~再会~
【2028年11月】
「たちまちビールで」
「はいよー!いつもありがとね~!愛純奈ちゃんはジン?」
「うん!濃い目で~!」
「あいよ~!生中、ジントニック入りまーす!」
上着を脱ぎつつ、いつもの店でいつものように注文してから、龍哉は腰掛けた。寒いからこその、キンキンに冷えたビールが美味い。一杯目は、必ずビールと決まっている。
お馴染みの店員の笑顔は、やっぱり安心する。一時期は、店をたたむかもしれないと嘆いていたのを知っているだけに、こうして以前のように、堂々と心ゆくまで酒を飲める場が復活したのは嬉しい。愛純奈はそこまで酒が好き、という訳ではないが、周りがなぜか酒好きのため、必然的に集まる場がそこここにある。
創業40年以上続いているこの店も、目に見えない驚異の感染症の影響か、マスコミの影響かにより、どん底に追い込まれた無数の店の一つだ。「広島の街はまた、あの頃に戻るのか…」と、1945年に起きた惨劇を思い起こす人々も、多く存在した。今は再び街に活気が戻り、以前のように経済が回っている感覚だ。
やはり「広島」という街は、どんな時でも諦めず、その時に出来ることをみんなでやっていこうという団結力が強い。そして、誰もが復興を信じているし、そのための努力もする。2014年、安佐南区土砂災害の時も、2018年、西日本豪雨災害の時も、そして世界中が狂ってしまった、2020年から数年間続いたパンデミックの時も、広島という街、人々は諦めなかった。愛純奈は、そんな広島という土地に生まれ育ったことを、誇りに思う。他の土地へ出て行こうとは思わない。ここが大好きなのだ。
弟の龍哉は、デザイナーの学校を出て東京へ行き、数年働いた後に大阪へ。2年前に広島へ帰って来た。
「そうそう、『たちまち』って、この辺だけらしいよ」
メニュー表を眺めながら、龍哉の向かいに座った愛純奈が言う。
「ん?」
龍哉がメニュー表を覗き込む。
「広島の方言なんだって。東京で通じんかったじゃろ?」
「あ~!そう言われればそうじゃったわ」
「だいぶ、こっちの言葉思い出して来たん?」
「せやな~。まだおかしいけどな~」と、変な大阪弁で話す龍哉。
「姉ちゃんだって、色んな人と話してると、色んな方言がごちゃ混ぜなんじゃないん?」
「せやな~。広島と大阪と…ん?関西弁と大阪弁ってどう違うん?」
「知らんし!とにかく注文しよーぜ」
龍哉はメニュー表を自分の方へ向けた。
「うわぁ~…『しよーぜ』って、なんかカッコつけてる~」
「うるせーよ、楓がよく言うんだってば。ナントカしようぜ~って」
そう言いながら、龍哉は右手の人差し指を立てた。楓というのは、龍哉の妻だ。愛純奈は、楓が龍哉のセリフを言うのを想像した。
「楓ちゃんが言うのは可愛いから許す!」
「何だよそれ~!」
二人の笑い声は、他の客のガヤガヤ声にかき消された。さすが土曜の夜。今夜も予約で満席らしい。12月には、忘年会の客ですぐに予約が埋まる。
数年前までは店中がアクリル板まみれだったが、今はすっかり、空間が広く感じる。入り口にあったアルコール消毒液のボトルも、今はもう姿を消した。愛純奈は仕事柄いつも消毒をしているので、クセであの形のボトルを探してしまう。仕事終わりの消毒で、「今日も終わった」という気持ちの切り替えが出来るため、実はアルコール消毒の臭いはさほど嫌いではない、というのが正直な所だ。
「カンパーーイ!!」
愛純奈と龍哉がジョッキを交わす。
「やっぱ、ここのジンは最高やわ。てか龍、ホンマに久々よねー」
「ホンット、どうしよったん?SNSとかやらんのん?」
龍哉がアスパラベーコンを一口つまみながら聞いた。
「SNS…メンドーだわ…」
「ハハハッ!!確かに姉ちゃんは、そういうタイプだわなー」
「龍はなんかやっとん?」
愛純奈は焼き餃子にポン酢を付け、一口で食べた。この店で出している、ニンニクの代わりに生姜がたっぷり入っている餃子だ。愛純奈はこの餃子を毎回必ず注文するので、いつしか予約の時点で注文したことになっていった。そのため、最初の飲み物とほぼ同時に餃子もやって来る。いつも二人前注文するが、愛純奈は一人でペロリと平らげてしまう。
過去に、解剖の前日にうっかりニンニク入りのものを食べてしまい、後輩から「臭い」と言われたことがあり、それからは絶対にニンニクを口にしないようにしている。
「俺はインスタ。個人と会社と掛け持ちって感じで。今フォロワーが5000人ぐらい」
「ほぉ~…」
愛純奈は全くSNSとやらに興味がない。「インスタ」と聞いても、それが何を示しているのか分からない。知ったところで何のプラスにもならないので、聞くこともない。愛純奈は、興味があることはとことん追求するのだが、興味がないことにはとことん興味が湧かないし、「興味がない」という表情をする。非常に分かりやすいのが、長所でもあり短所でもある。
「姉ちゃんもインスタ始めりゃいーじゃん。出会いもあるし」
「出会いねぇ…」愛純奈は餃子をまた頬張り、ジントニックを口に流す。
龍哉の言っていることは分かる。実際、「インスタ」を始めてから、後に妻となる楓と出会ったらしい。
「若いね~龍は」
「若いって、姉ちゃんと2コしか変わんねーし!」
「いやホントに龍は若々しいって言うか。こうやって会うのは…半年?5ヶ月振り?ぐらいじゃけど、なんか前より若返ってない?」
「マジで?それ嬉しいなー」
龍哉は、ぐいぐいとビールを喉に流し込む。
今夜は、龍哉が愛純奈を飲みに誘った。寒くなってくると、昔から龍哉は外で飲みたがる。11月に入り、広島の街もだいぶ冷えてきて、暗くなるのが早くなって来た。
龍哉から飲みに誘う時は大抵、何か頼み事がある時だ。龍哉は弟という立場を、ここぞとばかりに利用する。愛純奈としては時に困るが、それも別に悪くはないと思っている。むしろ、頼られるのはキライじゃないし、両親が他界してからは、たった二人でよくやって来たと思う。色々と我慢させたこともあるし、姉に頼りたいならば頼ってくれていいとさえ思う。なんだかんだ言って、唯一の弟であり家族だ。結局、可愛くて仕方ない。
愛純奈は龍哉の飲みっぷりを褒めつつ、思い出していた。
私達姉弟は、よく頑張って来た。父さんが居なくなって、母さんと三人になった時も、「二人で母さんを支えようね」ってよく話していた。母さんが居なくなって姉弟二人になってからは、もっと話をするようになったし、お互いにとってかけがえのない存在であることを、お互いに伝えている。結構、自分達でも「仲良いよね」と言うし、周りにもそう言っている。二人ともいい大人だが、恥ずかしいとも思わない。
龍哉は、結婚することを迷っていた。私があの家で一人ぼっちになることを心配した。と言うか既に、一人ぼっちだった。龍哉が大阪へ越したばかりの頃、母さんが逝った。それからはずっと、父さんが遺したあの家を、私が守ってきた。
私は当然、龍哉に幸せになって欲しかった。むしろ、新しい家族を作って欲しかった。楓ちゃんも、「ここに一緒に住みます。広島から大阪に通います」と言ってくれたけど、気持ちだけ受け取った。あの家は、私が守る。だから安心して、自分の人生を歩んで欲しいと伝えた。
母さんが居なくなってから2年後、龍哉は自分の家庭を築く道を選んだ。そしてこの夏、一人目の子供が産まれた。楓ちゃんはとても可愛らしく、私の一つ上で、私のことを「あーちゃん」と呼ぶ。好きなアーティストが同じで、話も合う。
龍哉は本当にいい人を見つけたなと思う。「インスタ」はよく分からないけど。
「で、今日は何をお願いしに来たん?」
「んっ?なんだよそれ」
2杯目のビールに手を付けつつ、龍哉は笑いながら言った。
「だって、いつもは中区の居酒屋なのにさぁ、今日はウチから近いトコじゃん?それに、龍が飲みに誘って来てしかも奢りって、絶ッッッ対私に何か頼み事がある時じゃん?」
愛純奈は「絶ッッッ対」の所を強調させて、薬研軟骨が刺さった串で龍哉の方を指しながら言った。
「マジか…バレてんの」
「あったりまえじゃーーん!!何年アンタの姉貴しよると思っとんの」
「ま、バレてんなら話は早いわ。んだけど、まだその本人が来とらんのよなぁ~…」
「本人?誰か来んの?」
愛純奈は薬研軟骨をゴリゴリと噛みながら、店の出入り口の方向に視線を送った。
「フッ…」と、龍哉は不敵な笑みを浮かべた。
「キモッ…」
「姉ちゃんが大好きな人」
「えぇ~~っ!!誰じゃろ?え?私のことが大好きって意味?私がその人のことを大好きって意味?」
龍哉は少し考える表情で、目線を上にしながら言った。
「ん~~~…どっちも、かな」
「…?何言いよん?誰よそれ」
「会えば分かるっちゃけん」
そう言って龍哉は、餅ベーコンを一口頬張り、ビールで流し込んだ。
そんなことを話していたら、その「本人」からLINEが来たらしい。龍哉はチラリと愛純奈を見て、ニヤつきながら返信した。
愛純奈は、龍哉の視線には気付かず考えていた。一体誰なんだろう…私が「その人」のことを大好きで、「その人」も私のことを大好き?そんな人、居たっけ…?
ほどなくして、その「本人」が姿を現した。目が合った瞬間、誰だか分かった。
「よぉ、久しぶりっ!」
その「本人」は、元気よく左手を挙げて挨拶した。その声は3年前と変わらなかった。身長も体格も服装の趣味も、愛純奈が知っている「本人」そのものだった。黒のパーカーに細身のジーンズという出で立ちはまるで大学生だが、30代後半のいい大人である。
「省吾じゃん!!」
「感動の再会じゃね~。ハグでもしとき?おっと、ここは日本か。ハハハ」
龍哉が茶化す。愛純奈と省吾と龍哉、3人の時は必ずと言っていいほど、龍哉が茶化す。龍哉が20歳を過ぎた辺りから、愛純奈と省吾を二人にしようとしたり、「仲良しさんじゃね~」と言うようになった。初めはイヤがっていた愛純奈だが、もう口グセのような感覚で慣れた。
省吾は龍哉の右隣、愛純奈の斜め向かいに座った。
「おかえり~!元気じゃった~?」
「おぅ。この通りよ」軽く両手を広げる省吾。
「そっかそっか~。変わらんね~」
愛純奈はしみじみと言った。
「愛純奈もな。元気そうで良かった」
「まぁまぁまぁまぁ。積もる話もあるでしょうが、まずは飲もうぜ~。省はビール?」
「おぅ、ビールで」
「ついでに何か頼もうや。姉ちゃんはジン?」
「もちろん!」
「愛純奈、相変わらずジンが好きなんだな。あ、餃子も食ってるし」
省吾が少し呆れたように言った。
「いーじゃん!好きなんだもーん」
愛純奈は子供のように、ふくれっ面をした。
「ハイハイ、仲良くしましょうね~。すみませ~ん!注文いいですかー?」
「龍も変わってねーな。こうやってサクサク決めて注文すんのとかさ。あ!俺、お好み焼き食いてぇ!」
「確かに!前からそーゆートコあるよね~。変わったことと言えば、パパになったの知っとる?この夏に赤ちゃん産まれたんよ」
「マジで??おめでとう~!!龍がパパかよ??」
省吾は、龍哉を下から上からなめ回すようにしげしげと眺める。
「ちょっと信じらんねーな!写真とかあんの?見せろよ~!」
龍哉は照れながらも、待ってましたと言わんばかりにスマホを操作した。まるで恋人同士のように顔を近付けて、スマホ画面を二人でのぞき込む。
こんな光景、いつ振りだろうか。子供の頃は、当たり前のように3人ではしゃいでいた。
省吾は愛純奈の3つ年上で、親同士が仲良く、お互いの家に遊びに行くほどだった。特に省吾と龍哉は、兄弟のようにいつも一緒で仲良くなった。
愛純奈の父親、俊彦が浜田省吾のファンで、省吾の名前を初めて聞いた時に感激してすぐに気に入り、「ウチにおいで」と自慢の部屋を見せたというのは、山田家でも有名な話だ。省吾は、その時初めて浜田省吾の存在を知ったが、俊彦の部屋に飾られたポスターやグッズを見て、一瞬でファンになった。俊彦は時々、省吾を部屋に招き、ブルースハープやギターを弾いて聴かせた。龍哉も交ざって、男3人でワイワイ楽しむ様子を、愛純奈は母の愛実と一緒に楽しんだ。
愛純奈が中二、龍哉が小六の時、俊彦はこの世を去った。省吾も悲しみに暮れ、高校を数日休んだほどだった。
省吾との思い出は数え切れない。父・俊彦を慕ってくれたことも嬉しい。龍哉と仲良くしてくれたことも。
そして、今こうしてまた出会えたこと。ずっと会えない訳ではなくても、やはり親しい人と物理的に3年も離れているのは、愛純奈にはツラいものがあった。いつもそこにあったハズの笑顔がない。いつも励ましてくれる笑顔がない。耳心地の良い声も…。どんなにツラくても、省吾が居たから生きて来られたと言っても過言ではない。
注文したビールとジントニックが来たので、今日何度目かの乾杯をすると、龍哉が口を開いた。
「で、先に言っちゃいますけど、姉ちゃんに頼み事の件ね」
「え!いきなしかよ!」
「後にしたって、結局言うんだからおんなじだろ」
「そりゃそうだけど…」
「ちょっと、何なのよ~?」
兄弟二人のやり取りが漫才のようで、愛純奈は楽しいのだが、頼み事と言われると気になるのでツッコんだ。
「あのさ、省が住むトコないから、姉ちゃん家に入れてやってくんない?」
「…はっ?」
龍哉があまりにサラッと言うもんだから、理解するのに時間がかかった。いや、時間をかけても到底理解は出来なかった。住むトコない?入れてやって?どゆこと?
愛純奈が目をパチクリさせていると、心情を察してか相談者である(と勝手に決められた)「本人」の省吾が言った。
「あのさ龍、その言い方で理解出来る訳ないじゃんよ?唐突すぎんだよ」
「姉ちゃんは理系だから、まず結論を述べるのが伝わんのよ」
「…なんか、意味はき違えてねーか?」
この兄弟のやり取りはホントに飽きなくていいのだが、今回はいつまでも眺めている訳にはいかない。姉の愛純奈にとって重要なことを、弟が勝手に決めて話を進めようとしているのだ。
「あの…とにかく、説明して?」
「あ、うん、ごめんっ」
省吾が申し訳なさそうに、頭を掻きながら話し始めた。
「俺、こないだこっちに帰って来て、今は広島駅近くのホテルに泊まってんだ。で、住むトコ決まるまで、しばらくホテルで暮らそうと思ってたんだけど…」
話しながら、目線を龍哉へ預ける。
「そんなんカネがもったいないからさ、姉ちゃんトコに泊めてもらいなよって」
姉と飲めることが嬉しいのか、省吾との再会に興奮しているのか、ほろ酔いの龍哉は腕を組み、まるで「ナイスアイディア!」とも言いたげな表情で頷く。
「いや、あのさぁ、事情は分かったよ?分かったけど、あ、た、し、ん、家、だから!」
愛純奈は「あたしん家」の部分で、自分の胸を指差しながら言った。
「部屋あんじゃん、父さんの」龍哉はビールを一口含んだ。
「あるけど…」
愛純奈はジントニックの入ったグラスを両手で包み、視線を下げる。
「え?ダメなん?時々姉ちゃん使うけど、空いとるって言うとらんかった?」
「いや、空いとるよ?空いとるけどさぁ…」
「じゃけってーーい!!」
「ちょちょちょっっっ!!!」
人差し指をピンと立てて自慢げに言い放つ龍哉に向かって、愛純奈と省吾が声を揃えた。二人とも腕を前に出し、手の平を龍哉の顔に向けて仲良く同じポーズを取っている。
「ホンット仲良しさんですねぇ~。3年も会っとらんとは思えんわぁ」
しみじみ言いながら、龍哉はジョッキに口を付け、二杯目のビールを飲み干した。まるで何かをやり遂げた後のような表情で、「ぷはーーっ!ビールうめぇな」と言った。
愛純奈はため息をつき、やや前のめりになって弟を諭した。
「あのさぁ、勝手に決めないでよ。こっちの都合とか聞くやろフツー」
「えっ??姉ちゃん…まっ…まさかっ…」
龍哉は右手で空のジョッキを持ったまま、大きく開けた口に左手を当て、大げさに驚いて見せる。
「ん何よっ…」
「かっ…かっ…彼氏居んの??」
「そんな驚く顔で言うかね?ってゆーか、居ませんけどっっ!!」
愛純奈はふくれっ面で、椅子にもたれた姿勢で腕を組み、右斜め前の壁を睨んだ。そこには、美人女優がハイボールを持ったポスターが貼ってあった。
「ほんならえぇじゃん!ほら、けってーーい!!」
龍哉はまた、人差し指をピンと立てる。
「だーかーらー!決めるのアンタじゃないやろって!!」
愛純奈は龍哉をビシビシと指差した。ふと見ると、省吾がクスクス笑っている。
愛純奈の視線に気付いた省吾。
「あ、いやごめん…なんかすっげー久しぶりで…広島弁とか、二人のやり取りとか。懐かしいなって」
愛純奈と龍哉が、顔を見合わせて吹き出した。
愛純奈は少し遠慮気味に、軽く座り直して膝の上に手を置いて聞いた。
「省吾は…ウチでいいの?」
「えっ…?ホントに?いいのか?」
酒の影響か、照れているのか、店内が暖房で暑いせいなのか、ほんのりピンク色をした頬の愛純奈はにっこりして、こくんと頷く。
「いいよ。父さんも母さんも喜ぶよ。特に父さんは、省吾のことお気に入りだったもんね~」
「アハッ。お父さんにはホント、お世話になったな…改めて、挨拶させてくれ」
「もちろん。いつでもどうぞ」
愛純奈は、首を軽く左に傾けてまた微笑んだ。
「ほーら、やっぱり決定だろ~?」
「なんでそんなに嬉しそうなん?」
「だってまた、こうしてみんなで会えてさ、お酒も飲めて、省がホントに戻って来てくれてさぁ…嬉しいじゃん。あ、すいませーーん!」
龍哉は他にも何か言いかったようだが、照れ隠しに青リンゴサワーを注文した。
それからしばらく飲んで、龍哉は「明日早いから」と言って席を外した。3人で居る時は基本的に茶化すが、愛純奈と省吾が2人で話せる環境をさりげなく作る、時にお節介だが気の利くヤツでもある。
龍哉は愛純奈の家、つまり実家からアストラムラインで20分ほどの所に住んでいる。時々泊まることもあるが、自分の家族との時間を優先するようにと愛純奈は伝えている。
龍哉は愛純奈を心配して、「一緒に住もうか?」と言ったが、愛純奈はそれを断った。愛純奈は自分の家が大好きだ。父親が建てた家。一級建築士でもある俊彦の、こだわりが詰まった家。一番信頼している知人に頼んで、「ワシの脳内を全て形にしてもらった」と、よく自慢していた。
俊彦が遺した家を、愛純奈はとても気に入っていた。大好きな父と一緒に居るような気持ちになれた。出来るなら、ずっとあの家に住み続けたいとさえ思う。どこにも行きたくない。愛純奈は、俊彦と離れたくなかった。
「愛純奈、ホントにいいのか?俺、別に住むトコ探すし」
「いいよ~。省ちゃん来てくれんの、嬉しい」
とろんとした瞳で省吾を見つめながら、愛純奈は言った。
愛純奈は酔うと、省吾のことを「省ちゃん」、龍哉のことを「龍ちゃん」と呼ぶ。そんなに酒が強い訳ではないのだが、ジントニックばかり飲んでほんのり酔うのが、いつもの飲み方だ。若い頃は失敗もしたが、もう三十路も過ぎているので、酒との付き合い方はちゃんと覚えている。あと、酒を飲むのは、次の日に解剖がない時だけと決めている。
愛純奈を見つめながら、変わってないなと省吾は思った。ジントニックばかり飲む所も、ニンニクなしの餃子を一人で二人前食べてしまう所も、酔うと「省ちゃん」と呼ぶ所も、少しくせっ毛のショートヘアが似合う所も、龍哉と仲がいい所も。もうすぐ34歳には見えないほどの肌艶も、童顔も、弾ける笑顔も。本当に変わらない。
愛純奈に特定のパートナーらしき人物が居ないことに、省吾はホッとしていた。3年も離れていたし、そもそもただの幼なじみだから、愛純奈が誰と付き合おうが省吾に止める権利もないのだが。いくら法医学者の仕事が7Kだか8Kだからって、愛純奈のことを想っているヤツなんか、そこら中にいくらでも居るだろうというのが、省吾の見解だ。
見た目は若いが、アラフォー37歳。もういい歳したオジサンで、向こう(外国)で付き合った人も居なくて、省吾はもう何年も「交際」というものをしていない。そもそも恋愛に興味もないのだが、かといってストイックに仕事をしている、毎日が充実している、なんて堂々と言える訳でもないことを、自覚している。
省吾は高校を出てすぐに就職し、25歳まで会社員をした。省吾が高二の時に愛純奈の父、俊彦が亡くなった。母子家庭で育った省吾は、俊彦を本当の父のように慕っていたため、ショックが計り知れなかった。何にもやる気が起こらず、将来なりたいものもなく、進学する気もなく、とりあえず高校は卒業して、とりあえず入れる会社へ就職した。
愛純奈は中三の時に法医学なるものと出会い、そこから急に「将来は法医学者になる」と言い、猛勉強して医大へと進んだ。何の夢もない省吾は、真剣に生きる愛純奈が羨ましかった。
そんな省吾に、転機が訪れたのは24歳の時。実の父親と会ったことだ。
省吾の両親は、省吾が3歳の時に離婚した。離婚を機に、省吾の母が実家へ帰省し、愛純奈達と同じ地域に引っ越したことで、省吾の母・圭子と、愛純奈の母・愛実が出会った。
当時、愛実は主婦をしながら、時々手話通訳の仕事をしていた。圭子に連れられて病院へ行った時、愛実が通訳をしている姿を見た幼い省吾が、愛実をじっと見つめていた。愛実と省吾の目が合い、圭子が申し訳なさそうに軽く頭を下げると、愛実はニコッと笑顔を返した。
通訳の仕事を終えた愛実は、たまたま待合室に居た省吾と圭子に声をかけた。
「可愛いですね」
「さっきはすみませんでした。じっと見てしまって…」
「いいえ、大丈夫ですよ。もしかして、手話を見たのは初めてかな?」
愛実は「手話」の部分で、両手の人差し指を向かい合わせてクルクルとさせる表現をして、幼い省吾に笑顔で話しかけた。
「カッコイイね!」
省吾はそう言った。
後に、省吾はこのエピソードを圭子から聞かされるのだが、当の本人は全く憶えていなかった。愛実は、子供から手話を「カッコイイ」と言われたのが初めてで、とても嬉しかったらしい。その言葉一つで、いくらでも頑張れたと。
この出会いがきっかけで、圭子と愛実は仲良くなった。
後に、愛純奈の父・俊彦と出会い、省吾は「お父さんってどんな人なんだろう」と考えるようになった。父が居た記憶がなく、寂しいと感じることはないが、会ってみたいと思ったことはある。でもそれは、言ってはならないと思い込んでいた。言ってしまうと、母親が困ると思ったからだ。
しかし、俊彦が亡くなり、急に自分の父親に会いたい気持ちがムクムクと膨らんだ。
-もしも生きているなら、会えるなら会った方がいい。会いたい人に会えるなら…―
省吾にそう言ったのは、他の誰でもない愛純奈だった。
20歳の時、省吾は圭子に自分の気持ちを伝えた。率直に、「父に会いたい」と。圭子は、離婚後も元夫の親戚と連絡を取り合っていたらしく、すぐに居場所は分かった。だが、会いに行く決心は付かず、数年の時がただただ過ぎていった。
だが、その日は突然訪れた。ある晴れた日だった。仕事の休憩中、屋上でタバコを吸っていると、省吾の父の妹、咲子から直接、省吾へ連絡があった。肺がんを患い、これまでに数回入退院を繰り返していて、もう今回が最後の入院になるだろうと、みんな覚悟していた。咲子は、どうしても省吾と兄を会わせなければと考え、圭子へ相談をして、直接省吾へ連絡をしたのだった。
初めて見る父は、ベッドの上で呼吸器を付けていた。目を閉じていて、こちらの気配にも気付いていないように感じた。省吾は決めた。父を最期まで看取ると。
なぁなぁで過ごして居た日々。正直言うと、会社員をずっと続けたいと思ったことは一度もない。本気でやりたいことがなかったから、たまたま入れた会社に居続けただけだ。残業も少なく、給料に不満もなかった。
自分なんか何の才能もない。愛純奈みたいに医学部に入れるほどの頭もない。身長も男にしては小柄で、モテた例しがない。そう思い込むことで、いつも現実から逃げていた。やりたいことがない。夢がない。そう思っている方が、楽だった。
でも、父親の姿を見て一念発起した。今の自分に出来ることは、実の父親との残り少ない時間を共有することだ。
省吾は会社を辞めた。給料の使い道がなかったので、貯金は腐るほどある。毎日のように病院へ通い、父の看護をした。担当の医師や看護師とコミュニケーションを取り、その日の父の状態を聞いた。何度か簡易ベッドを借り、父の隣で寝た。
これが「親孝行」と呼べるのかどうかは分からない。しかし、その時の自分に出来ることを何でもしたいと思ったし、実際に何でもやれた。こんなに力が湧くことがあるのかと、省吾は自分でも不思議に思った。気付いたら、タバコもやめていた。
数ヶ月後、省吾は咲子と親戚数人と共に火葬場に居た。涙は出なかった。むしろ、やり切った感、充実感があった。
父の看護を通じて、圭子との会話が増えた。自分は、父と母に愛されて産まれてきたのだと知った。決して、自分が理由で親が離ればなれになったのではないと知った。
父の死後、省吾はカメラマンになる道を選んだ。子供の頃に憧れた職業だった。もう一度、真剣に自分の人生を歩みたいと思った。
遠い記憶の中。父の一眼レフカメラを見て感じた、あの気持ち。まだ2歳頃だろう。「カッコイイ」という言葉は知らなかったが、きっと、そう思ったに違いない。幼い頃の自分の気持ちに、素直に従ってみようと思った。
初めて自分のカメラを買ったのは、25歳だった。
あれから12年。俺は今カメラマンとして生きている。心で感じたものを残すため、カメラのシャッターを押す。3年前、この世界に入った時の恩師から「行ってみないか」と誘われ、直感に従って日本を出た。あちこち飛び回って、様々な世界を見てきた。元々「3年」という期限付きで経ち、先日こっちに帰って来たという所だ。
広島を出て、日本を出て、ハッキリ分かったことがある。俺はまだ、本当に心から「撮りたい」と思うものを撮れていない。こういうのは、もしかしたら一生かけて探したって、見つからないものなのかもしれない。
そんな中、愛純奈と再会した。もちろん、再会する約束をして日本を発ったのだが、こうして目の前に愛純奈が居ると、色んなことを思い出す。離れていた3年の間、何をしていたのか聞いてみたくなる。
けど今は、ほろ酔いの愛純奈を見ているだけで十分楽しい。龍哉のお節介のおかげで、住む所も決まった。しかも、愛純奈達の家であり、大好きだった俊彦さんの家だ。愛純奈と一緒に暮らすなんて、想像もしていなかった。これからが、本当の俺の人生、スタートだ。
愛純奈は鎖骨が見えるシャツを着ているため、首元のネックレスがキラリと光るのが分かる。2つのリングは8年前から変わらず、愛純奈の首元で仲良く揺れている。
愛純奈は省吾の視線に気付き、「これ?」と、左手の人差し指にネックレスのチェーンを引っかけて見せた。
「あぁ…ゴメン。あれからずっと、着けてるんだな」
「うん。8年だよ」
そう言いながら、愛純奈はチェーンを弄んだ。
「8年か…」
「あっという間」
愛純奈は、省吾に心配させまいと笑顔を作り、水を一口飲んだ。氷を入れないのが、愛純奈のルールだ。
「そうだ。父さんの部屋に、出窓あるの覚えとる?」
「もちろん。出窓から見える星がめちゃくちゃキレイなんだって、よく自慢してたもんな、お父さん」
「ふふっ。今度から、いつでも見放題よ」
愛純奈は左手で頬杖をつき、遠くをみるような視線で続けた。実際の視線の先には店のレジがあり、一組会計を済ませた所だ。
「ホンットにキレイでさぁ…満月の夜は、必ず父さんの部屋に行って、あの窓から空を見るんよね。でね、この指輪の石、光によって色が変わるんよ」
今度は右手の人差し指で、並んだ指輪をチョンチョンと触った。
「へぇー!」
「今度、見せたげるね」
潤んだ瞳で見つめられ、省吾は少し照れた。愛純奈って、こんなに可愛い表情をするのか。今まで気が付かなかっただけなのか…?離れていたこの3年で、変わったのだろうか。それとも、30代女性の魅力ってことなのか?付き合ってるヤツは居なくても、好きなヤツとか居るのかな…。
なんてことを省吾が考えていると、「さて、帰るか」と愛純奈が水を飲み干したので、お開きとなった。