あやかしの家政夫
九月も下旬だというのに今日は暑い。
アパートを出た瞬間、まぶしすぎる太陽に熱せられた風が吹いた。
日陰を選んで歩く足裏にも、アスファルトの熱が伝わる。
散歩にもならない徒歩一分。私は隣の家の門の前に立った。
蔦が絡まる赤茶色のレンガ塀。柔らかなカーブを描いた門扉は繊細な意匠を施され、鳥の羽をかたどった取っ手がついている。扉の奥には石畳が敷かれ、両脇には季節の花々が来る人を出迎える。開放的な庭はさらに大きな木々が日光を浴びて緑の葉を茂らせている。そして最奥に建つ小さな洋館。
ここが日本であることを忘れてしまいそうな場所だ。
私は呼び鈴を押し、しばらくして応答の後、異国情緒漂う家の中に足を踏み入れた。
「はい、どうぞ。もう立秋過ぎてるのに、今日も暑いわねえ」
「ありがとうございます。いただきます」
レース柄のカップからは爽やかなハーブの香りがする。揃いのプレートには粉砂糖をまとったシフォンケーキ。
確かにその体格では暑いだろうなと若干失礼なことを思いつつ、お盆を脇に置いて目の前に座るふくよかな女性を見やった。
洋館で私を出迎えてくれたのは青い瞳の異国人ではなく、エプロン姿の松木さんだった。
この家に住んでいるのは、婦人は婦人でも、ドレス姿に扇を手にした貴婦人ではなく、ソックスにサンダルを引っ掛けてスーパーに向かう近所のおばさんだ。
半年間ほぼ毎日目にしてさすがに慣れたが、立派な佇まいに最初は戸惑ってばかりだった大家さん宅だ。
カップに口を付けるとリンゴに似た優しい甘みが広がり、すっきりとした爽やかな香りが続く。ホットティーだが清涼感のある余韻は嫌な熱さを感じさせず、むしろ心地いい。
フォークを入れると音もなく沈む柔らかいケーキは、まぶされた粉砂糖とともに口に入れると溶けてなくなる。
「おいしいです――」
何度か頂いたことがあるが、お茶もケーキもその時々に内容が変われど非常に美味だ。
心からの賛辞を送ると、松木さんは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。作った側からすればその言葉が一番嬉しいわ。――それで、どうしたの? 彼氏と喧嘩でもした?」
苦笑交じりに問われ、私は食べる手を止め居住まいを正した。
「あの、そのことなんですが、あのひとは彼氏ではなく少し縁があっただけのひとです。本人から聞いたかもしれませんが、以前彼を助けたことがあって……私からすればほんの偶然ですが、彼はすごく恩に感じてくれたようで、それで、今日うちにお礼に来ただけです」
あやかしであることを除いて説明すれば、すごく曖昧な表現になってしまう。
けれど、十年前亀を助けたお礼に亀自身が人となって訪れましたなんていえるわけもなく。
松木さんは首を傾げた。
「今朝会ったけど命の恩人だって言ってたわよ。言葉ではお礼を尽くせないから傍でお世話をさせていただくって、それはもう真剣な顔をしていたわ」
「どうしてそこまでしてくれようとするのかわからないです……」
本当にわからない。
私は十年前のことなんて完全に忘れてたのに。
私が彼の立場だったら、せいぜいお礼伺いするくらいだ。それで助けたあるじが不在だと知ると感謝の言伝をお願いして終わりだ。わざわざ遠く離れた地まで行ったりしない。
「それは本人に聞いてみないと分からないわねえ。捉え方はひとそれぞれだし、少なくとも、あたしには冗談には見えなかったわ」
それは私も思う。ただの悪戯には度が過ぎる。
私は松木さんの視線を感じて顔を上げた。
「なんですか?」
「うーん、やっぱり痩せた? 毎日のように顔を見るからピンとこないけど、なんだか頬のあたりがこけた気がする」
「そうですか?」
私は自らの頬を触ったが薄い肉と頬骨の硬い感触があるだけだ。
松木さんは眉をひそめた。
「何をするにも身体が資本よ。ちゃんと毎日食べてる?」
「一応……」
「はあ。一応、ねえ……」
先ほども似たようなことを言われたため、どうにも居心地が悪い。
松木さんはひとつ息をつく。
「あなたが帰省して間もなく、うちに電話があったの。あなたのお母様からよ」
「お母さんから?」
「数か月見ない間に娘がやせ細って、何かあったのかとすごく心配されてたわ」
曰く、
久しぶりに見ると驚くほど痩せていた。
少しでも食べさせたくて、毎日できるだけ消化の良い料理をたくさん作った。
たった一週間でアパートに戻った。勉強が大事なのはわかるがいつか倒れそうで心配だ。
夫も娘のことが心配で仕事が手につかない様子。
どうか見守ってほしい。
等々。
私は驚きに目を見開いた。
確かに夏休みの一時期、実家に帰省した。そこでずいぶんスマートになったわねとか、それ以上痩せると骨と皮だけになるわよとか言われたけど、冗談交じりの笑いながらだったので私も適当に返した。
まさか、そこまで心配されたとは思いもしなかった。
「他にも下宿している子がいるのに、百長さんだけ優遇するわけにもいかないので、とりあえず様子を見てたけど、確かに初めて会った時よりは細くなった気がするわね。若い娘はダイエットなんてする必要ないのよ。夏の終わりだというのになんだか肌の色も白いし」
「別にダイエットはしてませんけど……」
肌が白いのは日光に当たっていないからだろう。
松木さんは懐から封筒を取り出した。
見覚えがある柄にドキリとする。
「少し前に、あなたのご両親から届いたの」
差し出された青い小花の散った封筒と松木さんの顔を見比べる。
「……読んでも?」
「どうぞ。子を思う親のこころをしっかり認識しなさい」
言葉が返せず、中の便箋を取り出す。
そこには、先ほど大家さんが述べたことと同じような言葉が延々と綴られていた。
そして、私をたずねて青年が訪れたと。
『彼はわたしに、危ないところ娘に命を救われたと言いました。そして、言葉だけではなくどうにか礼をしたいとも。
彼は自由な身の上だというので、ならばと娘のところにいって身の回りの世話をしてほしいと頼みました。
娘のところに若い男性がひとり赴くのは非常に心配ですが、もし何かあってからでは遅いのです。
痩せ細った娘の姿を思い出すたび、望まない電話が鳴りそうで怖くて仕方ありません。
そんなわたしの思いを感じ取ってか、彼は真剣な顔で了承してくれました。夫も苦々しく思いながらも頼むと言いました。
後日、青年が娘のもとを訪れるでしょう。
勿論、娘の気持ちが一番ですが、拒絶しているのでなければどうか許可できるように導いてやってください』
私宛ての手紙では軽く流されていた言葉が、こちらでは重く長く書かれていた。
母が書いたのだろう文字も、私宛ての丸みを帯びたものではなく、見たことがないほど丁寧だ。
父も最後によろしくお願いしますと一言添えている。
私は唖然とした。
松木さんは真剣な目で私を見る。
「理解した?」
しないはずがなかった。
言葉をなくす私に、松木さんは微笑んだ。
「もちろん、百長さんの意思が一番だからね。嫌だっていうのなら、あたしが大家の権限を使ってでも追い出すよ」
「私は――……」
私は膝に乗せた手を握り締めた。
大家さん宅を辞して数十分。
携帯電話から電話帳を開いて母の番号を出す。
通話ボタンの上に指を置いて数秒、小さく息を吐くと指を離し、再びポーチにしまった。
残暑の湿気を纏った風がそよと吹く。
屋外は相変わらず汗ばむ陽気で、木陰だというのに腰掛けたベンチの熱が服越しに伝わる。
アパートから徒歩十分の小さな公園。日曜日の午後だというのに、そこには一組の大人と子供しかいなかった。
暑いから屋内で涼んでゲームでもしているのか、はたまた塾でも通っているのか。
そういえば、私も日曜日の午後に屋外に出たのは久しぶりだ。
腕を見ると確かに白い気もする。色白というより血の気のない白さ。
鈴を転がすような笑い声が聞こえた。目をやると子供がブランコで遊んでいた。
四、五歳くらいの女の子だろうか。はしゃぎながら漕ぐ姿は可愛らしい。見守る大人は頭に白いものが混じり始めた女性だ。年齢的に子供の祖母だろうか。
優し気な目元が別の人物と重なった。
過去を視たからだろうか。ぼんやりとしか記憶していなかったことを鮮明に思い出す。
幼馴染との喧嘩を諫める少し怒った顔、頭をなでる優しい手つき、いってらっしゃいと送り出す朗らかな声。
――おばあちゃん。
私が医大生を目指したきっかけ。
突然、大きな泣き声が聞こえて我に返った。
転んだのか女の子が涙をぼろぼろ流していた。
座り込んだ子供をあやすように老婦人が背を叩く。
「大丈夫ですか……?」
近づいて声をかけると、老婦人が顔をあげて困ったように微笑んだ。
「ちょっと擦りむいただけだから、大丈夫よ。この子ったら大袈裟なんだから」
「いえ。やっぱり、痛かったら涙出ちゃいますから。家はどちらに?」
たかが擦り傷と侮ってはいけない。傷が浅くてもばい菌が入れば化膿したりするのだ。特に免疫力が低い子供は気を付けないといけない。
「すぐそこよ。さあ、あやちゃん。立ってお家に帰りましょうね。キレイにしなきゃ」
「あの、ちゃんと傷口は流水で綺麗に洗い流して、それから消毒してください。乾燥させると治りが遅くなるので、ちゃんと手当をして、過度に痛がるようなら病院に連れて行ってください」
「あら。乾かさないほうがいいの?」
「はい。身体から自然と出る液体のようなものが傷の治りを良くするので。乾燥させないほうが跡も残りにくいです」
「そうなの? 昔と違うわねえ」
医療の進歩は日進月歩なので、以前は当たり前の治療法が全くの筋違いだったりもする。おばあちゃんの知恵袋といった民間療法は、逆に健康被害を拡大する恐れもある。もちろん、効果があることもあるが、親や祖父母世代がそうしていたからと鵜呑みにしないほうがいい。
老婦人は目を丸くして聞いた。
「詳しいのね。学生さん?」
「はい。大学生です」
インターネットが普及している今、傷の治療など少し調べればわかることなので、医学生とは言わなかった。
「そう。ありがとう。帰って手当するわ。ほら、あやちゃん、お姉ちゃんにバイバイ」
「――ばいばい」
泣きながら手を振る女の子がいじらしくて笑みがこぼれた。
老婦人が子供の頭を撫で、手を引き去っていく。
私はその後ろ姿をぼんやりと見つめた。
日が傾き始めたころ、私は見慣れたアパートに戻った。
扉の前に立ってノブを握り締める。
あれだけ投げやりに帰っていいと言ったから、もういないだろう。
同時に、やっぱりいるかもしれないと思う自分もいる。
どっちでもいい。
いないならそれだけ。
けど、もしいたら――。
「おかえりなさい」
当たり前のように出迎えられた。
ドアノブを持ったまま私は固まった。
「どうしました? あ、まずは手洗いうがいですよ」
「……いたの?」
相変わらずな応対に力が抜ける。
少し失礼な言い方をしてしまったが、青年は気にした様子もなく微笑んだ。
「はい。ちとせさんが本当に嫌だっていうのなら、退去しますが、僕の意思で帰って良いというのならもちろんここにいますよ」
「はあ……」
当然とばかりに頷く彼の姿に、真剣に考えていた自分がなんだか可笑しくなった。
思わず漏れ出た笑みに、彼は不思議そうな顔をした。
私は玄関を抜けてふたつある右手のドアの片方を開けた。
「ここは洗面所。奥がお風呂場。洗濯はここで。もうひとつのドアはトイレ」
「え?」
戸惑う彼を無視して左手に回る。
「こっちは台所。奥からコンロ、洗い場、食器置き場。シンク下は洗剤やスポンジとか消耗品置き場。反対側の戸棚はお米や調味料と普段使わない食器。隣は炊飯器と電子レンジに冷蔵庫」
そして奥のリビングへ。
「ここがリビング。南側の窓からベランダに出て物干しざおが一本あるから、そこで洗濯物を干してる。ただし、タオルを外側に、女物と分かる服は外から見えない位置で。……下着は部屋の中で私が干す」
「あの……」
「向かって右側が勉強机、左側がベッド。中央のテーブルは食事したりくつろいだり。テレビとエアコンのリモコンはここの端に置いてる。あと、ベッドの反対側がクローゼット」
そんなに深く考えなくていい。今思うことを実行すればいいだけ。
困惑顔の彼を見ながら、私はスカスカのクローゼットを開けた。
「この通り空きはあるから。とりあえず、羽織りはここに吊ってるけど、着物の手入れの仕方なんて知らないからね」
「それは――」
茶色の瞳がゆるりと見開かれる。
私は再び玄関に向かって歩いた。
「外、暑いから上着はいらないと思う。――行くよ」
「どこへ?」
「スーパー。冷蔵庫の中補充しないと。……栄養たっぷりの料理、作ってくれるんでしょ?……万十郎」
思わず語尾が小さくなったが、彼は聞こえたらしい。
驚きに目を見開いた後、満面の笑顔で頷いた。
「はい。お任せくださいっ!」
こうしてあやかしと私の奇妙な関係が生まれた。
1章終了です。お付き合いくださりありがとうございました。