~因縁2~
【2029.1】
年が明けてしばらく経った頃、神川は愛純奈に連絡を取ってみた。石森がいつ動き出すか分からないので、早く愛純奈に伝えたいことが山ほどある。石森は、やると決めたらどんな手を使ってでも、自分の欲を満たす。石森には手下と言うか、駒が山ほど居て、そいつらに指示を出して先に金を与え、言うことを聞かせるという手段を執る。
20年前、一瞬でも石森と関わってしまったことを、神川は後悔した。あれさえなかったら、愛純奈とはフツーに、自然に交際できたかもしれないのに。石森をこの手でどうにかしてやりたいという気持ちが沸いてくるが、何とか抑えた。ここで神川自身が、何らかの罪を犯してはならない。とにかく、何とかして愛純奈を石森から守らなければ。
そのためにも、愛純奈に事実を伝えなければならない。しかし、人に聞かれてはまずい内容を、どこかのカフェで話す訳にはいかない。かと言って、こないだのように家に来てくれと誘うのも気が引ける。あれこれ悩んでも仕方ないので、とりあえず「もしお時間ありましたら、お会い出来ると嬉しいです」とメッセージを送った。まだ既読にはなっていないので、スマホを見る時間もないのだろう。法医学者はまだまだ少ないし、解剖医一人あたりの負担が大きいと聞いたことがある。法医学の仕事、好きなのかな…なんて考えていると、休憩時間がそろそろ終わる頃だと気付いた。神川は伸びをしながら、椅子から立ち上がった。その瞬間、スマホが知らない番号からの着信を知らせた。
神川は一瞬迷ったが、出てみた。次の瞬間、電話に出たことを後悔した。
「お疲れさん。神川先生」
ねっとりとした話し方。石森だった。
「石森っ…どうしてこの番号っ…」
神川は、「先生」と言わなければいけないと分かっていたがムリだった。石森は頼んでもいないのに、勝手に話し始めた。
「いや~ぁ、先日、例の法医学者さんに会って(おうて)のぅ、なかなかの美人じゃったぞ。写真よりも、実物の方がえぇわ」
「愛純奈…さん?」
「ほぅよ~。山田愛純奈先生。若いのに、優秀でねぇ。知識もあって、解剖件数も重ねられて。未来の法医学を任せられる人じゃの。これも、父親が死んだおかげじゃろうのぅ」
「…」神川は、何も返せなかった。
「山田先生の顔を見て、思い出したんじゃ。あの子は、ワシが現役で救急におった頃、研修医でなぁ。熱心に勉強しよったよ。」
「えっ…?」背中を寒気が襲った。
「山田先生も、そのことを覚えとったわ。ワシに向かって、あのキラキラした瞳で、『先生が熱心に教えてくださったおかげです』って、そう言いよった」
神川は、額に冷や汗をかいていた。
「ほんじゃぁ、そういうことで」
石森は、一方的に話して一方的に電話を切った。スマホをテーブルに置き、自分の手が大汗をかいていることに気付いた。神川は、午後からの診療が憂鬱になった。
「山田先生、ちょっと…いいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
愛純奈は、石森から話しかけられて驚いた。例の雑誌に掲載されてから、他の雑誌からもインタビューの依頼が来たり、医師という医師が、次から次へと広法研へ会いに来る。医療系の学生が、広法研に来たこともある。テレビに出たわけでもないのに、医療雑誌は読む人が限られている分、世間が狭い。つまり、噂が広まるのが早い。
石森は、雑誌を見て広法研に連絡をしてきた。研修医の頃に世話になった医師なので、愛純奈は喜んで会うことにした。広法研の所長、部長、愛純奈、石森といったメンバーで軽くお茶をして、愛純奈が研究所の玄関まで見送った際、改まった様子で石森が愛純奈に声をかけたのだ。
「あのぅ…これはお伝えすべきか、迷ったのですが…」
「はい、なんでしょう…?」
「山田先生、最近、どなたかにつきまとわれてはいませんか?」
「えっ…」
「いえ、ちょっと気になってね。ウチの周りで、噂になってるものですから…」
「噂…」
「えぇ。獣医なんですけどね、どうやら、あちこちで女性医師に声をかけているそうなんですよ。それで、見た目もいいモンだから、結構騙されてしまう女性が多いそうで」
「獣医…」愛純奈は一人の顔を思い浮かべた。
「もしかして、どなたか知り合いで?」
「あっ、いえ…」
「ホントに気を付けてくださいね。特に、神川って獣医は、学生の頃から有名だったんですよ。私は、彼の父親と大学の同期でね。昔から彼を知っているんですが、結構派手にやってましてね。父親は、どっちかというとおとなしい方でしたが…」
愛純奈は、神川の持つ雰囲気と、石森の言う神川のイメージとがかけ離れていて、違和感を抱いた。
「山田先生?大丈夫ですか?」
「あっ、はい、大丈夫です」笑顔で返す愛純奈。石森は、声のトーンを下げて、愛純奈に耳打ちしてきた。
「ここだけの話、彼は20年前にも問題起こしてるんです。患者さんのことで、色々とあってね…」
「20年前…?」
「おっと…少し話しすぎました。すみません、最近ちょっと困っていたので、愚痴になってしまいました」
「いいえ…」
「では山田先生、くれぐれも、お気を付けて。何かありましたら、すぐに仰ってくださいね。私が名誉院長だからとか、関係ないですからね。先生は、私の大切な教え子ですから」
「ありがとうございます」愛純奈は丁寧に頭を下げた。
愛純奈は戸惑った。実際に神川と会った時には全く感じないことを、石森から聞かされたからだ。しかし、石森が愛純奈に嘘を伝える理由が分からない。神川とは、そこまで頻繁に連絡を取り合っている訳ではないし、つきまとわれているといった感覚はないに等しい。
ならば、なぜ石森はそんなことを言ったのか。石森には、研修医時代世話になった。「医師としての腕は確かでも、裏では何を考えているか分からない」と噂があったが、愛純奈はそんなことお構いなしだった。早く法医学者になりたかった。毎日が戦争のようだった。
法医学者になってからは、ますます父の死因を突き止めたい気持ちが強くなった。絶対にこの手で暴いてみせると、父に誓ったのだ。
なのに結局、20年経っても、何も分からないままだ。いくら時効がなくなったとは言え、20年も経ってしまえば、証拠なんてものも見つかる訳がない。それに、法医学の知識をフルで活用したとしても、そこにある「事実」をただ書き起こすのみで、犯人を逮捕するのは警察の仕事だ。今更何か情報を得たところで、果たして警察は動くだろうか。
何のために法医学者になったのだろう。最近は、そんなことばかり考えてしまう。省吾はいつだって、「愛純奈はすげぇヤツだ」と言って、ニコッと笑う。その笑顔を見られるだけでも、愛純奈は十分幸せだと思っている。このまま、父の死因が分からなくてもいいのかもしれない。救急の現場で、散々人の死を診てきたし、人はいつか死ぬ。そんなことは分かっている。なぜこだわるのか。愛純奈は自分でも分からなくなっていた。
そう言えば神川も、省吾と同じように愛純奈を褒めたり、愛純奈のことを恥ずかしげもなく「ステキだ」と言う。石森の言うことが本当かどうかは分からないが、少なくとも愛純奈は、神川に対してイヤな感情を抱いてはいない。省吾と神川は同級生だし、最近特に仲が良いようにも感じる。正反対のようで、よく似た二人だ。
愛純奈はふと思った。石森がこぼした「20年前」って、何だろうか。問題を起こした、と言っていた。神川が、何かやらかしたということか。20年前だと、神川はまだ高校生のハズだ。石森の話しっぷりからすると、高校生の神川は、「何か」をしでかしたようだ。
「神川…?」
愛純奈は急に思い出した。そう言えば、俊彦の担当医も「神川」という医師だったハズだ。石森は、神川の父と同期だと話していた。つまり当時、神川の父が担当していた患者、愛純奈の父・俊彦のことで、神川が「何か」をしたということか…?その「何か」とは、一体何なのだろうか…?悪い方にしか考えられない。
もしかして、俊彦の死と神川がやらかした「何か」は、関係しているのだろうか…?それは、愛純奈が一番知りたいことなのではないだろうか。
父は死んだ。それが事実だ。それだけだ。なのに、ずっとそこに囚われていて、進んでいない。何とかしたい。何とかするためにも、父の死因をハッキリと知りたい。でも、法医学者を続けたからって、そこに辿り着けるのかどうか、分からない。いや、もうきっと分からないままだろう。終わりにしたい。
モヤモヤと考えていたって仕方ないことに気付き、愛純奈は次の解剖の準備に取りかかった。
数日後、愛純奈と神川は会っていた。「カフェラテの美味しいお店を探しておく」と言った神川は、本当に店を探して愛純奈を誘った。「こんな近くにあったとは」と、神川動物病院のすぐ近くにあった店を、神川は気に入った。愛純奈は、石森からの妙な情報も、今は横に置いて楽しむことにした。
「はぁ~、美味しいっ!」
「良かった。姉がカフェラテ好きで、聞いてみたんです。愛純奈さんも気に入ってくれて、嬉しいです」そう言って神川は、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
神川の笑顔は、いつも本当に爽やかだ。この笑顔に、何人もの女性が落ちたというのもよく分かる。しかし、神川がつきまとったり、しつこいといったイメージが全くない愛純奈は、石森がどういうつもりなのか、不思議でたまらなかった。
「お姉さんが居るんですね」
「はい。姉は心臓外科医なんです」
「家族みんな、医者なんですか?」
「父が脳外、母は放射線技師、兄は神経内科医です」
「へぇ~!」
「俺だけ、動物のお医者さんやってますね」と、また爽やかに笑った。
「お父様は、脳外なんですね」
「はい。でも、脳外以外にも色々と診てますね。当直の時に、救急で担当した患者が病棟へ移った時も、担当医は変わらず父で、もう一人別の担当医と二人で診たりとか。最初に関わった患者は、退院まで診たいって人で。他の領域の勉強にもなるし、色んな医師と関われていいって言ってました」
「へぇ~…とても勉強熱心というか…」
「そうなんですよ。今はだいぶ歳ですけど、それでもまだ学び足りないって。ホント、尊敬します」
愛純奈は、20年前を思い出していた。俊彦がバイク事故で運ばれた時、最初の担当医は確か「神川」という医師だった。頭を打っていたが手術の必要はなく、経過は良好だった。
俊彦からよく、「リハビリ中に、神川先生から声をかけてもらった」「自分と同じ俊彦という名前の先生だ」と聞いていた。自分が執刀した訳でもないのに、関わった患者のことを本当に気遣ってくれる人なのだと。その「神川先生」と、目の前に居る「神川」の父が同一人物かを確かめたかったが、今回は遠慮した。もし本当にそうだとしたら、不思議な縁だ。神のイタズラとはこのことか。
談笑中であっても、愛純奈の心の中はモヤモヤしていた。石森の言葉を鵜呑みにするつもりはないが、「20年前」というキーワードがチラついてしまう。一体、何があったのだろうか。どうやったら、事実を知ることが出来るのだろうか。
「愛純奈さん?」神川が、心配そうに顔を覗き込んだ。
「あっ、すみません…カフェラテ、美味しいです」
愛純奈は慌ててカフェラテを一口飲んだ。
「…愛純奈さん、何か心配事ですか?」
「えっ…」マグカップを両手で持ったまま、固まる愛純奈。
「もしかして、本田のこと?ケンカでもしました?」
「いえいえ!省吾とは何も…」と言いながら、愛純奈は最近のことを思い返した。そう言えば、省吾とまともに話していない。年末年始は休みがあったが、またいつものように働く日々が始まり、解剖と講義と研究と、毎日くたびれて帰る。
いつも冷蔵庫には、「愛純奈用」と書かれたラップで包まれた食事が入っている。省吾は趣味で料理をするのだが、最近帰りが遅い愛純奈のために、夕飯を作ってくれている。すっかり省吾に甘えてしまっているなと、改めて思った。
「あまり…話してなかったです。なんか…色々あって…疲れて帰ると、もうすぐに寝ちゃうんですよね」
「そんなにハードなんですか」
「今だけです。年が明けて、1月いっぱいくらいは。もうそろそろ、落ち着くと思います」
「そうですか…今日もお忙しかったのでは…」
「いえ、今日は解剖ない日で。午後から割とゆっくり出来たし、そのまま家に帰っても良かったんですけど、先生とお会いしたかったし」
「ありがとうございます。なんか、嬉しいです」
神川の優しい話し方、爽やかな笑顔を見ると、20年前、何かをやらかしたなんて嘘に思えた。しかし、考えれば考えるほど、俊彦の死と無関係とは思えない。
「愛純奈さん…俺、どうしてもお伝えしたいことがあるんです」
「はい、なんでしょう?」
「ここで、あまり詳しいことは言えないのですが…近いうちに、その…二人で会って、ちゃんと話したくて…」
「はい…」
愛純奈は緊張した。今も「二人」で会ってはいるのだが、改めて二人きりで、という意味だろう。一体何の話だろうか。
「あの…どういった…」
「あぁ…そうですね…」
愛純奈は神川の顔をじっと見た。
「20年前の…ことです」
「20年前…?」
「はい。どうしても、お伝えしたいんです。事実を」
神川は、今までで一番真剣な表情をした。
事実…。愛純奈がずっと知りたかったことだ。その「事実」を知りたくて、法医学者になった。まさか、神川の口から聞くことになるのか…?
「それって…父の…ことですか?」
「詳しいことは、ここではちょっと…すみません…だから、どこかで二人で、誰も居ない所で話したくて」
「…もしかして、それで先生のお家に?」
「あっ…いえ、それは違うんです。すみません、あの時は失礼しました」神川は、咄嗟に否定した。
「いえ…」
少しの時間、沈黙が流れた。
「今は…どうですか?」膝の上に拳を置いて、神川は聞いた。
「はい?」
「俺の部屋に、来てもらっても、大丈夫ですか?」
「あっ…」
愛純奈は気付いた。神川は、愛純奈を誘っている。省吾という「幼なじみ」ではなく、神川という「男」の所へ来ないかと。
「もし、先生のお部屋に行けば…その、20年前のこと、父のことを、話してもらえるんでしょうか?」
神川は、自分のことを「ズルいな」と思った。だが、愛純奈を守るためには、これぐらいのことを言わなければ。それに、本田を選ぶか神川を選ぶかは、愛純奈が決めることだ。
「はい」
穏やかな表情で、神川は答えた。
愛純奈は、少しの間考えていた。石森の言葉が気になる。これは、本気で誘っているのだろうか。父のこと…俊彦の死因について、「事実」を伝えたいと言う。それは、もしかすると、聞きたくないことかもしれない。まさか、「俊彦さんを殺したのは俺です」なんて言って、愛純奈のことをその場で殺すのだろうか。こんな爽やかで親切な人を疑うなんてサイテーだなと愛純奈は思ったが、今の愛純奈の心は、ほんの少しのことでも疑ってしまうほどに、小さくなってしまっていたのだった。
愛純奈は一度、深呼吸をした。
「分かりました。お話を、聞かせてください」
出来るだけ、穏やかな表情と口調で伝えた。
「はぁっ…あ、ありがとうございます」
神川は、安心と覚悟が入り混じった表情をした。その場で日程を決めると、神川のスマホに動物病院から電話が入った。長谷川から、「緊急のオペとなったので、どうしても神川の手が必要」とのことだった。
「すみません。では、また」
「はい、また」
伝票をレジへ持っていく神川の背中を見送り、愛純奈はまた考えた。もし本当に、俊彦を殺したのが神川だとしたら…何のために自分に近付いて来たのだろうか。石森が言うように、「気を付ける」べき存在なのだろうか。これまでに会ったのは数回だが、それでも十分に神川の人柄は伝わって来た。省吾と仲良くしているし、「いい人」だ。しかし、「いい人=殺人を犯さない」という式は成り立たない。それは、警察の人間がいつも口にしていることでもあるし、愛純奈自身もそう感じていることだ。
それにしても神川は、どういうつもりなのだろうか。愛純奈がいつか、「事実」を掴んでしまうことを怖れ、自分の過去がバレては困るから、先に抹消してしまおうといったところか。もし自分が犯人だったら、自分が殺した人間の娘を、どうしたいだろうか。いやそもそも、神川が殺したのか?それとも、他に誰か共犯が居るのか?俊彦の死因は、一体何なのか…?
もうずっとグルグルしている。20年間ずっと…。父さん…教えてよ…どうして死んじゃったの?
愛純奈は、目の前のカフェラテがすっかり冷めてしまったことに気付き、一気に飲み干してから店を出た。
神川のスマホに着信があった。登録はしていないが、何度も番号を見ているので、もう誰だか分かる。本当は出たくないのだが、この主は神川が電話に出るまでしつこくかけて来るので、出るという以外に選択肢はない。では着信拒否をすればいいのだが、どうせ石森のことだ。どうにかして連絡してくるに違いない。放っておけば留守電に切り替わるのだが、この主は留守録を使わない主義らしい。
ここの所、休憩時間に心から休憩出来た試しがない。ため息をつき、神川は仕方なく緑のマークをスワイプさせた。
「お忙しいところすみませんねぇ、神川先生。あ、今は、休憩時間ですか?」
いつものようにねっとりとした口調で、石森が勝手に話し出した。
「…はい」分かっているなら休憩させてくれ、と神川は心の中で舌打ちをした。労いの言葉もなく、石森は続けた。
「先日、神川先生と山田先生をお見かけしたんですよ。ほら、先生の病院の近くにあるカフェで。声をかけようか思うたんじゃけど、お邪魔かなぁと思うてね」
石森は「お邪魔」の部分を強調させた。
「…!」あのカフェで会っていたのを石森に見られていたかと思うと、神川はゾッとした。
「ご用件は…?」早く済ませたかったので、神川は話を促した。
「あぁ、そうそう。山田先生をね、ぜひともウチの病院にお呼びしたくてね。あんな優秀な人、法医学者にするよりも、臨床医で活躍すべきじゃないかと。神川先生も、そう思うでしょう?」
「はぁ…愛純奈さんは、今のお仕事に誇りを持っておられるでしょうし…」
「ほぉ…山田先生のこと、よぉ~ご存じで」
「いえ…別に…」
「ちょっと、神川先生のお考えを聞きたくてね。ではまた」
石森はまたいつものように、一方的に電話を切った。
どうやら石森は、愛純奈を今すぐにどうにかしようとは思っていない様子だ。むしろ、自分の病院で働かせようとしている。身内に置いて、自分に疑いを持たせないようにするつもりか?20年前のあのことを、誰よりも知っているのは石森だ。
とりあえず、今すぐにあのことを打ち明けなくても大丈夫そうだし、愛純奈と接触するのは少し控えよう、と神川は思った。また二人で会っている所を石森なんかに見られたら、メンドー極まりないからだ。神川は、スマホを白衣のポケットに入れ、大きくため息をついた。
どうすれば終わらせられるのか。生きている限り、石森と縁を切ることは出来ないのか。ただ平凡な日々を生き、幸せに暮らしたいのに…。
パソコン入力が一段落したので、愛純奈は席を立って休憩に入った。澄んだ冬の空を見ようと、屋上へ出向く。
愛純奈は時々、屋上を利用する。広法研を建てる時にこだわったのが、休憩スペースの確保だった。仕事に集中するためには、適度な休憩が重要である。そしてリフレッシュして、また過酷な現場へと向かうのだ。
愛純奈の仕事は、解剖だけでなくそれに関連した報告書の入力や、大学での講義、広島に法医学という学問を広めるための戦略を練ったり、法医学そのものの研究だったりと幅広い。解剖医は愛純奈を含め3人居て、その他診療放射線技師が4人、所長1人、部長1人、研究員と称するスタッフが5人で、解剖時にご遺体の写真を撮ったり、データを入力したり、様々なことをする。
まだ広法研自体が新しいので知名度も低いのだが、今後スタッフを増員して、広島に法医学が当たり前に存在することで、犯罪抑制や医学の発展へと繋げていきたいと、所長を始めスタッフみんなが思っている。どの時代も、人の「死」によって医学は進歩し続けてきた。疾患による死であれ、事故死であれ何であれ、「死」から分かることは非常に多くある。
法医学の場合、殺人事件だったり事故だったりといった死を扱う。ご遺体をくまなく観察し、分析して見えたもの…それを「答え」と言っていいものかは分からないが、そこから見えた「事実」からまた、未来の医学へと活かしていくというのを繰り返していく。
誰の死も無駄にしないし、そもそも無駄な死など存在しない。俊彦の死はあまりに突然で悲しかったが、今こうして法医学者として社会の役に立てているのは、紛れもなく俊彦の死があったからだと、愛純奈はようやく思えるまでになった。
先日交わした、神川と愛純奈が二人っきりで会うという約束は、延期になった。神川曰く、急に忙しくなり、しばらく時間が取れないとのことだった。愛純奈は、半分残念に思ったが、半分は安心した。神川から「事実」を聞けなくなった、また俊彦の死因が分からなくなったという残念な気持ち。そして、神川と二人で会う、しかも神川の部屋で二人きりで会うことが、正直怖かった。愛純奈は、話が延期になってホッとした。お互い大人だし、色々なことは覚悟しているのだが、いざとなると逃げ出しそうだった。省吾はどう思うだろうかと、いつも気にしてしまう。
最近、省吾と話せていないせいか、余計な事ばかり考える。今度の休みは、何をしているんだろうか。たまには外へ出て話すのもいいな。省吾にLINEしようとスマホをポケットから取り出すと、ちょうど省吾からLINEが届いた。こういう時、「繋がってるな」と感じる。省吾のメッセージは、『今度の休み、どっか行かん?』だった。愛純奈は、『私も今、同じこと考えとった』と打ったが、送信する前に消して、打ち直した。なんとなく、恥ずかしくなったのだ。
『行こ行こ!省吾は行きたいトコあるん?』と聞いてみた。すぐに既読になり、10秒ほど待つと、返事が来た。
『実は、前から愛純奈を連れて行きたいトコがあって』
『どこ?』
『帰ったら話す 今日は何時頃帰るん?』
『んーと、18時くらい』
『OK!俺、飯作っとくわ』
愛純奈は『ありがと』という言葉と共に、柴犬が笑っている可愛いスタンプも送った。
久々にこんな会話したなぁと、愛純奈は一人ニヤけた。屋上には他に誰も居ないのに、思わず周りをキョロキョロした。省吾と話せることが、こんなにも嬉しいなんて。神川と会うのも楽しいが、なんとなく緊張するのだ。
愛純奈は、省吾と居る時の自分が好きだと自覚していた。そして、「幼なじみ」という関係を終わらせたいという気持ちにも、うすうす気付いていた。だからと言って、いきなり告白するのもどうかと思う。龍哉に間を取り持ってもらうことも考えたが、その案は一瞬にして消えた。
とりあえず、今夜は省吾と一緒に夕飯を囲めるのだと考えるだけで、十分幸せだった。
愛純奈と省吾は、岡山県の倉敷市へ向かっていた。高速を使えば2時間ほどで着くのだが、省吾が「下道でドライブしたい」と言うので、朝早く出発することにした。愛純奈の車を省吾が運転し、目的地へと向かう途中、適当に見つけたファミレスのチェーン店に入り、昼食を済ませた。
省吾の言う、「前から愛純奈を連れて行きたいトコ」というのは、俊彦や愛実が眠る所とはまた違った雰囲気の、見晴らしのいい霊園だった。
省吾は、缶コーヒーのエメラルドマウンテンのプルタブを開け、「あったかいうちにどうぞ」と供物台に置き、手を合わせて目を閉じた。省吾の左斜め後ろに居た愛純奈も倣って、手を合わせて目を閉じた。
行きの車中で、目的地について省吾から聞いた。その人は「山口紘希」という名で、省吾の先輩、師匠らしい。省吾がカメラの世界に入るきっかけは、とある写真展だった。
会社員を辞め、父を看取り、カメラを買ったはいいものの、次に何をするか決めかねていた省吾は、たまたまテレビを観ていたら「山口紘希写真展―HIROKI YAMAGUCHI―」のCMが流れて来た。広島市内であるので行ってみよう、そんな軽い気持ちで行ったのだが、実際は全ての写真、作品に心を掴まれた。中でも特に目を引いたのが、白黒の写真で、女性がこちらを真っ直ぐ見つめているものだった。黒っぽい下着の上に、サイズオーバーのシャツを羽織っている。レースのカーテン、窓から差し込む光…タイトルは「愛する女性」だった。
25歳だった省吾は、こんなにも美しい写真を見たのは初めてだった。しかも、下着の上に白シャツ―きっと男性ものだろう―を羽織っているだけなのに、全くいやらしさを感じない。ただただ、美しい。「こんな写真を撮りたい」と、衝動に駆られた。同じサイズのポスターが販売されていたので、迷わず購入した。現在の省吾の部屋に飾ってあるポスターだ。
省吾は、写真展から帰ってすぐに、主催に連絡をした。どうしても、山口氏に会いたいと興奮気味に伝えた。後日、紘希とコンタクトが取れたので事務所へ行き、「カメラをイチから教えて欲しい」と懇願したのが始まりだ。
そこからずっと、紘希は省吾に世話を焼いてくれた。仕事も沢山分けてくれた。紘希の信頼のおかげで、省吾に仕事が回ってきた。3年前、日本を離れたのも、紘希が勧めたからだ。何の迷いもなかった。日本に帰ったらまた、一緒に仕事をしよう、そう約束したのだが…。
昨年1月、紘希は交通事故でこの世を去った。省吾は、紘希の妻から知らせを受けた。あまりに突然のことだった。
「紘希さんは…俺にカメラをイチから、いや、ゼロから教えてくれた人。俺は絶対に、渾身の一枚を撮って紘希さんに見せるって、約束した。なのに…あっちに行っちまってさ…」
墓石を見つめながら、省吾は続けた。
「今日、命日なんよ。愛純奈と一緒に来れたらいいなって思って」
「そうなんだ…」
愛純奈は省吾の左斜め後ろから、省吾の肩越しに墓石を見つめた。花が溢れそうなほどに供えてあり、訪問者の数がうかがえる。
「日本に帰ったら、愛純奈を紹介するつもりじゃった。紘希さんに、愛純奈を撮ってもらうのもいいなって。どんなふうに撮るのか、愛純奈はどんな表情をするのか…見てみたかった」
省吾の背中は寂しそうだった。憧れている人がこの世を去ったのだから、当然だ。しかし、それ以外にも何か別の寂しさがにじみ出ているのを、愛純奈は感じていた。