~出逢い~
【2028.12】
愛純奈と莉花は、広島の本通りにあるイタリアンの店の前に居た。おととい、急に莉花から愛純奈に連絡があり、「とにかく付き合って欲しい」と懇願してきたので、愛純奈は仕方なく付き合うことにした。
莉花は、勤め先の動物病院の院長と副院長と、食事に行くことになった。だが、副院長がどうしても「誰かもう一人女性を」と言って聞かないため、愛純奈に白羽の矢が立ったのだ。莉花曰く、他のスタッフにも声をかけたが全滅で、OKだったのが莉花のみでしかも既婚者だったので、独身の女性がもう一人欲しかったらしい。
副院長の長谷川はちょっと変わった人で、急に「○○が食べたい」と、スタッフを連れて店に行く。自分が食べたいのならば、一人で勝手に行けばいいのに、というのが莉花の言い分だ。「副院長の奢りだから」と、気軽に付き合って欲しいと言われて、愛純奈は仕方なく来たという訳だ。とりあえず、明日は解剖がある予定なので、ニンニクは絶対に食べないようにする。というか、愛純奈はそもそもニンニクがそこまで好きではない。
莉花は生まれつき難聴で、普段は補聴器を着けて会話をしている。音が全て聞こえているという訳ではなく、補聴器によって少しだけ、周りの音が「耳に入ってくる」という感じらしい。相手が何を言っているのか一言一句聞き取れることはなく、口の形を読む、いわゆる「読唇術」を使って大まかな言葉を読み取り、脳内で変換して予想しながら話を進めていく。補聴器を外すと全く音が入って来ないので、隣でどれだけ大イビキをかかれても安眠妨害される心配がないと、莉花は笑って話した。
愛純奈と莉花は、愛純奈が愛実に連れられて、手話サークルへ行った時に出会った。大人達の話が面白くなくて、子供同士、気が合った。そこではデタラメな手話、とも言えないようなジェスチャーを使っていたのだが、何故かお互いにちゃんと理解して、コミュニケーションを取っていた。それからもう20年以上、ずっと仲が良い。
莉花は、愛純奈と話す時は声と手話を使う。声が出るうちは、出来るだけ声を使って話したいという気持ちがあるからだ。手話サークルに居た年配の人が、「歳を取って、舌や喉の筋肉が弱り、段々と声を出しづらくなってきた」と話しているのを聞いて、「いずれ声を出せなくなるなら、出せる間は声を大切にしよう」と思ったらしい。莉花にとっては、手話も音声言語も、どちらも大切なコミュニケーションツールなのだ。
仕事は動物病院の受付だ。名札に「莉花です。耳が聞こえにくいので、ハッキリと話してもらえると嬉しいです」と書いてあって、必ず初診の患者には見せる。
莉花はとにかく明るくて、人懐っこい。困った時は自ら助けを求め、出来ることは自分でやる。愛純奈は時々、莉花が難聴であることを忘れてしまって、手話なしで声だけで話すことがある。「あっ、ゴメン、手話忘れてた!」と伝えると、「アハハ!いいよ~!手話使うの、愛純奈だけじゃしね」と笑う。
莉花は周囲に「手話を覚えて欲しい」と言ったことがない。「声で話せ」と強要されたくないから、「手話を覚えて」と強要しないという考え方らしい。愛純奈とは、いつの間にか手話で話すようになっていた。手話サークルに行くと、「将来は手話通訳じゃろ?」と、大人達が次々とプレッシャーをかけてくるのがイヤで、よく莉花と会場の外へ出て遊んだ。ただ純粋に、「楽しく話す」ことがしたかった愛純奈は、莉花の存在に救われた。莉花には何でも話せる。だから、省吾との同居に関しても莉花は知っている。
集合時間よりも早く着いたが、寒いので店内に入った。12月に入り、街も店内もすっかりクリスマス仕様だ。大きなクリスマスツリーと、毎年この時期に必ず流れるお馴染みのBGMが、愛純奈達を出迎えた。ホールスタッフは若い女性が多く、厨房は男性がメインのようだ。全体的に若者向けの雰囲気で、いかにも女性が好きそうなインテリアが沢山並んでいた。「女性が好きそう」というのは、ある意味偏見なのかもしれないが、愛純奈自身は、いわゆる「女性が好きそう」なものをほとんど好まない。つまり、この店は愛純奈にとっては落ち着かない場所だ。でもまぁ、奢ってもらえるし、外食と言えば龍哉との飲み会ぐらいだし、新規開拓もしてみようか、もしかしたら楓ちゃんが好きなお店かもしれないし、と、割り切った。
「副院長、早っ…」
「おぅ!お疲れさん」
長谷川は既に着席していたが、二人を見てすぐに立ち上がった。運動部出身なのかガタイがよく、声が店内に響く。
「初めまして。神川動物病院の副院長をさせてもらっております、長谷川です。莉花さんにはホント、お世話になっております」
「お世話してます~」と、莉花は笑った。
「初めまして。山田愛純奈です。広島法医学研究所で、解剖や研究をしております」
「すごい!広法研の法医学者さん!カッコイイなぁ~!」
挨拶を軽く済ませ、愛純奈は莉花の右隣に座った。莉花は右耳に補聴器を着けており、普段は読唇術でコミュニケーションを取っている。本人の体調や気候など、日によって「今日は右耳が聞こえやすい」「今日は左」と、聞き取りやすい方の耳が変わるそうなので、店に入る前に「今日はどっち?」と聞いておいた。
「院長は、もう少しで来られるそうです。先に頼んでおいていいと言われましたので、注文しましょう」
愛純奈がメニュー表を見ていると、莉花が顔の前にメニュー表を立てて、長谷川から見えないように壁を作り、手話で話しかけてきた。
『ごめん、アイツ声デカいよね?』
愛純奈は笑いながら、人差し指と親指をチョンチョンとつけて、『そうだね』と手話で返した。
メニュー表をテーブルに置き、莉花が手話混じりに聞いた。
「そう言えば、愛純奈って美波高校だよね?確か、院長も同じだって言ってたから、もしかしたら話が合うかも」
「院長って、いくつ?」
愛純奈は「いくつ」の部分で、顎の下で親指から順に四指を曲げていく表現をした。
「えーーと…」
莉花は人差し指・中指・薬指を曲げて「30」、続けて親指・人差し指・中指を伸ばして手の甲を相手に向け、「7」と表現しながら、「37?」と答えた。
「えっ?そんな若いん?37ってことは…省吾と同じかも」
「愛純奈さん、美波高校から医学部へ?」
「あっ、はい…」
初対面でいきなり名前呼びとは…。なんなんだ、この長谷川ってヤツは…。絶対独身だろうな…。かく言う愛純奈も、結局は同じ穴の狢だが。
ほどなくして、院長とやらがやって来た。誠実そうな雰囲気、身長は175センチ程度。女性に大人気の若手俳優に似ていて、愛純奈は長谷川と院長を交互に見つめてしまった。
「急にお誘いしてすみません。神川動物病院の院長です。神川隼と言います」
「先生、こちら愛純奈ちゃんです。山田愛純奈ちゃん」
「初めまして。山田愛純奈です」
「愛純奈さん…ステキなお名前ですね。今日はどうぞ、お好きなだけ召し上がってください、コイツの奢りなんで」
神川は、右手の親指で長谷川を指しながら言った。
「ありがとうございます」
同じ「愛純奈さん」でも、神川だと爽やかに聞こえた。どうやら長谷川は、神川の後輩らしい。大学の時から親しくしていて、動物病院を立てた時からずっと、このコンビでやっているとのことだ。
爽やか系の神川と、ちょっと変わった長谷川。長谷川は身長が180センチほどあるのだが、「背が高い男性はモテる」と思い込んでいる残念なタイプで、その思い込みが原因で空回りしているようだ。先程、愛純奈をいきなり名前呼びしたのも、愛純奈と同い年だと何かで知ったからであるが、ただ「同い年」という理由だけで親しげに名前を呼んでくる男が、愛純奈は一番苦手だ。一方、神川の「愛純奈さん」は丁寧な感じがして、いい印象だった。それは無論、ビジュアルも大いに影響している。愛純奈は特別面食いという訳ではないが、神川の雰囲気を嫌う人は、ほとんど居ないだろうと、勝手に自己分析した。
とりあえず神川も長谷川も、莉花という愛純奈にとって大事な友人を「預けている」と言っても過言ではない、職場の人であることには変わりない。莉花は、「私の耳のことに理解がある職場」だと、とても嬉しそうに話す。神川も長谷川も他のスタッフも、手話はほとんど分からないが、コミュニケーションはスムーズだ。必ず顔を見て話したり、時にメモを見せたり、マスクをしていて読唇出来ない時も、各々で工夫している。
しかし、初めからこうだった訳ではなく、莉花が説明したり、スタッフから質問したり、失敗も幾度となく重ねてきて、やっとここまで辿り着いた。動物病院で働きたかった莉花は、いくつも面接に行ったが、全て「聴覚障害者を雇ったことがない」という理由で断られた。しかし莉花は、「聞こえないこと自体は、働けないことに直結する理由ではない」と、諦めずに行動した。そして、7つ目にしてやっと面接を通ったのが、神川動物病院だったのだ。
莉花が楽しそうに仕事のことを話すのは初めてで、どんな職場なのか興味はあった。なので、今回の誘いも仕方なくではあるが、承諾したのだった。
ピザとパスタを食しつつ、流れで出身校の話になり、長谷川が興味津々な表情で愛純奈に言った。
「美波から医学部ってすごいですね」
すると神川が、向かいに座った愛純奈に言った。
「俺も美波なんですよ」
「えっ?そうでしたっけ?」長谷川が驚いた。
「うん。美波は文系メインだけど、理系だったら医学部目指すヤツも何人か居ますよね」
神川は、長谷川ではなく愛純奈を見て言った。
「はい。私の学年からは、4人医学部行ったらしいです」
「そうなんだぁ~」長谷川は納得し、焼き立てのベーコンピザを一切れ頬張った。
「愛純奈さん、同窓会とか行ってます?」神川がホウレン草のパスタをフォークに巻き付けながら、愛純奈に聞いた。
「全ッ然。そういうの、興味なくて。そう言えば去年、先生の学年は同窓会あったんですって?」
「えっ、ご存じなんですか?」
「あっ、幼なじみが居て、同窓会あったけど行けなかったって聞きました」
愛純奈は、茄子とベーコンのトマトソースパスタをフォークに絡めた。
「そうなんですね。こぢんまりとした集まりでしたけど。ちなみに、大学はどちらに?」
「広島理大です」
「えっ?俺もですよ」
驚く神川の横から、すかさず長谷川が「僕もです!広島理科大学っ!」と声を張って入って来た。
「うわぁ~、驚いた」と言って、神川はフォークに巻き付けたパスタを口に入れる。
色んな意味でね、と愛純奈は心の中でツッコミを入れつつ、長谷川を見て苦笑いをした後、パスタを口へ運んだ。
神川は続けた。
「大学の同期とは、会ったりしますか?」
「あ~…全然。法医学に進むの、珍しいので。私は学生の時から教授にずっとついてたので、学生同士の交流ってあんまりなくて」
「そっか~。俺は動物ばっかり診てるから、人間でしかも、ご遺体を診るなんて、すごいなぁ…」
「変わってるんです」
「いえ、ステキですよ」
「先輩、もう口説いてんスか」
赤ワインの入ったグラスを右手で回しながら、長谷川がまた入って来た。プライベートでは「院長」ではなく「先輩」と呼ぶ。
「んな訳ねーだろ。すみません、コイツ、いつもこんな感じなんです」
神川はフォークを持ったまま、親指で長谷川を指した。
「いいえ、楽しいですよ。莉花がどんな所で働いてるのか、何となく想像出来ました。先生、莉花のこと、よろしくお願いします」
愛純奈は神川だけでなく、一応長谷川のことも見てから軽く頭を下げた。
「やだなー、愛純奈ってば。急にかしこまって」
「だってさぁ、動物病院で働くの、夢って言いよったし。叶って良かったね」
愛純奈は「夢」の部分で、ボールを持つように開いた右手をこめかみからホワンホワンと動かす表現をして、莉花を指差した。
「愛純奈ぁ…もう…泣くやんかぁ…」
オレンジジュースの入ったグラスを持ったままで、莉花が瞳を潤ませていた。
「あっ、ごめんっ。今は涙腺弱いんじゃったね~ごめんね~ママ泣かせちゃったぁ」
そう言いながら、愛純奈は莉花の頭とお腹を撫でながら、妊娠6ヶ月のお腹に向けて謝った。すると、長谷川がもらい泣きし始めた。
「ちょっと、副院長まで…」
「だって…莉花さん普段めちゃめちゃ明るいじゃないッスかぁ。耳のことも、患者さんにすごく明るく伝えてて。俺だったら、そんなふうに出来ないって思うから…」
「アハハ。そうですか?特別明るくしようとか、全然考えてないんで。私、ただ聞こえにくいだけで、フツーの人間だって思ってるし…なんて言うか…その、『障害者』って言い方じゃなくて、ただの人って感じで…」
莉花は、時折手話を交えつつ話した。莉花の声は、少し鼻にかかったような、風邪を引いた時のような発音だが、「さ」行や「た」行もクリアに発音出来ていて、注意深く聞いていない限りは、難聴だと気付かない。莉花の家族は全員聞こえる人間なので、普段の会話の中で、何度も聞き返されてメンドーになったのをきっかけに、クリアに発音出来るよう家族から指導を受けたらしい。
一般的には、難聴だとかわいそうとか、大変といったイメージが強く残る令和のこの時代だが、莉花はそのイメージを完全に覆した。発音の訓練は、家族みんなでゲームをした。色々とゲーム形式にして遊びながら訓練するのだが、そのうちの一つが「大阪弁ゲーム」と言って、大阪弁を使う友人に発音を聞いてもらい、一番キレイなイントネーションの人がお菓子をもらえる、といったものだ。おかげで、莉花は「広島弁より大阪弁が得意」と笑っていた。
続いて愛純奈も、手話を交えて話した。
「昔っからそうよね、莉花は。じゃけぇウチも、莉花と話す時は、特別に配慮しようって思わんって言うか…ほら、手話サークルのオバサン達ってさ、『障害者には優しくしなさい』って雰囲気すごかったじゃろ?ウチはそれがイヤじゃったんよね。ただ手話が楽しかっただけなのに、母さんが通訳士だからってさ、その子供も通訳士にならんといけん!みたいな…あの空気がホンマにイヤじゃったわ」
「分かる~!じゃけぇサークルの時間は、会場の外でよぅ遊んだよね~!」
気付くと、神川も長谷川も、黙って二人の会話を聞いて(見て)いた。
「あっ、すみません、なんか盛り上がっちゃって…」
「いえいえ、愛純奈さん、手話すごい出来るんですね」神川が、目を輝かせて言った。
「あ、いえ、莉花と話す時だけ、何となく手話っぽいのは。母が手話通訳士をしていて、よく手話を見ていたし、小さい頃から手話サークルに顔出してたので。日常会話なら、分かります」
「そうなんですね」
神川は「納得」といった表情で頷き、その隣で、長谷川も頷いた。
「でも、私が手話を覚えたのは、莉花のおかげ」莉花の方を向いて、声と手話で伝えた。
「ありがとう」
莉花も、声と手話で応えた。
愛純奈は、イイ気分で神川との会話を進めていた。心の中で、莉花に「ありがとう」と言った。長谷川はちょっとメンドーなヤツだが、根っからの悪い人ではなさそうだし、神川が信頼している後輩であれば、頭もいいのだろう。愛純奈がサラダ2人前を一人でペロリと平らげたのを見て、長谷川はかなり驚いていた。「背が高い男はカッコイイ」という思い込みさえ外して謙虚に生きていれば、もっと違っただろうにと、勝手に他人の人生を心配した。
結局2時間半ほど店に居た。愛純奈の大好きなベーコンのピザが格別だったのだが、長谷川がほとんど食べてしまったので、「また来よう」と思った。食後のコーヒーも美味しかったし、全ての飲み物が2杯まで飲めるというのはなかなかない。もちろん、コーヒーをおかわりしたのは言うまでもない。
外はかなり冷えており、店内との気温差が激しく感じた。クリスマスまであと2週間ほどあるが、街はもうカップルだらけだ。愛純奈達が居る広島市の中心街では、「ドリミネーション」という名の鮮やかなイルミネーションが、この時期恒例となっている。もちろん、愛純奈達の目の前にも広がっていた。専ら愛純奈には、昔から全く関係のない時期ではあるのだが、せっかくなので、ここを通ってからアストラムラインに乗ろうと考えた。
アストラムラインというのは、広島高速交通株式会社が運営する新交通1号線で、広島市中区の本通駅から安佐南区の広域公園前駅に至る。6両編成で、ワンマン運転だ。日本語の「明日」に、英語で「市電」という意味の「トラム」という、2つの単語をくっつけた「アストラムライン」という通称で呼ばれている。安佐南区に住んでいる愛純奈には、大変便利な交通機関である。
「今日はご馳走様でした。とっても美味しかったです」
愛純奈は長谷川に言った。出来るだけ笑顔で、且つ誤解されない程度の微笑みで。
「こちらこそ、愛純奈さんとお話出来て良かったです!」
愛純奈は、長谷川とそんなに話した記憶はないのだが、向こうがそう思っているならそれでいいやと思った。
店の前で、各々の帰路に立った。風が冷たく、コートを着ていても寒かった。愛純奈は、マフラーをしてくれば良かったと後悔した。でも、今日ここに来て良かったと思った。楓ちゃんに教えてあげよう。龍哉も好きな店だ。パスタが大盛りに出来て、種類も豊富。省吾とも、今度来てみようかな。
そう言えば、省吾はクリスマスの予定があるのだろうか。恋人らしき人物は居ないようだし、撮影の日程はまちまちだから、曜日や祝日も関係なく仕事をしている様子だ。龍哉の家族を呼んで、軽くパーティーもいいな。父さんや母さんが居た頃は、イベントの時はよく母さんがご馳走を作ってくれて、みんなでワイワイした。省吾も居た。龍哉と省吾、本当に兄弟みたいだった。省吾は、父さんのことを本当の父親のように慕っていた。
あの頃にはもう戻れない。けれど、今は今でとても幸せだと思う。ひょんなことから省吾と同居することにはなったけど、それはそれで結構楽しい。このままずっと、一緒に暮らすのかな。どっちかが結婚したら、どうなるのだろうか。省吾はどんな人と結婚するのだろうか。どんな人がタイプなんだろうか。省吾が過去に付き合ってきた女性の顔は、知っているような知らないような、ぼんやりとしか思い出せない。そもそも、口を出す権利もない。省吾が好きな人と居て、幸せであればそれでいい。心からそう思う。
そんなことを考えながら、キラキラ光るLEDの中を一人で歩いた。周りが家族連れでもカップルでも、何も気にならなかった。
当たり前のように毎年あったドリミネーションも、あのパンデミックの時には開催されなかった。愛純奈はたまに見る程度ではあったが、「あるけど見ない」のと、「元々ない」のとでは大違いだなと感じた。
今年のドリミネーションのテーマは「始まり」らしい。私は何を始めようかとぼんやり考えていたら、いつの間にかアストラムラインの本通駅に着いていた。無意識に辿り着けるほどに、この辺りの道は歩き慣れている。愛純奈がホームに着いたとほぼ同時に、アストラムラインの車輌が滑り込んできた。混んでいたが、乗ることが出来た。ここから約10分程度で、最寄り駅に着く。なので、立ったままでも構わない。最寄り駅から家までは、歩いて5分。便利な所に住んでいるなぁと、まるで他人事のように愛純奈は思った。省吾はもう、家に帰ったかな…。今年は雪が降るのだろうか…。
大学の講義が終わり、愛純奈はエレベーターを待っていた。学生時代に世話になった教授の繋がりで、母校の広島理科大学の非常勤講師をしている。講義の対象は医学部の4年生なので、だいたい22歳ぐらいの学生だ。愛純奈からすると、人周りも年下の子達にどう見られているのだろうと不安になる。かと言って、変に若作りするのもおかしい。ちょっと先輩面したくもなるが、格好付けたくはない。34歳って、20代とは違ってまた色々とメンドーだなとため息をつくと、エレベーターが止まった。
視線を下に落としてドアが開くのを待ち、そのままエレベーターに乗り込むと、突然話しかけられた。
「あれっ?愛純奈さん?」
「神川先生ッ?」愛純奈は驚いて、シャキッと背筋を伸ばし、右手で資料を抱えたまま左手で前髪を整えた。ヤバい…下向いてたし、変な顔してたのバレた…?てゆーか、メイク落ちてるよね?いや、直すほどメイクしてないけど…。
「講義ですか?」と言いながら、神川は「閉」ボタンを押した。本通りのイタリアンレストランで会った時と違って、パーカーにジーンズといったラフな格好だ。実年齢よりも、随分若く見える。この大学の学生だと言っても、疑わないほどである。女性と食事に行く時は、きちっとした服装を心がけるようだ。
「はい、教授のご紹介で、ご縁があって。4年生に、法医学を少しだけ」
「すごいですね!いつからなんですか?」
神川は、本当に驚いた表情をした。
「あ…2年前?かな…」
「へぇ~。愛純奈さんの講義なら、みんな起きて真剣に聞いてそうだな」
神川はパーカーのポケットに両手を入れながら壁にもたれ、愛純奈が講義をしている様子を想像したのか、目線を上にした。愛純奈との身長差は15センチほどなのだが、神川が壁にもたれているので少し、愛純奈と顔が近付く。
「いえいえ、寝てる子は居ますよ。そもそも、法医学に興味ない学生も、単位のために取ってるし。だいたいは、みんな臨床医を目指しますから」
「でも愛純奈さんがきっかけで、法医学に興味を持つかもしれない訳でしょう?」
神川は少し、愛純奈の顔を覗き込んだ。
「そう…だとイイですけど…ふふっ」
エレベーターが1階に着いたことを知らせた。
「あの、愛純奈さん、お時間ありますか?」
神川はさりげなく、「どうぞ」と右手を差し出しながらドアを止め、愛純奈を先に降りさせた。
「はい、大丈夫です」
「良かったら、ここのカフェで一杯どうですか?休憩しましょ」
「はい!行きます!」
愛純奈と神川は、大学内にある、学生が運営するカフェへと向かった。
愛純奈の母校、広島理科大学は、医学部と獣医学部と経営学部がある。学生当時は知る由もなかったが、愛純奈は医学部のキャンパスで、神川は獣医学部のキャンパスで、各々講義を受けていた。つまり、学生時代を同じ大学で、共に生きてきたのである。ここには不在だが、長谷川は神川の後輩であり、愛純奈と同い年。つまり、学部は違えども愛純奈と同期ということだ。が、愛純奈は長谷川を思い出すことは微塵もなかった。
愛純奈と神川は、くっつきすぎず、離れすぎずの絶妙な距離を保ちつつ歩いた。
「先生は、今日は…?」
愛純奈は少し右上に視線を置き、話を切り出した。
「あぁ、後輩から相談があるって言われて。この8階にゼミ室があるんですけど、そこにこもって話してました。男二人、向かい合って2時間も」
神川は、右手で「2」と強調させた。
「ふふっ」愛純奈は笑った。
「長谷川先生もそうですし、後輩から慕われてるんですね」愛純奈は正面を向いて言った。
「慕われてるって言うか…先輩らしくないんですよ、俺は。なんか、友達みたいな感じになっちゃって」
「それもいいことだと思いますよ」愛純奈は再び、神川の顔を見て言った。
「愛純奈さんって、いつも肯定してくれるんですね。なんか、安心するなぁ」
「そうですか?思ったことをそのまんま言ってるだけです」
神川はクスッと笑った。本当にこの人は、どんな仕草もどんな表情も爽やかだなと愛純奈は思った。そう言えば、省吾と同い年、高校も同じってことは同級生か。当時はマンモス校だったから、同じクラスでもなければ、全員の顔と名前なんて分かりゃしない。
「神川先輩!」
後ろから男子学生が走り寄ってきた。
「あれ?西本?」
「先輩、スマホ忘れてってました」
「あっ…マジか…全然気付かんかったわ。サンキュ」
西本と呼ばれた男子学生は、神川にスマホを渡しながら、チラリと愛純奈を見た。愛純奈は神川の右斜め後ろ、約1メートルほど距離を置き、ことの成り行きを見届けていた。
「先輩…居るんじゃないッスか」神川にしか聞こえないほどにボリュームを下げて、西本は言った。
「…はっ?」
西本が愛純奈を見る表情で、神川は気付いた。
「ちっ…ちげーよ!」愛純奈に聞かれないように小声で全否定する。
「では、また連絡します。お邪魔しましたぁ」
西本は「お邪魔しました」の部分で、ニヤニヤしながらペコリと頭を下げた後、愛純奈のこともチラッと見てから去って行った。
「可愛いなぁ~」愛純奈は親戚の子供を見るような表情で言った。「わざわざスマホ届けてくれるなんて」
「結構俺、忘れモンひどいんですよね」そう言いながら、パーカーのポケットにスマホをしまう。
「えっ?意外です」
「院内でも有名ですよ。いつもスマホ忘れるから、先生は連絡に困る、鎖で繋いでおかないとって、莉花さんに言われてます」
「ははっ。そうなんですね、なんか可愛い!」
「えっ、可愛いって」
「いやなんて言うか、神川先生ってちゃんとしてるイメージなので、よく忘れ物するっていうのが意外で。その…ギャップって言うんですかね、可愛いなって」
「そう…ですかね…恥ずかしいな…」
困っていても爽やかなのは、もはや天性のものかと、再び愛純奈が分析しているのも知らず、神川は続けた。
「なんか、女性の『可愛い』って、よく分からないんです。さっきの学生を可愛いと言ったり、俺のことを可愛いと言ったり」
「あー。さっきの学生は、単純に若いのと、フレッシュでいいなって。あと、先輩の忘れ物を届けに走ってるのも。最近は、若い子を見るとすぐに『可愛い』って言っちゃいます」
「あはは。なるほどね。でも、そんなふうに『可愛い』って言っちゃう愛純奈さんも、可愛いですよ」
「あっ…ありがとうございます…」
あまりにサラッと、しかも久々に「可愛い」と言われて愛純奈は照れた。
「いいじゃないですか。俺達、可愛い30代で行きましょ」
「ふふっ。はい、そうしましょ」
学生運営のカフェ「Community Room」に着くと、丸テーブルの周りに椅子が4つある席に案内された。神川は、「お好きなところへ」と、愛純奈を先に座らせた。愛純奈が座ったのを確認してから、その左隣の椅子に神川は座った。すると、愛純奈の右隣の椅子に置いたバッグが震えた。龍哉からの着信だ。神川は目線で「どうぞ」と示し、メニュー表を眺めた。
着信画像は、この夏に生まれた龍哉の子供、明菜と、楓と龍哉のスリーショット写真だ。以前、明菜が赤ちゃんだった頃の写真を着信画像にしている事を話すと、龍哉から「もうだいぶ大きくなっているから変えてくれ」と、一番最近の写真を送りつけてきた。それから、月に一度のペースで「この写真を着信画像にしろ」と送ってくるようになった。仕方なく、弟の言うことを聞いている。もはや、半分脅しだ。着信画像なんて、見てもほんの数秒なのに。
「もしもーし」愛純奈は、わざと面倒くさそうな応対をした。
「あ、姉ちゃん?あのさぁ、今日の晩飯、そっちで餃子だからよろしゅう」
「…はっ?」
「省がさ、姉ちゃんの手作り餃子が食いてぇって」
「省吾が?え?今、一緒におるん?」
「そう。今俺んちにおってさ、ベビたんと遊んでくれとるんよ~」
電話越しに、省吾とベビたん、もとい、生後6ヶ月の明菜の声が聞こえてきた。楓が奥で、「あーちゃーーん」と言っている。
「仲良しさんじゃね~」まさか龍哉から「ベビたん」という言葉を聞く日が来るとは思わなかった。
「分かった、材料は?」
「買ってく。今日解剖ないけん早いんじゃろ?」
「よぅ知っとるね」愛純奈は苦笑いした。
「省から聞いた。ほんじゃ~ね!」
そう言って、龍哉は一方的に電話を切った。
「すみません、いきなり電話で」
「いえいえ。今夜は手作り餃子ですか」
「なんか、弟に勝手に決められました…」
愛純奈はスマホを鞄にしまいメニュー表を見ると、神川が「ここは俺の奢りですから」と言った。愛純奈は遠慮なく、奢ってもらうことにした。
神川は、少し遠慮気味に愛純奈に聞いた。
「あの…さっき、『しょうご』って…」
「あぁ、こないだお店で話した、幼なじみです。ほら、先生と同級生の」
「先生」の部分で愛純奈は、左手の平を上に向けて、神川を示した。
「まさか…本田?本田省吾ですか?」目を丸くして、神川が聞いた。
「えっ???先生、省吾と知り合いなんですか??」
「うん、高校ン時は全然知らなかったんだけど、卒業してから仲良くなって。先月も会いましたよ。こっちに帰って来たって連絡があって」
「うわぁ~…なんか…笑っちゃいますね」
「一緒に住んでる幼なじみって、愛純奈さんのことだったんですね」
「え!そんなこと先生に話しとんの…省吾…」
「いやいや、俺が聞いたんです。お前、彼女居るのかって。そしたら、彼女じゃないけど、幼なじみと一緒に住んでるって」
愛純奈は笑いながら答えた。
「そうなんですよ。なんか急に、同居することになって。でも省吾とは小さい頃から一緒で、もうなんて言うか…家族…なんですよね…」愛純奈は視線を少し下げた。
「…愛純奈さん?」神川が、愛純奈の顔を覗き込む。
「あっ、すみません。注文しましょう」
愛純奈はカフェラテ、神川はブラックコーヒーを注文した。
「世間は狭いですね。まさか先生と省吾が友達とは…」
愛純奈は、赤のチェック模様のマグカップに並々と注がれたカフェラテを口に含み、唇に付いた泡を舐めた。この泡が、何とも言えず安心するのだ。だからカフェラテが好き。もっと言うと、カフェラテのビターが大好きだ。
「ホントですね。誰とどこで繋がってるか分かりません。悪いこと出来ませんよ」
「あははっ」
「そう言えば、愛純奈さんはずっと広島ですか?」
「はい。生まれも育ちも、安佐南区です。先生は?」
「俺は、安佐北です。動物病院を立ち上げるのをきっかけに、中区に引っ越しました」
「いつから獣医を目指すようになったんですか?」
「そうだな~…」
神川はやや上を見ながら、思い出すような表情をして続けた。
「ハッキリと決めたのは、高校2年ぐらいです。父親が医者なんですけど、俺は人間よりも動物の方に興味があって。オープンキャンパスで医学部も見たのですが、やっぱり獣医学部にしようって」
「そうなんですね、オープンキャンパスで」
「ココに入って、先輩や先生のおかげで卒業出来て、国家試験も受かって…最初の勤務先の獣医が、すごくイイ先生で。そこでたくさん、学ばせてもらいました。自分の病院を持ちたいと思ったのも、その先生の影響です。この人みたいになりたいって」
カフェの窓から見える景色を眺めつつ、自分のことを話す神川を、愛純奈はじっと見ていた。神川が高2というと、愛純奈は中2だ。父がなくなり、絶望しかない時だ。中学3年になった時、法医学との出会いがあり、今に至る。
神川は、本当にいい人なんだろうなと愛純奈は思った。これだけのルックスを持っているのだから、女性が寄って来ない訳がない。でも、派手に何人も侍らせている様子はなさそうだ。むしろ、女性に興味がないのだろうかというほどに、浮いた話がないのだと莉花が言っていた。もしかしたら莉花は、愛純奈と神川を近付けようとしたのだろうかと一瞬だけよぎったが、一瞬にして消えた。
何となくだが、神川からは寂しさや影を感じる。もちろん、人間誰しもが悲しい過去を経験しているだろうし、人に言えないことばかりだということも重々承知だ。省吾が持つ哀しみとはまた違った、言葉にしがたいものを持っている。
「神川先生…」
「はい」
「良かったら…」愛純奈は神川を見た。
「はい…?」
「今度、うちに来ませんか?省吾と、みんなでご飯食べましょう」
「えっ…いいんですか?」
「もちろんです。ちなみに、お酒飲めますか?」
「はい、好きです」
「私、家でお酒飲む習慣なくて。省吾はお酒好きなんですけど、一緒に飲む人居ないって嘆いてるので、付き合ってあげてください。泊まれる部屋もあるし、飲んでそのまま寝ちゃっても大丈夫ですから」
「そんな広い家なんですか?てっきり、1LDKのマンションとかに一人暮らしで、そこに本田が転がり込んだのかと」
愛純奈は少し笑って、軽く首を横に振った。
「家は父が建ててくれました。元々は4人家族だったんですが、父も母も亡くなって、弟も家庭を持って出ていったので、私だけだったんです。そこに、省吾が来てくれて…」
「そういうことだったんですか…ご両親はもう…」
愛純奈は、穏やかな表情で頷いた。「父は中2の時に、母は8年前に」
愛純奈はマグカップを両手で包み、窓の外に目を向けて続けた。「父は、最高の家を遺してくれました。私、あの家が大好きなんです。だから、ずっとあの家に居たくて。あっ…」
愛純奈は思い出し笑いをした。
「スミマセン、ちょっと思い出しちゃって」
「何ですか?」興味ありげに神川は聞いた。
「前に付き合ってた人…私プロポーズされたんですけど、それ断っちゃって。その理由が、あの家に居たい、だったなぁって。サイテーでしょ?笑っちゃいますよね」
「結婚を考えた人が、居たんですね」
神川は、34歳だから当然だろうとも思いつつ、実際に愛純奈から直接話を聞くと、心がチクチクするのを感じた。
「私の方は全然。相手がそう思ってくれてて。放射線科の人だったんですけど、アメリカに行くって話があって。一緒に来てくれって言われて…それで、別れました」
神川は、黙って話を聞いていた。笑って話す愛純奈を、じっと見ていた。本田はその時、何をしていたのだろうか、なんて一瞬気になったが、すぐに消えた。
「あっ、すみません、勝手に私の話なんかしちゃって。つまんないですよね」
愛純奈はカフェラテを流し込んだ。ちょっと甘いな、と思った。
神川はブラックコーヒーを啜り、少し緊張した表情で、且つ穏やかに聞いた。
「愛純奈さんは、どんな人と結婚したいですか?」
「結婚かぁ…私、結婚そのものには興味がなくて」
「興味がない…?」不思議そうに、神川は次の言葉を待った。
「はい。なんて言うか…届けを出す出さないって所は、どうでもいいというか…私は、お互いの心の中に住むって感覚がいいなと思ってて。自分の中に、いつも好きな人が居て、その人の中には、いつも自分が居て…そんな感じが、いいです」
神川は、黙って愛純奈を見つめながら、話を聞いていた。
「あっ…すみません…伝わりにくいですよね…」
「いえ…ホントに愛純奈さん、ステキですね」
「えっ?」
神川はフッと笑って続けた。
「本田が羨ましいですよ。こんな美人で可愛くてステキな人と一緒に居られるなんて。アイツ、なんか酷いこと言ってませんか?今度会った時、ガツンと言ってやりますから」
神川は右手でグーを作って、少し愛純奈に顔を近付けた。
「あはは。ありがとうございます」
すっかり話し込んでしまって、気付いたら1時間以上もカフェに居た。愛純奈は、あれからもう一杯カフェラテを注文した。「今度、カフェラテの美味しいお店探しておきます」と神川は言った。その流れでLINEを交換し、「また会いましょう」と言って別れた。互いにSNSはやっていなくて、その手に関しては疎いことも分かった。省吾とはまた違った部分で、何かと共通点の多い人物だ。
愛純奈はこのままいい気分に浸っていたかったが、買い物は龍哉に任せているとは言え、餃子を作るのにはそれなりの時間が要るので急いで帰った。
神川とは単純に、話していて楽しいと感じた。うんと年上の医療従事者と話すのとは訳が違う。普段、教授やベテラン医師と話すことが多い愛純奈は、神川と何でもない話が出来ることが、楽しみとなった。
そして、クリスマスがいよいよ近付いたある日。神川から誘いの連絡が来た。24日の夜、会えないかといった内容だった。しかも、神川の住むマンションに来て欲しいとのことだった。
愛純奈は少し迷った。省吾は仕事だと言っていたから、その日は一人の予定だ。龍哉も家族で過ごすと言っていた。先日、愛純奈の家に神川が来て、省吾と3人で飲んだので、神川との関係性を省吾は知っている。
そもそも愛純奈がどこで誰と居ようが構わないのだが一応、独身男性の家にお邪魔するので、思い切って省吾に相談してみることにした。部屋のドアをノックすると、「どうぞー」と返事があった。愛純奈はドアをゆっくりと開けて、顔だけ部屋にちょこんと入れた。
「ねぇ、あのさ…」
「んー?」
省吾はベッドに腰掛け、出窓の方を向いてカメラの手入れをしていた。愛純奈に背を向けている。
「24日ね、神川先生から誘われた」
「ふーん」
省吾は手を止めずに応える。
「ふーんって、何とも思わんの?」
「んっ?あ、ゴメン、何だっけ?」
省吾はカメラに夢中で、聞いていなかったようだ。体を捻り、右半身を愛純奈へ向けた。
「だからぁ、神川先生。24日、空いてますかって聞かれたんよ。省吾、仕事じゃろ?遅いん?」
「あー、うん、帰り遅いわ。行ってきぃ。えぇモン食わしてもらえよ」省吾は、いたずらっ子のような表情で言った。
「うん…あのね…」愛純奈は左手で前髪を触る。
「ん?」
「家に…来てくれって。お店、どこもいっぱいで…」
「いっ…家に?アイツ…何考えとん…?どういうつもり…?」
後半は独り言で、愛純奈には聞こえていない。
「やっぱ、やめとく。いくら独身でも、イヴの夜にお家に行くのはね…」
「あ…あぁ…」
「断るわ。ゴメンね、カメラ触ってる時に。おやすみ」
「あっ…お、おやすみ…」
ドアがパタンと、静かに閉じた。
愛純奈が去った後、省吾はしばらく空を見つめていた。視線の先には、モノクロのポスターが貼ってあるのだが、今の省吾には全くそれが見えていない。
仕事なんて、ウソだ。いや、仕事は入っているのだが、夜には解放される。帰りにチキンをたんまりと買って、家でゆっくりと、愛純奈と晩飯を食おうと思っていた。プレゼントを渡す手順だって、事細かに考えていた。部屋を使わせてくれている感謝と、「これからもよろしく」の気持ちを添えて、愛純奈に似合うだろう服を買ったのだ。見つからないように、クローゼットの中に隠してある。
神川のヤツ、本当にどういうつもりなんだろうか。省吾は、「あの日」のことを思い出していた。
こないだ家に遊びに来た時、神川の視線ですぐに分かった。アイツは愛純奈に惚れている。これは間違いない。絶対だ。
カメラマンをしていると、色んな人の表情をじっくりと見るようになる。特に視線は、無意識で送っていることがほとんどだ。無意識に愛純奈を目で追っている。神川自身も、きっと気付いていない。
無論、愛純奈がどこの誰と居ようが自由だ。俺のものじゃない。俺と愛純奈は、ただの幼なじみだ。それ以上でも以下でもない。今の所、愛純奈が神川に気がある様子は見受けられない。神川の一方通行だ。だが…。
あの日、愛純奈が台所へ氷を取りに席を外した時、神川が耳打ちしてきた。
「愛純奈さん、今好きな人とかおるん?」
「えっ…多分…おらんじゃろ…」
「仕事が恋人です、的な?」
「あ~、そんな感じ?知らんけど」
「なぁ本田、お前はどう思ってんだ?愛純奈さんのこと」
「はっ…どうって」
「…好きなのか?」
「えっ…」
俺は思わず愛純奈を見た。愛純奈は、冷蔵庫の中の氷をガラガラと容器に移しているので、かなり大きな音がしている。つまり、こちらの会話は全く聞こえていない。
「どうなんだ」
「いや…別に…好きとかそういうんじゃ…」
「なら、デートに誘ってもいいよな」
「そりゃもう、お好きにどうぞ」
「もうすぐクリスマスだしな…24日、空いてるかな…」
神川が独り言を言っていると、愛純奈が戻ってきた。
「何~?仲良しさんじゃね」
「やめろよキモいわ~」
俺は明るく振る舞ったが、内心ドキドキしていた。まさか、この場で愛純奈にイヴの予定を聞くのか?俺の前で?それは勘弁して欲しい。
その日は、トイレへ行くのに席を立つのもハラハラした。アイツと愛純奈を二人っきりにしたくはなかった。もちろん、神川はそんなすぐに手を出すようなヤツじゃないし、愛純奈も軽い女じゃないことぐらい分かっている。だが、みんなもう30歳を過ぎた大人なんだし、別に誰がどうなったっていいことではある。そもそも、俺と愛純奈は恋人同士ではないのだから、お互いの恋愛事情に口を挟む権利もない。愛純奈が幸せならば、相手はどんなヤツでもいいと思っていた。けど…よりによって神川かよ。
神川は、確かにイイヤツだ。獣医なんてスゴいし、法医学者の愛純奈とはきっと気が合う部分も大いにあるだろう。俺は医療のことはちんぷんかんぷんだ。愛純奈が時々ノートパソコンを開きっぱなしにして離れるので、ちょっと拝見…と画面を見たことがあるが、本気で意味が分からない言葉がズラリと並んでいた。英語の論文を和訳しているのも見たことがある。理解しようとも思えなかった。愛純奈って、ホントにすげぇヤツだなと感心した。現役で医学部に入って、卒業して、国家試験にも合格して…最初は救急で何年か経験積んで、その後に法医学に進んで、そこからずっと毎日駆け抜けてる感じだ。愛純奈は「教授のおかげ」「運が良かった」と言うけど、俺は絶対に絶対に、愛純奈の実力だと思ってる。
広島で唯一、いや全国でもないのでは?というほどに珍しい、法医学研究所…広法研を立ち上げたメンバーの一人が愛純奈だ。愛純奈の学生時代の教授が、自分の足であちこちへと出向き、「広島に法医学研究所を作りたい」と、様々な場所で熱意を伝え続けたらしい。法医学者自体がまだ200人程というこの日本では、地域差もかなり激しく、広島にはまだ数えるほどしか存在していない。それでも、広法研が出来てから、後継者の教育にも力を入れることが出来るようになったおかげで増えたのだ。広島の犯罪抑制にも貢献していて、県から表彰されたのが、愛純奈が働く広法研だ。
愛純奈はすごいヤツだ。俺とは全然違う世界の人だ。でも、小さい頃から愛純奈を知っている。愛純奈の父さんが亡くなった時も、俺がそばに居た。第一志望の医学部が不合格だった時も、俺の所へ来て泣いていた。愛純奈の母さんが亡くなった時だって、気丈に振る舞ってはいたけど、ある日愛純奈の家に行った時、堰を切ったように泣き出した。しばらくその涙は溢れ続け、俺の胸で泣き疲れて眠ってしまったほどだ。
俺は、愛純奈のことを誰よりも大切に想っている。それはもう、「好き」とかそんなんじゃないレベルだ。こんなこと、他の誰に話した所で、きっと分からない。いや、分かってたまるか。
神川が24日に愛純奈を誘うだろうと予測して、俺は愛純奈には「この日は仕事で遅くなる」と伝えた。別に、神川と外で会うのは構わない。イヴだろうがいつだろうが、何とも思わない。たらふくウマい飯を食わしてもらえばいい。だが、家に呼ぶってのは…?愛純奈が相談してきたってことは、さすがにイヴの夜に男の家に行くのは、いくら大人の愛純奈でもはばかられるってことなのか。それは、愛純奈が「女」ってことか。それとも単純に、俺に気を遣っているのか。愛純奈は、俺の前で「女」を出すことはない。だが、神川の前では「女」になるのか?
ふと出窓を見ると、夜空に星が輝いていた。「星に願いを」と言うが、俺の願いは叶うのだろうか。
神川…愛純奈のこと…本気なのか…?愛純奈に…触れたりとかするのか…?
愛純奈は…神川を受け入れるのか…?俺よりも、アイツの方がいいのか…?
省吾は「はぁ~っ…」と長いため息をつき、カメラの手入れの続きを始めた。