅です。病院の事務局から連絡がありましてね。今、大変なことになっているので、自宅待機でお願いしますと」
石森は、「大変なこと」と強調しつつ、まるで他人事のように話す。隼はますます、確信した。マスコミにこの家の情報を流したのも…。
「やっぱり、石森先生が…父を嵌めたんですね…」
「嵌めた?何のことでしょうか?」落ち着いた声が、余計に隼の神経を逆撫でる。隼は出来るだけ、感情を出さないように気を付けた。
「何をって、僕、知ってるんです。先生が、闇サイト使って、臓器移植のドナーとレシピエントを繋いでるって」
「…」
「患者さんに安楽死の薬を投与するよう、促したのは先生ですよね?」
「あーぁ」わざとらしい言い方をする石森。
「隼君がぁ。君が、逃がしたんですね、シライシを」
一段と声のトーンを落として、隼の知った人の名を挙げた。石森が放った言葉の意味が分からなかった。
「…シライシ…さんは…?」
「シライシはねぇ、奥さんに心臓移植を望んでいたのですよ。だから、そのお手伝いをしてあげたのに…途中で逃げ出すもんだから、消えてもらいましたよ」
「消え…っ…?こっ…殺し…たんですか?」
「ふっ…約束が守れないなら、死んでもらうしか…それにね、自分の家族を救いたかったら、誰かに死んでもらうしかないんですよ、心臓移植っていうのは。本来なら、人の命を買う方が正しいとは思いませんか?しかし、お金をもらって、人の命と引き換えに自分の家族を救うなんて、生半可な気持ちでやってはならないのです。だって、そうでしょう?自分の幸せのために、誰かに死んでもらうのですから。中途半端な人間には、自分の家族の命を救うなんて、そんなことは出来ません。自分が死ぬか、誰かに死んでもらうか、二者択一なのです」
石森は気分が良さそうに、まるで講演をしているかのように饒舌だった。隼は、今すぐ石森を殺してやりたい感情を、何とか抑え付けた。
「ついでに言いますとね、隼君。神川先生の担当患者を狙ったかのように思っているようですが、それはたまたまです。たまたま、神川先生がオペをした患者さんで、その患者さんが経過良好で、たまたま基礎疾患もなく、たまたまお若くて、たまたまドナー希望者だっただけです」
「なんだよそれ…」
隼は、怒りを抑えられなくなった。
「隼君、まさか、このことを警察にでも話すおつもりですか?」
石森は、どこか楽しそうに聞いた。
「え…?」
「だとしたら、隼君も同罪ですよ。もしも隼君が、あの時シライシを逃がさずに放っておいてくれてたら、彼は今頃、奥さんと笑っていたでしょうし、ドナー希望の患者さんも喜んだ。肉体は亡くなっても、心臓は、シライシの奥さんの胸で、鼓動を続けているのですから。もしかしたら、数年後には二人の子供も産まれたかもしれませんね。そう考えると、隼君は、シライシとその奥さんとの幸せや未来、そして、ドナー希望者の想いも、奪ったということですよね?それは、罪ではないと、言い切れますか?」
隼は、理解出来ないと思いながらも、石森の言葉を反芻していた。そして石森は、とどめを刺した。
「隼君、結果として君が、シライシを死に追いやったんですよ?」
「えっ…?」
隼の心臓がギュッとなった。そんな…俺が…?
「私はあくまでも、こんな方法がありますよと提供しているだけです。実際に行動するのは、相談者の皆さんですし、強制ではありません。医療の世界では、当たり前でしょう?インフォームドコンセントが」
「でも、安楽死の薬を作っているのは事実じゃないですか」
隼は震えながら反論してみたが、石森は隼の言葉に被せてきた。
「どこにそんな証拠があるのでしょうか?何なら、我が家を徹底的に調べ上げてみますか?構いませんけど」
どこからその余裕が出てくるのだろうか。犯罪コーディネーターとでもいうヤツか。しかし、臓器移植のドナー希望者とレシピエントを繋ぐビジネスというのは実際にあるし、移植医療には必要なことだ。
「まぁ、話したところで、警察も動けませんよ。高校生の話を、本気で聞くかどうか…」
隼は、何も言えなかった。
「それでは、素晴らしい獣医になってくださいね、神川隼君」
そう言って石森は、電話を切った。
「つまり、その石森先生に相談した人…臓器移植を希望する人の家族が犯人で、愛純奈の父さんに安楽死の薬を投与して、それで…亡くなったってこと…?」
神川は、黙って頷いた。そのまま頭を垂れ、大きく息を吐いた。話すだけでも、相当疲れたのだろう。
「そうか…あ、神川は、なんでその患者さんが、愛純奈のお父さんだって知ってるんだ?」
「あぁ…俺の親父も俊彦って名前でさ。愛純奈さんのお父さんが、バイク事故で救急搬送された時、担当したのが俺の親父で。親父は、当直で関わった患者は、科が違っても退院まで出来るだけ関わりを持つ人でさ。病室に様子見に行ったり、院内で見かけたら、声かけたりするんよね。俺が病院に用があって…何だったかな…あ、親父が仕事終わったら、そのまま外でご飯食べようって約束してて、それで病院行った時だ。1階のフロアのソファで、親父と、愛純奈さんのお父さんが話してて、そこで挨拶したんよね。俺達二人とも『俊彦』って言うんだって教えてくれた。すっかり気が合っちゃって、話し込んでたところに俺が行ったってタイミングだったらしい」
「そういうことか…だから、顔も名前も知ってたんだな」
「うん…親父…ショック受けてた。どれだけ元気そうな様子の人でも、明日どうなるかは誰にも分からないんだなって。どれだけ丁寧に診察しても、どれだけ丁寧に手術しても、確実に生きていられるなんて保証はどこにもない。病院だと、患者が助かると神だ、すげぇって言われて、患者が死ぬと人殺し扱いなんだよ…真面目な人ほど、自分を責めるからな…あの時もっとこうしていればって、あの時に何か気付けなかったのかって、ずっと引きずったまま医者とか看護師を続けよる人も、おるけん…」
神川は、目線を遠くへやったまま、静かに続けた。
「親父が今も、『自分は勉強不足』って言いよるんは、2人の患者の突然死も関係しとると思う。どっちも、初診は親父じゃけぇ」
神川は、また大きく息を吐いた。省吾は神川の隣に座った。背中に触れ、優しく撫でた。
「ありがとな…そんなツラいこと、話してくれて」
「本田…」神川は、少しだけ顔を上げて続けた。
「俺…ずっと怖かったんだ…誰かに話したかったけど、石森に盗聴されてるかもとか、監視されてるかもとか、勝手に考えてずっと怖くて…」
「あぁ…」
「とにかく石森から離れようって思って、それからは病院にも行ってねぇし、会わんようにしてきたのに…最近になって、石森が目の前に現れて…俺…殺されるかも…親父も危ないかもって…」
神川は、両手で頭を抱えた。省吾は、黙って神川の背中をさすった。
「シライシって人…俺にあの時出会わなければ…今も生きてたのかなとか、奥さんとか…子供とか…うぅっ…」神川は、堪えきれず涙をこぼした。
「神川…神川は何も悪くない」
「うっ…すまんっ…」
「んーん、俺は大丈夫。愛純奈には…この話はせん方がえぇな…」
神川は、涙を軽く拭って顔を上げた。
「あぁ、俺もそう思う。愛純奈さん、石森を尊敬しとるんよな…」
「俺、愛純奈からはその、石森先生って名前は聞いたことある。確か、愛純奈がケガした時に見つけてくれて、すぐに病院で手当してもらったんだ」
「愛純奈さんが、ケガ?」
省吾は、愛純奈が2年前にケガを負ったことを話した。
「それ…ぜってぇ石森の計画だわ。石森の相談者って、いわゆる「借りがある人」だからさ、石森の言うことは絶対で、服従関係にある。カネ見せつけられて、やれって言われたらみんなやるんじゃねぇかな。それで、愛純奈さんにわざとケガを負わせて、石森が助ける。愛純奈さんからすると、石森は助けてくれた人ってシナリオ…」
「…なんか…みんな、過去に囚われてたり、誰かの支配下で生きてたり…不自由だな…」
「本田は?」
「ん?」
「過去に囚われてる?今を、生きてる?」
「ん~…」
省吾は少し考えた。
「俺も…時計の針が止まったままだな…」紘希の顔を思い浮かべた。
「そうか…本田も、色々あったんだな」
「うん…でも…」
神川が、省吾を見た。
「…動き出しそうな…ん?動かせそうな?気がする」
「本田が自分で、その時計の針を動かすってことか。それって、愛純奈さんとの人生?」
「ふっ…あぁ」
省吾は神川を見て、頷いた。
「俺は愛純奈と生きていく。やっと…撮りたいものが見つかった」
「撮りたいもの?あ、カメラ?」
神川は、右手でカメラのシャッターボタンを押す動きをした。
「あぁ。心から撮りたいと思うものを、夢中になって撮ってみたくて。誰のためでもなく、ただ純粋に『撮りたい』って気持ちだけで、シャッターを切ってみたいなって…」
「ふーん」
神川がニヤついた。グラスに残ったビールを飲み干して言った。
「それが、見つかったってワケですか」
「ふふん。まぁ…な」
「そゆことかー。さ、飲み直そうぜ」
「おぅ」
神川と省吾は、それから更に2時間ほど飲んだ。神川は次の日も仕事のため、帰路に就いた。省吾は神川の見送りと酔い覚ましも兼ねて外へ出て、その足でコンビニへ向かった。
省吾はコンビニに行くと、必ず缶コーヒーを買う。もう無意識レベルの行動で、気付いたら習慣化していた。選ぶのは、迷わずジョージアのエメラルドマウンテンだ。
車止めに座り、プルタブを開ける。空に向かって軽く缶を掲げて、一口。冷えた広島の夜に、温かくて爽やかな液体が喉を通っていった。苦すぎず、甘くもなく、ちょうどいい。吐く息は白く、一瞬で消えた。
「紘希さん…俺…見つけました」