型破りな隣人
望月医科大学は広大な敷地を有する医学に特化した大学だ。
座学を中心とした講義棟、実習を主とした研究棟がそれぞれ複数あり、他にも図書館、講堂、体育館など、キャンパス内には様々な施設が建てられている。
憩いの場として緑豊かな小さな広場もあり、時候の良い季節は生徒が思い思いにくつろいだり食事を楽しんだりするが、今日も今日とて残暑の厳しい昼日中は人影がなかった。
私は木陰のベンチに座ってバッグから水筒を取り出した。
ため息一つ、蓋を開けて――。
「下僕を囲ったって本当?」
吹いた。
咳き込みながら声のしたほうに目をやると、一人の女性がいた。
背に流れる艶やかな長い黒髪。一重の切れ長の瞳に桜色の唇。スレンダーな女優のような人だ。
「……望月先輩」
呟くと、彼女は柳眉を寄せた。
「弟と被るから名前で呼んでっていつもいってるのに」
「……今はひとりでしょう?」
「他人行儀なのは嫌なの」
「……小町先輩」
「呼び捨てが良い」
「先輩なので無理です」
「相変わらずお固い。まあ、そこがちとせらしいか」
そして、彼女はベンチの隣に座った。
細く長い指先で髪を払う、その仕草すら美しい。私なら暑苦しくてすぐさま切るだろうに。
望月小町。二つ上の三回生で、アパートの隣の住人でもある。
苗字から察せられるがこの大学の創設者一族でもある。そんなお嬢様がなぜ一般人が住むようなアパートにいるのか知らないが、誰にでも事情はあるだろうと聞いていない。
そして、名前に負けない美人だ。……口を開かなければだけど。
まあ、今は置いといて。
「下僕を囲うって、いったい――」
「違うの? 若い男をモノにしたって聞いたけど」
「モノ……」
私は絶句した。
小町先輩は涼しい顔をしている。
「一体だれがそんなことを……」
「大家さんよ。まあ、あのひとは住み込みでちとせの身の回りの世話するひとがきたと言っただけだけど」
「それがどうして下僕とか囲うとか……」
「同じことでしょ?」
「全然違いますっ」
「そう? けど、同棲してるんでしょ?」
「どっ……」
再度言葉を失った私に、小町先輩は首を傾げ、興味津々といった風にこちらを見る。
「同居です。同棲じゃありません」
「一緒じゃない」
「違いますっ」
「でも、同じ部屋で寝泊まりするのよね」
「それは……」
私は口をつぐんだ。
――本当に。
てっきり彼は同じアパートでも別の部屋で暮らすとばかり思っていた。そして、ご飯を作ってくれる、私にとってなんとも都合の良い存在だと勝手に認識していた。
……まさか、同じ部屋で暮らすことになるなんて。
部屋の間取りを教えたのは、彼が料理だけでなく掃除もする気満々だったから。実際、お任せくださいと胸を張っていた。
けれど、大家の松木さんから、空き部屋はない。最初から同室のつもりで話した。だから、きちんと意思を確認したのだと言われて、私は自分がとった行動が軽率だと知った。
自身のあまりの考えなさにへこむが、両親も大家さんも私を気遣ってくれてのことだ。だから何かあるわけもない。
それに、あやかし=人ではない。だから大丈夫だと、なにが平気なのかよくわからない思い込みをして昨日一日を過ごした。
……長い一日だった。
公園で老婦人と少女を見送ってから帰宅したのち、共にスーパーで買い物に行った時の騒ぎを思い出すと、何度でもため息が出る。
私は軽く頭を振って意識を隅に追いやり、水筒に口を付ける。
「それで、同衾したの?」
咽せた。
思い切り咳き込みながら涙目で小町先輩を睨むと、彼女は大仰に目を丸くした。
「真っ赤な顔して、図星?」
「気管に、お茶が、入っただけですっ」
「あら。よく咽せるなら、誤嚥性肺炎に気を付けてよ」
あなたが変なことを言わなければ気を付ける必要はありません……!
確信犯だろう。おかしそうに優しく背をさすられてもありがたくもなんともない。
ようやく落ち着きを取り戻して小町先輩を見た。
「変なことを言うために来たんですか?」
「いいえ。一緒にお昼を食べようとしただけよ」
言うなり、バッグからサンドイッチを取り出てかぶりついた。
見た目こそおしとやかだが、食べる仕草は豪快だ。
「ちとせは食べないの? はやくしないとお昼休みが終わるわよ」
「……食べます」
いつも持ち歩くトートバッグとは別の小さなバッグを開ける。
それは保冷効果のあるランチバッグで、中から取り出したのはピンクベージュのお弁当だ。
「あら」
サンドイッチを頬張ったまま小町さんが目を見開く。
マヨネーズを口の周りにつけた美人は、若干隙が見えてより親しみやすくなると知った。
「そんなに凝視しなくても……」
「ふふ、バーコードの貼ってないお昼ご飯を初めて見たなと」
そうして珍しがられるのが分かっていたから、人気のない場所に来たのに。
蓋を開けると、中には玉子焼きにオクラの肉巻き、トマトサラダが綺麗に敷き詰められていた。ご飯は刻んだ梅干しを混ぜている。目にも色鮮やかな献立は食欲を引き立てる。
箸をつけようとすると、横から手が伸びた。
「あ」
小町先輩がトマトサラダを口に放り込んでいた。
桜色の唇がもごもご動くさまを見つめる。
「このトマト、皮むきしてオリーブオイルで和えているのね。食材が傷まないようちゃんと火を通してるし、保冷バッグに入れてるし。うん、毒も入ってないようだし合格」
最後の一言はおかしい!
「なに?」
切れ長の瞳を瞬かせて首を傾げられたら、反論する気が失せた。
……納得したならもういいや。
「いえ。……いただきます」
そして玉子焼きを一口齧る。玉子の優しい甘さをわずかな塩気が引き立たせる。お弁当に入れやすいためか、しっかり火を通すためか、半熟よりやや硬めだけど、口の中に入れると程よくほどける。
オクラの肉巻きは塩もみして産毛をとったオクラに豚肉を巻いて塩コショウで炒めていた。オクラの青味の粘りと豚肉の油気が合う。
そして、トマトサラダ。小町先輩の言ったように、皮むきされたトマトはツルンとして食べやすく、オリーブオイルで和えているけど油っぽさは全くなく、むしろさっぱりしている。刻んだ梅干しの混ぜご飯も酸味がきいておいしい。
ふと視線を感じると、小町さんが私を見ていた。
「なんですか?」
「いえ。すごくおいしそうに食べるのね」
「そうですか?」
「ええ。いつものコンビニご飯だとただ食べ物を摂取している感じだけど、今は食べること自体楽しんでいる感じ」
食べる手を止め、弁当箱を見た。
……そうかもしれない。
今まではただ、お腹がすいたから口にしていただけ。
昨日からは料理された献立の見た目から匂い、味まで楽しんでいる。
どのような表情をすればいいのかわからなくて黙っていたら、横から笑い声が聞こえた。
「勉強一筋のちとせが同棲を始めたと知って驚いたけど、このぶんだとよけいな心配だったかしら」
「だから同棲じゃ――」
「昨日は、隣で悲鳴でも聞こえようものなら、鍵がかかってようが蹴とばしてでも乗り込んでやろうかと思ったけど」
「大丈夫です。暴力沙汰は遠慮します」
優美な姿からは想像もつかないが、小町先輩は有言実行を旨とする体育会系女子だ。
本気で来られそうで釘をさしておく。
「万十郎はただ昔の恩を返しに来てくれただけですから」
「――まんじゅうろう?」
「あ」
「名前呼びとは仲良きことかな」
「いや、それは――」
あやかしだから苗字がないとは言えない!
「でも、そうかそうか。ちとせにとって彼はイイ人なのね」
「? まあ、悪い人じゃないと思いますけど」
「…………ぷ」
あれ? 小町先輩が笑顔で固まった。と思ったら、笑い出した。
けど彼は、美味しい料理を作ってくれるし、洗い物は早くて丁寧だし、家事の分では今のところ文句ない。
それに、頑なに拒絶する私に真摯に言葉を重ねてくれた。
両親と大家さんという保護者たちのお墨付きもあるし、そうそう悪いことは起こらないはず。
特に、親は彼をあやかしと知っている。
思考の海から戻ると、小町先輩はまだ笑っていた。
なにが彼女のツボにはまったのか。
「小町先輩?」
「――ん。ちょっとこの先がおもしろそうになっただけ」
「はあ……?」
よくわからないけど、機嫌がよさげだから良いか。
再びお弁当を食べ始めると、やっと笑いが治まったのか、小町先輩は私に問いかけた。
「なら、結局のところ、その彼はどういう立ち位置なの?」
「立ち位置?」
「住み込みで恩返しって普通ありえないでしょ」
「まあ、確かに……」
「だから、今のちとせにとってどんな人なのかなと」
「今の私?」
「深い意味はないわ」
「はあ……」
私はまたも箸を止め、ほとんど食べ終わったお弁当を見た。
ただの知人や友人ならこのように手の込んだお弁当を作ったりはしない。
まして、私は彼を知人と呼べるほどよく知らないし、友人と呼べるほど親しい間柄でもない。なんせ、私からすれば昨日知り合ったばかりなのだから。
なら、利害関係の一致?
それでは私に優位すぎる。無償の奉仕をしてくれているようにすら感じるのに。……いや、その通りか。
最初に浮かんだのは世話焼きのお母さんだけど、性別も違うしさすがに失礼だ。
うーん。一番近い感覚でいえば男性版メイドとか侍従? いや、それも失礼か。奉公人も時代錯誤すぎる。
もっと別の言葉で置き換えて、現代風で言えば……。
「――家政夫?」
呟きながら、やっぱりこれも失礼かなと首を傾げていると、鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
小町先輩がこらえられないといった感じにお腹を抱えていた。
「小町先輩?」
「――いえ、よく分かったわ」
なにが分かったのだろう?
とりあえず、笑い上戸なのは理解したけど。
「分かったって、何がですか?」
「そうねえ。彼はちとせを考えてくれる真面目な人なんだなって」
「まあ、そうですね……」
「だから、私も一安心といったところかしら」
なんとなく釈然としないが、小町先輩は意味深に笑うばかりだ。
なんだかこれ以上発言すればするほど墓穴を掘りそうな気がした。
私は、お弁当を食べ終えると片付けて、ベンチから立ち上がった。
「あら、もう行くの?」
まだ予鈴には早いし、講義棟の人はまばらだろう。
けれど。
「予習します」
一回生ですでについていくのがやっとの私は、人一倍努力しないとあっという間に取り残されてしまう。
いつも余裕の笑みを浮かべる優等生の小町先輩を見ると、天はしっかり二物を与えているなと感じたりもするのだが、才色兼備の名家の令嬢というあまりに差があり過ぎる肩書に嫉妬も感じない。
まあ、それにプラスして豪放磊落な性格もあるのだろうけど。
「そう。頑張ってね。もちろん、無理をしない程度に」
「――はい」
小町先輩も私を気遣ってくれているのだと思うと少し笑みがこぼれた。
一礼して歩き出した私の背に明るい声がかかる。
「同衾したら教えてねー」
こけた。