~想う~
【2029.2】
晩ご飯を済ませて、愛純奈は雑誌を見ながらリビングでくつろいでいた。省吾からクリスマスプレゼントでもらった、お気に入りのスクエアネックボーダーニットを着て、時々ニヤけてはカフェラテを読む。愛純奈の好きなブルーを基調に、ブラック、ホワイトの3色で構成されたボーダーだ。しかも、長袖が苦手な愛純奈にとって、5分丈がちょうど動きやすくていい。
更に、これは省吾情報なのだが、愛純奈が着ているのはコットンニット。綿なので着心地バツグン、自宅で洗濯が出来て、真夏以外いつでも着られて、虫食いもされにくく価格もお手頃と、言うことなしなのだ。この情報は、愛純奈が訊いた訳ではなく、プレゼントを渡す際に省吾がツラツラと勝手に話したことである。この日、神川と飲んで帰って来た省吾はほろ酔いで、訊かれてもいないことを一方的に喋って、さっさと自分の部屋に戻っていったのだ。
1人の時間は、愛純奈にとって優先順位トップ。1人で過ごす時こそ、どう使うかは自分次第。どこで何をするのか。何を着て、何を食べて、何を飲んで…とことん気分良く過ごすのが、愛純奈スタイルだ。明日は休みで、解剖も大学の講義もない。愛純奈は朝早いのが苦手で、本音を言うと午前中はゆっくりしたいのだが、今の職場ではそれが叶いそうにない。
大学の講義がある日は、午前中に広法研での仕事をしてから広島理科大学へ向かい、非常勤講師の控え室で休憩をしてから講義、といった行動計画だ。講義そのものはそこまでキライではないのだが、愛純奈の性格からして手を抜けないので、資料作成にかなり時間をかける。講義前の休憩時間も、結局準備に充ててしまうので、実際に休憩が取れるのは全てが終わった後だ。
愛純奈は、講義よりも「遺体と向き合う時間」、つまり解剖の時間が本当に好きだ。「解剖が好き」なんて言うと、「怖い」「人の体を切るなんて」「サイコパス」などと、変な人のように言われてしまう傾向が強いのだが、無言の人体からいかに正確に情報を得るか、丁寧に向き合うのが愛純奈の性に合っている。ネット情報ではあるが、女性が働きやすい職種とも言われていて実際そう感じるし、法医学の道へ進んで正解だなと、年々感じる。解剖する際のメンバーも好きだし、職場環境は良い。よく周りから、「パワハラやセクハラはないの?」と聞かれるが、広法研の長田所長からの嫌がらせなんて、一度も受けたことがないしあり得ない。上司との信頼関係があれば、パワハラもセクハラも起きようがない、というのが愛純奈理論だ。
長田所長は広島の大学で、長年一人で解剖医を続けて来た逸材だ。広法研が出来るまでは、広島で唯一の、司法解剖が出来る医師だった。事件性が疑われる場合、他殺体だけでなく、自殺や事故による死者の遺体も、死因究明のために行われるのが司法解剖だ。それらの解剖を、長田所長は一人でやっていた。もちろん、実際は数人のメンバーと共に解剖をするが、メスを入れられるのは医師のみだ。人体をくまなく観察し、臓器の一つ一つから必要な情報を得るために、チームで解剖をしていくためのリーダーとも言えるのが、解剖医である。
日本の解剖率は地域格差が激しい。特に広島では、全国平均が12%ほどに対し、2018年のデータで1%という数字を叩き出している。
その理由の一つには、人材不足が挙げられる。患者の健康のために貢献したくて、医師を志す人が多く居る上、法医学そのものの知名度が低いために、法医学者を目指す若者の分母が圧倒的に足りないのだ。人材不足が続けば解剖が追いつかず、犯罪死を見逃してしまうという可能性が膨らんでいく。法医学は、「死因究明学」である。人の「死」は、様々なことを教えてくれる。隠された「事実」を知ることで、未来に希望を持てる。
そんな想いから、愛純奈は法医学を志望した。広島理科大学で当時教授をしていた長田所長は、たいそう喜んだ。学生の時から今日に至るまで、本当によく世話をしてくれて、つくづく恵まれているなぁと愛純奈は感じる。
が、最近心の中に、少しスキマがあることに気が付いていた。そのスキマからうっすら、ひんやりとした風が入ってくるのだ。34歳を迎え、アラサーを通り越して何と呼ぶのだろうかなんて考えてはみたものの、答えが見つからなかった。ググればすぐに分かるのかもしれないが、別にその答えを知ったからと言って、心のスキマなんか埋まらないことを知っている。世間では、34歳ならば結婚していたり、子供がいたりするのだろう。愛純奈の同級生もきっとそうだろうが、学生時代あまり人と親しくならなかったため、友人と呼べる人自体が少なく、確かな情報が回って来ない、というのが愛純奈の現状だ。
大学で医師を目指す仲間のうち、法医学者を目指すのは愛純奈ぐらいだった。しかも、愛純奈は1年生の時から既に法医学へ進むことを決めていて、そういった学生は本当に稀だった。
「なんで臨床医じゃないの?」
どれだけの人に言われたか分からない。もう聞き飽きたし、答えた所で「へぇ~」と言われるだけだ。無論、まともに答えたことなど一度もない。「なんか、カッコイイから」と適当に答えるのみだ。
本当は、紛れもないただ一つの理由がある。愛純奈にしか分からない、確固たる理由がある。だけど、そんなことを他人に話したくはない。愛純奈にとって、とてもデリケートなことだからだ。それに、「父の死因を究明するため」と言ったところで、誰がまともに受け入れるだろうか。省吾以外、そんな人は居るはずもないし、居なくていい。誰にも分からなくていいことだ。省吾だけが、分かってくれれば十分だ。
昨年の愛純奈の誕生日、11月27日から、省吾との同居がスタートした。俊彦の部屋を省吾が使っているが、基本的に寝起きするためだけに使っているようだ。休みの日はリビングで過ごす事が多く、もしかしたら愛純奈に気を遣っているのかもしれない。同居しているからと言って、省吾との間に何か特別な物が芽生えたかというと、残念ながら全くそんな気配すらもない。
愛純奈と省吾、そして龍哉は、幼い頃からずっと「家族」だ。愛純奈にとって省吾は、親友であり兄のような存在でもある。変わらず龍哉と仲良くしてくれるのも嬉しい。
愛純奈の友人、莉花からはよく、「結婚しちゃえばいいのに」と言われる。
「結婚かぁ…」
愛純奈は、思わず呟いていた。気付くと、雑誌をめくる手が止まっていて、ページが進んでいなかった。省吾とは、もう「家族」だ。今更、婚姻届を出すのもメンドーだし、籍を入れる入れないとか考えるのもメンドーだ。そもそも、「結婚」そのものには興味がない。結婚していようがいまいが、大切な人と、大好きな人と笑って過ごせるだけでもう、愛純奈は十分幸せなのだ。
最近、よくぼんやりと考える時間が増えた。原因は分かっている。34歳の誕生日から、確実に考える時間が増えたという自覚がある。その日は、俊彦の命日でもあるのだ。
俊彦が居なくなって20年が過ぎたが、俊彦の死の真相は、未だ分からないままである。もう調べようもなく、遂に迷宮入りとなってしまった。そんなことは、絶対に避けたかったのに。何のために法医学者になったのだ。法医学が「死因究明学」だと知り、愛純奈は父に誓ったのに。
「痛っ…」
まただ。先月から、突然背中を痛みが襲うようになった。昨年の5月に発作を起こし、原因は分かっていたのだが、年が明けてから特に酷くなった。俊彦のことを考えたり、モヤモヤすると背中が痛がゆくなる。
実はこの2週間ほど、まともに眠れた日がない。寒さによる乾燥や、季節の変わり目の変化がきっかけとなり、何らかの症状が出ることは考えられる。とは言え、なぜ今、こんなにもあの時の傷が疼くのだろうか…。
【2027.5】
「姉ちゃん!!」
龍哉が処置室に駆け込んできた。
「龍っ。ゴメンね、こんな時間に」
「んなこといいって。大丈夫なん?」
「うん、この通り。座れるし、歩けるよ」
両脚を下ろした状態でベッドに腰掛けている愛純奈は、脚を前後にパタパタと動かして、歩く素振りを見せながら、笑顔で答える。
「良かったぁ~」龍哉は大きく息を吐いた。
「何針か縫ったみたい」愛純奈は自分の背中をチラリと見ながら、まるで他人事のように言った。
「姉ちゃん…なんか、あっけらかんとしとるけど…どゆことなん?」
「うん…」
愛純奈はゆっくりと、話し始めた。
広法研を出て、愛純奈は帰路を急いでいた。広島市内で交通事故があり、急に1件解剖が入ってかなり遅くなったので、近道を通った。街灯が少なく、人がすれ違うのがやっとの細さの道だ。地元民はその道をよく知っていて、昼間で徒歩の場合はむしろよく使うほどだ。さすがに20時を過ぎると真っ暗なので、一人で歩くのは怖い。
愛純奈が足早にその細道を歩いていると、後ろから誰かが走ってくる足音が近付いて来た。誰か急いでいるのかな、と感じた愛純奈は、少し端に寄りながら歩を進めた。
と、突然その「誰か」は、愛純奈の背中に向かって割れた酒瓶を振り下ろした。電流が走るような痛みに襲われた愛純奈は、その場にうずくまった。「誰か」は、そのまま愛純奈を置いて走り去っていった。
愛純奈は立ち上がろうとしたが、痛みがかなり酷く、電話をかけるのも無理だった。出血しているのも感覚で分かっていたので、早く病院へ行きたかった。こんな時でも愛純奈は、妙に落ちついた所がある。
数分間はその場でうずくまっていただろうか。息を整え、やっとのことで壁にもたれかかった。すると、聞き覚えのある声がした。
「どうされましたか?…山田先生?」
「あっ…石森先生…?」
石森とは、学会で時々顔を合わせていた。当たり前だが、今日は白衣ではなく、ラフなシャツ姿だ。
「大丈夫ですか?立てそうですか?」
「あっ、はい…立てます…」
「では、ウチの病院へ」
石森はすぐに電話をかけた。
「背中…?一体誰が…」
「分かりません…急に後ろから…」
愛純奈は、訳が分からないままだった。あまりに突然のことで、あまりの痛さで、でもどうやら生きているらしい。そこまでの深い傷ではなさそうだ。不幸中の幸い、というやつだが、愛純奈には全く心当たりがなく、いわゆる通り魔というものなのか、はたまた自分を狙ったものなのか、見当も付かない。
石森のスムーズな連絡により、病院ですぐに処置が施された。警察への届け出も、石森の協力により行われた。広法研の長田所長にも連絡をしており、愛純奈に数日間の休暇を取ったという。誰にも言わずに帰るつもりだったが、石森が「ご家族に連れて帰ってもらう方がいい」と言うので、しぶしぶ龍哉に電話をしたということだ。
「じゃぁ、誰かが姉ちゃんを、後ろから瓶で殴ったってこと?」
龍哉は愛純奈の右隣に腰掛け、愛純奈の背中に向かって、何かを持って降るジェスチャーをした。
「うん、そんな感じ」
「酔っ払いか?ひでぇな」
「まさか、自分がこんな目に遭うなんて…あの道よく通るし、何も考えとらんかったわ」
「夜はマジで暗いじゃん。これからは、昼間だけにしとき」
「ほーじゃね、そうする」
「珍しく、素直じゃね」
「ふっ、そう?あーあ。この服気に入っとったのに、ビリビリじゃし血もついとるし」
愛純奈は、左横に置いた紙袋の中を探り、破れた服を触る。今は代わりに、病衣を羽織っている。
「姉ちゃん、酔っ払いに襲われてそんなケガしとんのに、服のこと気にするって図太いわ」
「だってホントにお気に入りなんだもん」
「分かったって。そんだけ元気なら良かったわ」
「何よー。心配したん?」愛純奈はニヤニヤしながら言った。
「当たり前じゃん!楓も一緒に来るとか言うから、お前は家で待ってろって宥めるの大変だったんよ」
「そうなんや…ありがと」
「後で楓にLINEしときな」
「うん、そうする」
「マジで姉ちゃん、素直で怖ぇわ」
「何よー!」
そこへ、石森が様子を見に来た。
「いかがですか?あ、ご家族の方で?」
龍哉はスッと立ち上がり、石森に向かってペコリとお辞儀をした。
「姉がお世話になっております。弟の龍哉と言います」
「弟さん。いや本当に、軽いケガで済んで良かった。たまたまね、私の友人の家で飲むってことで、あの近くのコンビニに寄る所だったんです。あんなに暗いのに、山田先生お一人で歩かれてたんですね…」
「いつも通るので…」
「女性がお一人でなんて、これからはやめてくださいね。ご家族が心配なさいますから」
石森は、「ご家族」の部分で龍哉の顔を見ながら、優しく言った。
「はい…」愛純奈は苦笑いした。
「本当に、ありがとうございました」龍哉は再び、頭を下げた。
「お大事になさってください」
石森の姿が見えなくなったのを確認し、愛純奈はしみじみと言った。
「石森先生とは、何かとご縁があるんだよなぁ…助けてもらってばっかりだ」
「そうなん?」
「うん。研修医の頃も、広法研の立ち上げの時も、それから今日も…」
「ふーん…」
龍哉は、誰も居ないドアの向こうを見つめたまま、黙っている。
「…どしたん?」愛純奈は、龍哉の視線の先を追いつつ聞いた。
「いや…なんかあの人…目が笑ってないような気がする」
「えっ?」
「あっ、いや、帰ろ。はい、着替え」
龍哉は愛純奈と目を合わさないまま、着替えの入った紙袋を渡した。
愛純奈の背中の傷は、そこまで深いものではなかった。しかし、いつもの慣れ親しんだ道をいつものように歩いていたら、突然何者かに襲われたという衝撃は、いつまで経っても軽くはならなかった。あの日以来、昼間であってもあの道を通ることが出来なくなった。愛純奈を襲った「誰か」も、全く見当も付かない上に、真っ暗で顔も見えず仕舞い。そもそも痛みでうずくまっていたので、姿を見ることは不可能だった。警察に届けたのは形だけで、その後の進展なんてありえないのは分かっていた。
抜糸後、同僚に手伝ってもらって自分の背中を見た愛純奈は、愕然とした。右肩甲骨辺りから、左の脇腹に向かって、痛々しい傷があった。元々そこまで自分の背中に自信はないのだが、ここまで大きく傷があると、さすがにショックだった。皮膚が引っ張られたり、筋肉にも少し影響していて違和感が残る。今後、徐々に傷跡が薄くなるとは言え、やはりキレイに元通り、とはいかない。
ただただ、愛純奈の心の中に深い傷が残った。時折フラッシュバックが起こり、眠れなくなった。傷そのものは浅いのだが、背中を大きく切っているので、腕が思うように動かせるまでにはしばらく時間を要した。1ヶ月ほど療養し、仕事復帰した。
去年の5月、仕事中にフラッシュバックを起こし、メスを握れなくなるほどに落ち込んだが、ほどなくして気分も落ち着き、日常を取り戻した。背中の傷周辺が痛痒くて眠れなくなったのは、傷を負った5月10日を挟んで前後2週間ほど、その1ヶ月間だけだった。
なのに、なぜこの数週間はこんなにもおかしいのだろうか。愛純奈は、自分の身の回りにどんな変化が起きたのか思い起こしてみるが、ハッキリと「コレだ」と思えるものが見つからずにいた。
省吾との生活は楽しい。神川との出会いも面白いと思っているし、また省吾と神川と三人で飲みたいとも思う。広法研の仕事は正直言うとキツいが、やりたいことをやっているから、大変だけど楽しい。何の不満もない。龍哉の家庭も上手くいっているし、今までの人生で一番イイ感じなのではと感じるほどに、充実している。一言で表すならば、「幸せ」だ。
では、なぜこんなにも傷が疼くのか。自分の身に何かが起きる予兆なのだろうか。また、ツラい思いをするのか。平凡な日常でいい。何も望まない。何も大したことが起きなくていい。一日の終わりに、暖かい布団に入れたらそれでいい。あとは、俊彦の死因さえ分かれば何も文句はない…。俊彦のことを考え出すと、もう二度と触れられない父のぬくもりが欲しくなる。
「父さん…会いたいよ…なんで居なくなっちゃったの…?」
涙が次々とこぼれていく。
「うぅっっ…」
先程よりも強い痛みと痒みが襲ってきた。背中をビリビリと電流が駆け巡る。あの時の恐怖が蘇る。呼吸がしづらい。心臓が胸骨を突き破って、出て来そうなほどに脈を打っている。こんな時、省吾が居てくれたらと思うのだが、今夜は帰りが遅い日だ。カメラマン仲間と飲み会だと言っていた。自分一人では、背中に薬を塗ることも出来ない。龍哉に連絡するのもアリだが、ひとまず冷却法で乗り切ることにした。
愛純奈は、何とか冷蔵庫まで辿り着き、冷凍室からアイスノンを出してタオルを巻き付けた。2階の自分の部屋まで行く気力がなく、リビングのソファでうつ伏せになり、背中を冷やした。
どのくらいの時間が経っただろうか。何かが顔に触れたような感覚がして、愛純奈は目を覚ました。顔を上げると、目の前に省吾の顔があった。昔から変わらない、いつもの優しい顔だ。
「愛純奈…どした?」
「んっ…省…?おかえり…」
電気を付けたまま、いつの間にか眠っていた。うつ伏せになって、背中にぬるくなったアイスノンを乗せている。どうやら1時間ほど眠っていたようだ。
「帰ったらさ、リビングからうめき声が聞こえてくるから、ビックリして。なんか…泣いてたから…大丈夫か?」
「はぁ…私…夢でも見てたかな…」さっき、何かが顔に触れたような感覚がしたのは、省吾が涙を拭ってくれたからか。
「それ…冷やしてんの?」しゃがんだ姿勢のまま省吾は、愛純奈の背中に乗ったままのアイスノンに目を向ける。「部屋あったかいのに背中は冷やして、タオルケットかけて寝て…」
「あっ…うん…ちょっとね…」
愛純奈は体を起こした。ゆるゆるになったアイスノンを、手で弄ぶ。
「アトピーとか?」省吾は上目遣いで聞いた。
「ううん、違う。えっと…」愛純奈は、左手で前髪を整えた。
「あ、話したくなかったらムリには」
省吾は左手で制した。
「いや、あの…」愛純奈はソファに座り直して、両膝をさすった。
「ちゃんと話す。話すから、聞いて欲しい」
「うん」省吾は微笑み、愛純奈の隣に座った。
愛純奈は、2年前の出来事を話した。突然で、訳が分からなかったこと。愛純奈を襲った「誰か」は、今でも不明であること。怖くてあの道をもう通れなくなったこと。去年発作を起こしたこと。そして、ここ2週間ほど、よく眠れていないことも。
「愛純奈…」
愛純奈を優しい眼差しで見つめながら、黙って話を聞いていた省吾。小さく息を吐き、目線を遠くへ向けて口を開いた。
「怖かったな…」
しん…となった。いや、元々静かだったが、省吾の一言で、その場の空気が浄化されたようだった。省吾の言葉には、不思議な力がある。
「よく…話してくれたな」
そう言って省吾は、愛純奈の頭を撫でた。愛純奈は以前から、時々感じていた。省吾は俊彦と、少し似ている。話し方や、笑い方、優しいところも、頭を撫でてくれるところも。
「ううっ…」
愛純奈の瞳から、大粒の涙が次々とこぼれていった。省吾は、両腕でそっと愛純奈を包んだ。
「怖かった…痛かったぁ…」
「うん…そうだな…よく我慢した」
省吾は、愛純奈の背中に手を当てながら、まるで父親のように言った。愛純奈は子供のように、省吾に抱きついて声を上げて泣いた。省吾はずっと、愛純奈の頭を撫でていた。その姿は、俊彦そのものだった。
省吾と龍哉は、いつもの居酒屋に居た。愛純奈と龍哉と省吾、三人が再会したあの場所だ。二人とも、上着も脱がず席に着くなり「たちまちビールで」と注文を終え、メニュー表を開いた。
「冷えるぅ~。2月の広島は、さみぃわ」省吾が肩を縮こませながら言った。
「寒いからこその、居酒屋よぉ」
「確かに!ここは飯もウマいけど、店員が元気よな~。こっち帰って来たら、まずここに来たかったもんな。ここ来て、『あ~帰って来たわ~』って」
「ハハッ。やっぱ広島弁って、安心するよなー」
「おぅ。もう外国はえぇわ。ずっとここにおる」
「俺も。東京・大阪と行って、やっぱ広島じゃわ~って」
「さてさて。今日は龍の奢りじゃろ?何食おっかな~」
二人は適当に注文をして、たわいもない話をして、適当な時間が経った頃、省吾が口を開いた。
「愛純奈の背中の傷…話聞いたわ」
龍哉は、口を付けようとしたビールを一旦離し、「そっか」とだけ答えて、再びビールを迎えた。省吾は、そんな龍哉の様子を見ながら餃子を食べた。愛純奈が大好きな、生姜入り焼き餃子だ。愛純奈のように、二人前は食べられないが。
「姉ちゃん…どんな感じ?」
省吾は、日本酒のロックを一口飲んだ。
「あぁ…何か…空元気って言うか…平気なフリしてる感じかな…」
「だよな…あの時も、そうじゃったわ」
「あの時?」
「ケガした日。『この服、お気に入りだったのに』とか言っちゃってさ。いつもムリして笑うんよ…」
二人の間に、少し沈黙が流れる。龍哉は、視線をやや下にして、テーブルの上で両手を組んだ。
「省…」
「ん?」
「姉ちゃんはさ、あの時からずっと、止まってんだよ」
「…ケガした日?」
龍哉は首を横に振る。
「父さんが死んでから。ずっと、時計の針が止まっててそのまんま」
省吾は何も言えなかった。自分にも、心当たりがある。止まったままで、動き出していない。龍哉は視線も表情も変えず続けた。
「父さんは死んだ。それが事実。人はいつか死ぬ。それが事実。父さんはあの時、死ぬ運命だった。それだけだ」
「死ぬ運命…」
省吾は、龍哉の言葉で色んな人を思い出していた。父親の死、紘希の死も、「運命」なのだろうかと。
「姉ちゃんは、父さんの死に方に納得してねぇんだ。順調に回復してたのに、いきなり死ぬなんておかしいって。他に病気もなかったし、前の日にはもうすぐ退院だって話もしたって。健康な人間でも突然心臓麻痺で亡くなることはある。けど、あの死に方は不自然だって、ずっと言ってんだよ」
省吾は黙って、龍哉を見つめる。怒りの混じった声だが、いつものように穏やかだ。けれど、どこか悲しい。
「不自然って、何だよ?人が死ぬのは、自然だろ?」龍哉は顔を上げて、省吾に同意を求める表情で見た。省吾は頷くことしか出来なかった。
「姉ちゃんは、父さんと一緒に居たかっただけなんだよ。俺と省が、父さんとずっと一緒だったから、本当はもっと一緒に居たかったんだよ。だから、死んで欲しくなかった。自分勝手なんだよ」
20年前、俊彦はバイク事故で入院した。完全に一人相撲で、「やっちまった」と笑っていた。頭を打ったが、フルフェイスのヘルメットのおかげで、大きな傷も後遺症もなかった。全体的に右半身を打撲しており、右腕を骨折していたが、左利きだったので字も書けるし、食事も出来る。「左利きで良かった」と、俊彦はまた笑った。特に基礎疾患はなく経過は順調で、あと数日で退院という所だった。
その日は、あまりにも突然訪れた。早朝の巡回で、俊彦が呼吸をしていないことに看護師が気付いたが、時既に遅しで、俊彦は帰らぬ人となった。愛純奈はその日、14歳の誕生日で、学校帰りに病院へ寄り、父との時間を楽しむ予定だった。
昨日まであった笑顔が消えた。愛純奈はしばらく学校を休んだ。自分の部屋にこもり、泣いたと思ったら暴れたり、眠り続けたり、情緒不安定だった。四十九日を過ぎた頃、愛純奈は俊彦の部屋に入った。入院する前日のまま、俊彦の匂いがした。愛純奈は声を上げて泣いた。1階に居た愛実が驚いて、部屋に入って来た。愛純奈と愛実は、抱き合ってわんわん泣いた。やっと、俊彦が本当に死んだのだと、もう居ないのだと分かった瞬間だった。
誰だって、必ず死ぬ。そんなことは分かっていても、実際に家族が亡くなるのは悲しい。しかも、元気だった人が突然居なくなるのは、受け入れるのにもかなり時間がかかる。認めたくないし、「あの時こんなことを言わなければ良かった」と、後悔の念に襲われることは自然な反応だ。
龍哉だって、とても悲しかった。父と、もっと遊びたかった。卒業式に来て欲しかった。中学校の制服を見せたかった。入学式に来て欲しかった。将来の夢を聞いて欲しかった。「父さんみたいになる」と、伝えたかった。
初めは父に憧れて、一級建築士の道へ進むために学校を調べた。その中で知った「空間デザイナー」という職業に魅了された。「こんな部屋だったらいいな」と想い描き、そのイメージを具現化する。実際の仕事では、クライアントや施工業者との意見交換が重要なため、コミュニケーションスキルも必要だ。イメージして具現化すること、そしてコミュニケーション、共に龍哉の得意分野だ。
デザイナーが作り上げたイメージを基に、設計図を書いていく。これは、小さい頃龍哉と俊彦が遊びでやってきたことそのもので、龍哉が「こんな感じ」とイメージを伝え、俊彦が厚紙を使って箱を作っていった。龍哉はアート的な分野が得意なので、何となく「デザイナーっていいな」ぐらいには思っていた。空間デザイナーという職業を知り、父はもうこの世には居ないけれど、一緒に建築士とアイディアを練ったり、意見交換をしたりするのは、父と遊んだ頃のようだと、想像するだけで楽しかった。
そう。俊彦はもう、居ない。これは変えられない事実なのだ。それでも、遺された者達は生きていく。事故死、病死、災害での死、様々な死があるが、家族の誰かが生きているならば、その命を最期まで全うするのが供養だと、龍哉は考える。いくつだからとか関係ない。いくつであっても、命ある者は全て、形を消すのだ。永遠に生きている者など、居ない。
愛純奈が「法医学者になる」と言い出した時、龍哉は驚いた。「父の死の真相を突き止める」と言うのだ。そんなこと、出来る訳がないと思ったし、実際愛純奈にもそう伝えた。だが、もう愛純奈は決めていた。決めたらとことんやるタイプだから、誰にも止められない。
それに、龍哉が愛純奈の人生をどうにか出来る訳でもない。ずっと塞ぎ込んでいた姉が、急に生きる意欲を取り戻したのだから、応援するのが一番いいと思った。愛実は、龍哉と愛純奈の選択に、口を出すことは一切なかった。
あれから20年。もし仮に、父さんの死が医療事故だったり、考えたくもないが誰かに殺されていたとしても、もう調べようがない。闇に葬るしかない。だったらもう、いい加減前を向いたらどうなんだ。あの家に住むこと自体はいい。俺も気に入っているし、父さんが遺してくれた家だから、これからもずっと大切にする。
姉ちゃん…正直になろうよ。過去に目を向けてばかり居たら、「今」を大切には出来ない。姉ちゃんのこと、大好きな人がすぐそばに居るのに、どうして気付かないんだよ。なんで一緒にならないんだよ。俺は、省が本当に俺の兄貴になってくれたら、すごく嬉しいよ。
もちろん、結婚ってただの紙切れだし、届けを出すとか出さないとかで、「家族」っていうコミュニティを他人に決められるものじゃない。
だからこそ、姉ちゃんと省には、一緒になって欲しい。二人で幸せになってもらいたいんだよ。お互いに大切な存在なんだろ?
姉ちゃん、他の人のこと見てんじゃねぇよ…省からの気持ち、受け取れって…
「龍っ…?」
龍哉は泣いていた。
「なぁ省ぉ…」
「ん…?」
「姉ちゃん、バカだよな…」
「ん?」
「こないださ、姉ちゃんが誰かと電話してんの見たんだけどさ。俺の顔色伺ってんの。あれぜってぇ、男だよ」
省吾は、龍哉が何を言いたいのか分からずにいた。龍哉は左手で頬杖をつき、続けた。
「何かさぁ…まぁ、楽しそうっちゃ楽しそうじゃけど、なんかちげぇんだよなぁ。気ィ遣っとるっていうかさ。明らかに省とおる時とは全然ちげぇんだよな。別人だわ。あれは姉ちゃんじゃねぇ。」
途中から独り言のようにブツブツ言い始めた。省吾はただ聞いていた。そして龍哉は続ける。
「ぜってぇさぁ、アイツじゃねぇんだよ、姉ちゃんにはさ。絶ッ対に、省しかいねーっつの」
省吾は、こんな様子の龍哉を見るのは初めてで、どうしたらいいか分からなかった。
龍哉は顔を上げ、優しい眼差しで省吾を見つめた。
「省…」
「ん?」
「姉ちゃんとさ…結婚してよ」
「えっ…」
「頼む…」膝の上に手を置き、頭を下げた。
「龍…」
「俺の、兄貴になってください」
「龍、頭上げろって」省吾は小声で言った。「なっ、頼むから頭上げろって」
他の客の視線を気にしながら、龍哉の肩を掴んで頭を上げさせた。
「ゴメン…俺、酔っとるわ」
苦笑いをしながら、龍哉はビールを流し込んだ。そして、もう一度省吾を真っ直ぐ見つめて聞いた。
「姉ちゃんのこと、好き?」
とても穏やかな表情だった。まるで俊彦のようだった。省吾は、鼻の頭がツンとするのを感じた。そして、答えた。
「大好きだよ」
龍哉は、微笑みながらこくんと頷いた。
省吾が「出窓で飲もう」と言うので、愛純奈は省吾の部屋へ入った。ふんわりと、省吾の香りがする。香水でもない、何というか、「男の人」の匂いだ。部屋は俊彦が使っていたそのままで、特に変えた部分はない。「自由に使っていいよ」と伝えているが、「寝泊まり出来れば十分」と、省吾は部屋をあれこれいじっていない。
出窓の張り出し部分が台形になっており、そこは結構広めで、大人が余裕で3人並んで座れるほどのスペースがある。俊彦が生きていた頃はよく、そこに座ってギターを弾いていた。曲はもちろん、浜田省吾だ。十八番は「路地裏の少年」で、カラオケでもよく歌っていた。俊彦の弾き語りを楽しみに、省吾がしょっちゅう山田家に遊びに来ていたのを、愛純奈は昨日のことのようにハッキリと覚えている。
省吾は、愛純奈が大好きなブレンディのカフェラトリーシリーズから、濃厚ビターカフェラテを選んだ。「俺も今日はカフェラテ~」と、歌うように省吾は、愛純奈と同じものを選んだ。
「打ち合わせン時に入った店のコーヒーがさ、マジで苦かったんよね」と、笑いながらお湯を入れた。こんな、何でもないどうでもいいフツーの会話こそが、愛純奈にはぶっ飛んで優先順位トップだ。どんなに疲れて帰っても、省吾と話すとすぐに元気になる。
出窓の前に二人は並び、月を見上げる。ビターカフェラテがたっぷり入ったマグカップも、仲良く2つ並んで湯気を立てている。
「キレイな月やなー。今日は満月?」省吾は何だか、機嫌が良さそうだ。
「んーん、あさって」
「すげぇ!ちゃんと知っとんやな」
省吾はビターカフェラテを一口含み、「あちっ」と言った。泡が付いた唇を、ペロッと舐めてまた、一口飲んだ。
「母さんがいつも、満月の夜にこのリングを浄化してたんよね。母さんが死んでから、しばらく経ってそれを思い出して…それからはいつも、満月の夜はここで、こうやってリングを月の光に当ててるんよね」
愛純奈はネックレスを外して、手の平に2つのリングを乗せた。
「なんとなく…父さんと母さんが、話しかけてくれる気がして…」
愛純奈の首元にはいつも、俊彦と愛実の結婚指輪が仲良く揺れている。愛実が亡くなった8年前から、ずっとそうしている。この指輪には「アレキサンドライト」という、昼と夜とで色が変わる石が埋め込まれている。
「どんな色でも美しさは変わらない」「昼も夜も、君は美しい」
そんなメッセージを込めて、俊彦から愛実へ贈ったらしい。
「夜は色が変わるってやつ?」
省吾は、愛純奈の手の平に並んだリングに、顔を近付けた。
「そう。今はルビーの色。昼間はエメラルドなんよ」
「へぇー。お父さん、ロマンチスト」
「ふふっ。だよね」
「見ていい?」省吾が、リングを指差した。
「いいよ」愛純奈は、リングが揺れるネックレスを省吾に渡した。
静かに流れる時間。愛純奈は、このまま時が止まればいいのに、なんて思った。省吾とこうして一緒に居られれば、他に何も要らないのだ。
あれから…背中の傷のことを打ち明けてから、省吾は毎日「薬塗ってやろーか?」と愛純奈に聞くようになった。夜中に愛純奈が痛みに襲われて、ベッドから落ちた日もあった。その時、すぐに省吾が部屋に駆けつけ、薬を塗ったり、アイスノンを取りに行ったり、愛純奈が眠れるまで一緒に居たりするようになった。
愛純奈は、ここまでしてくれる省吾に、感謝の気持ちをどう伝えたらいいのだろうかと、あれこれ考えていた。しかし、考えれば考えるほど、逆に言葉が浮かばない。
省吾は、左手でネックレスを持ち、2つのリングを月明かりに照らしながら、じっと見つめていた。瞳を輝かせ、好奇心旺盛な子供の表情をする。その横顔も、愛純奈は大好きだった。
突然、省吾が愛純奈の方を向いた。目が合って、愛純奈はビックリして瞬きを一つした。省吾はいつものように、優しく微笑んだ。月明かりのせいか、いつもよりももっと優しい表情に見えた。
しばらく二人は見つめ合った。何秒だったかは分からない。
「後ろ向いて」
「えっ?」
省吾は、ネックレスを持った左手を軽く掲げた。
「あっ…ありがと…」
少し照れつつ、愛純奈は省吾に背中を向ける。頭の上から、ゆっくりと2つのリングが降りてきた。愛純奈の鎖骨辺りで、仲良く止まる。首の後ろで、省吾がネックレスの金具を留めているのが分かってくすぐったい。
ふと、背中にぬくもりを感じた。省吾が、あの傷の辺りに右手を当てている。じんわりと、省吾の手の温かさが広がっていく。その温かさは、全身へと変わった。愛純奈は、省吾に包まれていた。
「省吾…」
愛純奈は、省吾の息が右耳にかかるのを感じた。背中から、省吾の心臓のドキドキが伝わってくる。省吾の香りに包まれながら、愛純奈は目を閉じた。
「愛純奈は…幸せか?」省吾が囁く。
「うん…幸せ」
「そうか…」
「省吾は?」愛純奈は目を開けて、少し目線を右上にした。
「幸せだよ」
「うん…」
省吾は、強く愛純奈を抱きしめ、そして優しく聞いた。
「愛純奈は…俊彦さんのこと、まだ受け入れたくない?」
愛純奈は、少しの間、考えて答えた。「ん…そうかも…」
「うん…俺はさ、それでもいいと思う。ムリに、受け入れなくていいって思う」
「…」愛純奈は、省吾の言葉を待った。
「ただ…悲しいとか、寂しいとか、そういう気持ち…感情は、我慢しないで、ちゃんと感じた方がいい気がする」
愛純奈は泣きそうになった。そう。愛純奈は、「感情」というものをどこかへ置いてきてしまったのだ。ある意味、仕方のないことでもある。「父が突然居なくなった」という現実を受け入れられないまま、遺された者達は生きていくしかない。そんな時に、感情とは厄介なものである。
省吾は続けた。
「愛純奈は生きていくために、悲しむ時間を取ってるヒマがなかったんよな。いきなり父さん居なくなってさ、納得なんかしたくねぇよな。信じたくねぇもんな」
「うっ…」愛純奈はとうとう、泣き始めた。
「そういう…悲しいとかさ、そういう気持ち…俺には出せよ。全部、聞いてやっから」
「…うんっ…」愛純奈は泣きながら頷いた。省吾も頷いた。そして続けた。
「俊彦さんのこと…好きか?」
「…うんっ…大好き…」
「そうか…俺も、俊彦さん大好きだ」
「みんな、父さんのことずっと大好きだよ。母さんのことも」愛純奈は、窓の外の月に目線を向けた。
「うん。そうだな」
数秒間、静かな時間が流れた後、省吾が聞いた。
「愛純奈は…」
「ん…?」右上をチラリと見る愛純奈。
「俺のこと、好きか?」
「…!」
愛純奈は驚いて、固まった。
「えっ…あっ…えと…」
一瞬で涙が引っ込み、慌てる愛純奈の様子を、省吾はクスクスと一人楽しんでいた。
「今日、バレンタインだろ?愛純奈から言ってもいい日だぞ?」
わざとらしく、愛純奈の耳元で囁く省吾。愛純奈から省吾の顔は見えないが、いたずらっ子のような表情がハッキリと目に浮かぶ。
「あっ…うん…じゃぁ…」
愛純奈は、ゆっくりと顔を上げた。省吾と目が合った。
「…?」
「大好き…」
「…えっ…」
愛純奈は微笑んだ。そして続けた。
「省吾は…?」
省吾は、思ってもみなかった展開に驚きつつ、内心喜んでいた。心の中では「よっしゃーーーー!!」とガッツポーズをしたが、あとで一人になった時に思い切り叫ぶことにした。
省吾は右手でそっと、愛純奈の涙の跡に触れた。
「…大好きだ」
愛純奈は潤んだ瞳で、少しはにかんだ。
月明かりを浴びながら、二人は初めて唇を重ねた。
あの日、愛純奈と省吾は気持ちを伝え合った。二人とも、同じ気持ちだった。初めてキスを交わした。あれから一週間ほど経つが、何か進展があったのかというと、これまでと何の変わりもない日常が滞りなく過ぎているのが現状だ。更に言うと、今夜省吾は一人でこの家に居る。つまり留守番だ。愛純奈は今朝、竹原市の大久野島へ一人で向かった。そこで2泊する予定のため、今夜と明日は、省吾一人の夜なのだった。
大久野島は無人島で、一般的には「ウサギの島」「毒ガスの島」と言われている。無人島と言っても、人が全く居ないということではなく、居住者はあっても定住者はないということだ。現在は観光地として名を残しているが、昭和初期には地図から消された島でもある。
この島では、昭和4年から昭和20年まで、太平洋戦争で使用するための毒ガスが作られていたという事実がある。戦前及び戦中、毒ガスの実験用にウサギが飼われていた。戦後に全羽殺処分されたので、当時のウサギの子孫はいないようだ。現在生息している約900羽は、1970年代に地元の小学校で飼われていたウサギが放されて、野生化したものの子孫である。ムクムクと体格のいいウサギを見ると、野生であることを疑いたくなるが、観光客が毎日のように餌を与えるので致し方ないことだ。
突然、愛純奈が「大久野島に行く」と言い出し、サクサクと予定を立てて、一人で行ってしまった。もちろん、どこへ行こうがお互い自由なのだが、せっかくお互いの気持ちを確かめ合った後なのだから、一緒に行ってもいいのではなかろうかと省吾は思った。が、「一人部屋だけ空いていて予約が取れた」と愛純奈に言われてしまっては、どうしようもない。省吾は黙って見送ることにした。
週末。アラフォー。ぼっち。省吾が愛純奈の家に来てぼちぼち3ヶ月経つが、リビングに一人で居ると、結構寂しいもんだなと省吾は思った。思わず出た独り言も、壁に当たって自分の元へ跳ね返って来ると、空しさが激増する。特に、自分で足元に何かを置いておきながらそれに気付かず蹴ってしまい、「いてぇっ!!」と声を出した時の静けさは、アラフォーぼっちにはたまらなくツラいものだ。省吾は長く一人暮らしをしているので、その辺りは慣れているとは言え、愛純奈と気持ちを交換したあとのすれ違いアラフォーぼっちは、いつも以上に堪えるものがある。
外で飲むのもいいが、あまりの寒さで出るのも面倒だ。広島の2月は、本当に寒い。北部の人間からすると、「安佐南区なんてあったかいよ」と言われるのだが、省吾は安佐南区だって寒いと感じている。絶対に北部には住めないなと思う。
こんな寒いのに、よく愛純奈は出かけていったなと感心する。「可愛いウサギちゃんがた~っくさんおるけん、寒ぅても癒やされるわ」とか何とか言っていたが、省吾には全く分からない感覚だ。寒さを軽減するものとウサギの可愛さとは、別物ではないのか。愛純奈はいわゆる「リケジョ」、理系の女子というヤツだが、生まれ持った「女性ならでは」の感覚は、省吾には理解不能だった。
なんて考えていても仕方ない。今夜と明日の夜は、ぼっち決定の省吾。腹が減ったなと思い、コンビニでも行くかと立ち上がると、タイミングがいいのか悪いのか、神川からLINEが来た。少し時間をおこうかと一瞬考えたが、すぐに開いてメッセージを読んだ。
『もう飯食った?』
『いや、まだ。今からコンビニ行くとこ』
省吾が返信すると、神川からビデオ電話がかかってきた。
「おつかれーす。良かったらメシどうよ?」
「えぇけど、残念ながら愛純奈はおらんよ。一人旅に行っとるけぇ」
「知っとる。ぼっちなんやろ?」
「は?」
どうやら、愛純奈が神川に連絡をしたらしく、省吾がぼっちだから誘ってやってくれと伝えたとのことだった。こういうのは、気が利くというのだろうか。何だかんだ、いつもいいタイミングで神川と会っているような気がするなと、省吾は思った。神川が愛純奈に惚れてることは分かっている。が、省吾はずっと愛純奈のことを見てきたし、本当に大切な存在だと心から思っている。誰にも渡したくはないし、神川になんか絶対に渡すつもりはない。もし神川に、愛純奈とキスしたことを話したとして、それで友達関係が終わるとしたら、それはもうそれまでのことだと、省吾は少しだけ、覚悟を決めた。
1時間ほど経ち、神川が酒とつまみを提げて省吾の家にやって来た。
「なんか、また俺達二人?って感じだな」
神川が、袋から冷えたヱビスビールを2本出しながら言った。省吾はそれらを、これまた冷えたグラスに注ぐ。神川が来るまでの間に、冷凍室に入れてグラスをキンキンに冷やしておいた。
「だな。前回は、確かクリスマス?イヴだっけか。今日は何の日でもないよな?おっと、イイ感じの泡…」
「2月22日で、猫の日だな。そうか、今日は猫の診察が多かったのはそのせいか…」
後半は神川の独り言だった。猫の日だと猫の調子が悪くなるのか?と、省吾はツッコみたかったが、やめておいた。
「姫はお一人でどこへ?」
神川がサーモンのマリネや刺身など、次から次へと袋から出していく。前回、省吾と神川がイヴの夜に二人で飲んだ時、省吾がつまみにサーモンのマリネを持って行ったのを、神川は覚えていた。省吾は神川が袋から出したそれらを、皿に移す係だ。買ったままの、トレーに食材が乗った状態はあまり好きではなく、少しでも気分を上げたいので皿に盛る。
「大久野島」手際良く皿に移しながら、省吾は答えた。
「あぁ、あのウサギ島ってやつ?」
「そ。なんか、小さい頃に1回行ったっきりだったの思い出して、それで急に行きたくなったんだって」
「へぇー。お、まずは乾杯しよーや」
「おぅ。カンパーイ!」
数秒間の無言。喉を鳴らす音だけが、部屋に響いた。ぷはーーっと、二人同時に息を吐く。
「しっかし、本田はいつも愛純奈さんに振り回されてんな。先、食うぞ?」
まだ盛り付け途中の省吾に許可を得て、神川はイカの刺身を一口頬張る。
「振り回されてはないけど…なんか、小さい頃から一緒で、兄妹みたいな、保護者?みたいな感じかも」
「もしかしたら、俺達が二人で話せるように、機会を作ってくれたのかもな」
「ん?」
「こないださ、大学で会ったんだけど」
「あぁ」愛純奈が講義をしている大学だ、と省吾は理解した。
「俺がたまたまゼミ室に用事があったから、ついでに一緒に行った訳よ。そこの本棚にあった本の中に、『ウサギ島の真実』ってのがあって」
「ウサギ島の真実…」
「うん。大久野島って、昔は毒ガス作ってたじゃん。その時、実際に働いてた人の手記があってさ」
「へぇー。ってことは、リアルにそこであったことを、残してる人が居たってことか…」
「そう。その手記を集めて、一冊にしたやつ。それ見て愛純奈さんが、『これ、借りてもいいですか?』って、スゴい驚いた顔してて…」
「愛純奈が…」
「うん。もしかしたら何か、愛純奈さんが知りたいことがあの本に書いてあって、それを確かめに行ったのかもね」
「あぁ…愛純奈ならやりそうだな…行動力すげぇもんな」省吾は、「法医学者になる」と言って本当にそうなった愛純奈を思い出していた。
「何か聞いてねぇのか?愛純奈さんと大久野島との関係」
「ん~…どうかな…ウサギ…?毒ガス…?」省吾はビールを一口流した。
「ぶっちゃけさ、いくら広島人だとしても、全員が大久野島のことを正しく知ってるとは言えんじゃん?ほら、平和学習って、地域とか学校によって、教え方とか内容も違っててさ。俺、大久野島の毒ガスのこと知ったの、大人になってからだし」
「確かに、俺も大人になってからだわ」
「俺さ、医学部入って、薬のこととか、動物の生態とか、生きること、死ぬこと…色々勉強して、なんか…医療って何のためにあるんかなって、一時すげぇ悩んだことあって」
「うん」省吾は、神川の次の言葉を待った。
「例えば薬ってさ、毒でもある訳。こう…コインの裏表って感じで」
神川は、右手でビールの入ったグラスを持ち、左手をヒラヒラと返す動きをして見せた後、続けた。
「誰かにとっては薬だったり、ある場面では何かを救う。けど、誰かにとっては毒で、ある場面では何かを殺したり、消したりする」
「うん、そうよな」
「大久野島で作られてた毒ガスも、後の薬…抗がん剤となった訳で」
「えっ、抗がん剤?それは知らんかったな…」
「俺も、大学行って初めて知ったし」
「そっかぁ…えっ、その、医療って何のためにあるんだって…?」
「あぁ…俺らはさ、獣医になるための勉強で、動物実験をするんよね。今は動物愛護の観点から、模型を使う所も増えてるとは思うけど、俺らの時…20年位前は、動物実験してたんよね。もちろん、むやみやたらに殺す、なんてのはなくて、必要な時に実験をするんじゃけど…そういう、『生き物の死』ってさ、何かを教えてくれるものだとは思う。けど、命を救いたいって思って獣医目指しとんのにさ、実際は目の前の生き物を殺しとるやんって思っちゃってさ」
省吾は、神川が学生時代こんなことを考えていただなんて、全く想像していなかった。医療の世界は、省吾にはちんぷんかんぷんだ。
「でさ、4年生の時、同い年の奴らは大学卒業していくのに、自分はあと2年もある、そもそも卒業出来んのかなって、ヤベぇなって時にさ、教授に言われたんよね。『今が踏ん張り時だ。これまで君が関わってきた動物達に、失礼のないように頑張れ』って…そう言われてさ、あぁ、今ここで前向かんと、動物の命を無駄にすることになるなって。俺は何年かかっても、卒業して獣医になって、沢山の動物を幸せにせんといけんのんじゃって、分かったんよね」
「…神川…」
「あっ…ゴメン。なんか、すげぇ喋っちまったな」
照れ隠しに神川はグラスを傾け、一気にビールを流し込んだ。
「んーん。愛純奈も、そういう感じのこと話しとったわ」省吾は、空になった神川のグラスにビールを注いだ。
「愛純奈さんも?」
「うん。法医学ってさ、死因究明学なんよね。なんで死んだのか、徹底的に探る。人の死は、色んなことを教えてくれるって、愛純奈も言いよった。誰かの死が、誰かが生きる糧にもなるし、幸せって何だろう、平和って何だろうって考えたり、こんなことは二度と起こしてはならないって気持ちにさせてくれたり…ほら、事故とか殺人の遺体を沢山診るからさ。同じ悲劇は、繰り返してはいけないって思うって。あと、生きてる人、遺された人に何らかの影響をもたらしてくれるんだ、って」
神川は、深く頷いた。
「愛純奈さん自身がそうだもんな」
「でも、例え原因が分かったとしても、納得いかない死もある、とも言ってた。それ、俊彦さんのことだと思う」
「…うん…」
数秒間、無言の時間が過ぎた。口を開いたのは、神川だった。
「なぁ本田」
「ん?」
「お前…愛純奈さんのこと、好きか?」
「えっ…」
先日の龍哉に続いて、神川まで聞いてくるのか、と省吾は驚いた。過去の省吾だったら、何となくはぐらかしてきたが、今の省吾は違っていた。
「うん…好きだよ」
神川はフッと笑った。
「やっとハッキリ言った」
「えっ?」
「お前さ、俺の気持ち知っとったけぇ、ずっと黙っとったんじゃろ」
「いやっ…それは…」たじろぐ省吾。両膝を手の平でさする。
「分かりやすいんよ、本田は」
「…」
「俺…愛純奈さんにフラれた」
「…へっ?」あまりに唐突で、ヘンな声が出てしまった。省吾は改めて聞いた。
「なんて…?」
「だからぁ、俺は、愛純奈さんに、フラれました」
「…」省吾は驚きを隠せない。
「んっ?おーい、もしもーし!」
神川が、省吾の顔の前で手をヒラヒラとさせた。
「はっ…えっ?何?どゆこと?ドッキリ?」
「ははは!!ウケるなぁ本田。まぁ飲めや」
神川は、半分ほどビールが入った省吾のグラスをパッと掴んで、省吾の顔の前へ突き出した。
「お、おぅ…え?何?いつ?」
「んーと、こないだ大学で会った時。さっき話した、ゼミ室の日。バレンタインデー」
「バッ…バレンタイン?」その日は、省吾と愛純奈が想いを伝え合った日ではないか。
「うん。冗談でさ、『今日は、誰かに告白するんですか?』って聞いたら、『省吾に』って」
「…マジ?」省吾は目をまん丸にした。
「ここでウソついてどーすんだよ」
「そ…だな」
省吾は、あの日のことを思い出していた。愛純奈は、省吾に告白するつもりでいたのだ。バレンタインデーということを忘れていたような素振りだったが、神川に宣言しているということは、あれは演技だったのか?それとも、自分から言うつもりだったのに、省吾が「告白してもいいよ」的な前フリをしたので、戸惑ったのか…?愛純奈は自分の計画通りに物事を済ませたいタイプで、告白のセリフや手順も事細かに考えていたハズだ。省吾はそれをぶった切った。愛純奈の脳内コンピュータは、突然バグってしまったに違いない。
「マジか…俺…やっちまったな…」省吾は呟いた。
「で?告白されたんだろ?付き合ってんの?結婚は?」
神川は、瞳をキラキラ輝かせて、前のめりになった。
「ちょちょちょ…質問攻めかよ」
「すまんすまん、なんか面白くて」
「なんだよ…」
「はぶてんなって。で?どうよ?」
神川は興味津々の表情で、マグロの刺身を一口つまんだ。省吾は、両手で拳を作って両膝の上に置き、一度深呼吸をした。
「ん…今度…プロポーズする」
「おおおおおおーーーーー!!!!マジか??おめでとう~!!」
「おおおおっ…あ、ありがと」
「カンパーイ!!!いつ?いつ結婚すんだ?」
「いやまだ日取りは…」
「俺に一番に知らせろよな」
「なんでだよ」
「なんでもだよ」神川は被せ気味に言った。
神川の嬉しそうな顔を見ていると、省吾は少し、心の中がツンとするのを感じた。
「神川…嬉しそう…」
「そりゃ嬉しいよ。やっぱ、本田には敵わねーよな。ってか、この刺身うめーな。ビールと合う」ごまかしているのか、次々と口へ食べ物を運ぶ神川。
「神川…すまん…」
「ん?」
「俺…お前が愛純奈に気があるって知って、なんか…どういうつもりなんだろうって、ずっと考えてて…」
「そりゃ、当然だろ。いきなりこんなのが出て来てさ、自分の大好きな人に近付かれたら、気になるっしょ。愛純奈さん、鈍感だし」
「ふっ。そうなんよな~」
「俺はこれからも、遠くから愛純奈さんを見守るわ」
「ん?愛純奈には言ってねえのか?」
「ん…何回か、遠回しに気付いてもらおうとはしたけど、やっぱ愛純奈さん気付かずスルーでさぁ。で、バレンタインデーに逆告白?ってのもヘンか。まいーや、告白しようとしたら、バッサリだったからさ。気持ち伝えるどこじゃなくなって、もういっかって」
「そう…か」
二人はお互いの顔を見て、クスッと笑った。
「俺…愛純奈さんを部屋に呼んだことあってさ。まぁ断られたけど。20年前の…愛純奈さんのお父さんのことを話すって言って、そういう口実でさ…二人で会いたかったんだ。俺…ずっと本田が羨ましくて」
「俺が…?」
「あぁ。愛純奈さん、いっつも本田の話ばっかすんだもん。すんげぇ~幸せそうな顔すんだよなぁ。お前、マジで幸せモンよ」
「ははっ…そうなんや…」
「今日はさ…あのこと、話したくて来た」
「あのこと?」
「愛純奈さんの、お父さん。山田俊彦さんのこと」
「…愛純奈に一番に話すんじゃないのか?」
「ん…そう思ってたけど、今日愛純奈さんから連絡もらった時、あ、これは本田に話せってことなのかもって」
「…」
「愛純奈さんが、ずっと知りたかったことを話す。で、俺と本田で、愛純奈さんを守れたら、って思う」神川は真っ直ぐ、省吾を見た。
「愛純奈…なんか危険なのか?」
「ある人物にマークされてる。俺は、ソイツに近い所におるけぇ、情報が入りやすい。これからは、その情報を本田にも共有していこうと思う」
「あ…あぁ…なんか怖ぇな」
「いいか?話しても」
省吾はやや緊張した面持ちで、座り直した。
「…あぁ。始めてくれ」
「オッケー。じゃぁ、あの日のこと、話すぞ」
神川も座り直し、一度深呼吸をして、静かに話し始めた。