過去視
水杜島は中央にかけて緩やかな丘になっており、奥まるほど木々が深く濃くなっている。森の入り口は山菜採りや森林浴などで島民がやってくるが、深部まで訪れる人は少ない。
そんな人の手の入らない奥まった場所に小さな泉があった。水底の石粒が見えるほど澄んでいる。
空が茜色に染まる夕暮れ時、泉に波紋が広がった。雨が降ったり小石が投げられたわけではなく、内側から広がった波模様だ。
やがて、一匹の亀が姿を現した。
体長二十センチくらいだろうか。亀は岸まで泳ぐと水から上がり、獣道をかき分けるように歩いた。
遅々として進まないゆるやかな歩みにいつしか日はとっぷりと暮れ、ホウホウとフクロウの鳴き声が聞こえるようになったが、亀は休みことなく四肢を動かした。
暗闇だった空が白み始めて、虫の音が鳥のさえずりになり、さらに日が中天に差し掛かったころ、ようやく森が開ける場所までやってきた。
森の中とは違い均された道沿いには、人の手によって規則正しく植えられた木々が日光に照らされ、白い花を咲かせている。
舗装された道路沿いに同じような形の家々が立ち並び、海岸へと続く。浜辺のさらに先へと進むと、きらきら光る海だ。
島が一望できる一本の木の根元までやってきた亀は、四肢を伸ばして休憩とばかりに目を閉じた。
その時、一陣の風が吹いた。
森のほうから吹き下ろす風は強く、見た目の割に重量の軽いその亀は転がった。
島の頂上付近からそれはもう盛大に、童話のおむすびくらい転んだ。
重力に従い勢いよくあぜ道を転がり、ようやく止まった時は森より海のほうが近くなっていた。
甲羅に頭部と四肢を隠していた亀は、それらを出して動こうとしてできなかった。
「なんだあ? 亀が道路の真ん中でひっくり返ってるぞ」
青空の下、まさに現状を表す言葉が響いた。
十歳くらいの人間の男の子だ。
少年はやおら木の棒を拾ってきて亀を突いた。
亀は弱弱しく身じろぎすると、少年の明るい声が響いた。
「おっ。動いた」
再度棒で突かれ、ドアにノックするように拳で叩かれた。
乾ききった甲羅が熱せられたアスファルトに当たる。
子供特有の無邪気ゆえの残酷さに弄ばれて終わりか、遠くで聞こえるエンジン音から車に轢かれるか、どちらにしろ亀の命は遠くないうちに尽きようとした。
その時。
「何してるの?」
鈴のなる声がした。
男の子と同じ年頃の女の子が現れて、しゃがみこんだ少年を見ていた。
少年は少女をみると、玩具を見せびらかすようにへらりと笑った。
「ちとせか。見ろよ、亀がいたぜ」
「亀? ちょっと、棒で突いたらだめじゃない。かわいそう!」
少女は驚きに目を見開き、小さな両手のひらで亀を掬いあげた。
そのまま大きな瞳を見開く。
甲羅には大きな傷がついていた。
「怪我してる! 陽太がやったの?」
「うわ。ほんとだ。――ちげえよ、おれじゃねえよ!」
少女は、半歩下がる少年を睨むが、ふいと視線をずらし歩き出す。
「ちょっと遊んでただけだって。……おい、どこ行くんだ」
「私んち。島には動物病院はないけど、怪我だけじゃなくて甲羅熱いし、このままにしておけない」
「そいつ、おれが見つけたのに。――おい、待てって!」
追いかける声を無視して、少女は小走りに一つの家屋に向かった。
たどり着くと裏口に回り、備え付けられた水道の蛇口をひねる。
途端あふれだす水の気が亀の甲羅から全身に染み渡る。
亀は頭と四肢を出して水を浴びた。
「少し元気になった? 良かった……」
安堵の声が聞こえた。ついで優しく触れられる。
「あんな所にいたらだめだよ。けど、怪我はどうしよう。動物病院はないし、海にかえしたほうがいいのかな」
「何、勝手なこと言ってるんだ。そいつ、おれのだぜ」
「野生だから陽太のじゃないよ」
「――何してるの?」
言い合う子供たちを割るように穏やかな声が聞こえたと思ったら、白髪の老婦人が裏戸から姿を現した。
少女が目を輝かせ、亀を掴んで詰め寄る。
「おばあちゃん。この子、道の真ん中でひっくり返ってたの。陽太が酷いのよ。この子苛めて」
「苛めてねえって。遊んでただけだって」
「ほらほら、喧嘩はだめよ。陽太君からしたら遊んでただけでも、この亀さんからしたら苛められてたかもしれないわよ。ちとせも亀さん押しつぶさない。痛がってるわよ」
「あ……。甲羅が熱かったから水をかけてたの」
「そう。ちとせは優しい子ね」
祖母に頭をなでられ、少女ははにかんだ。男の子は憮然とした表情だ。
「この子、怪我してて」
「あら。けど島には動物病院はないから……」
「人間の病院もないものね」
少女は改めて穿たれたような傷を見る。
硬い甲羅が傷ついているのだ、亀がどれほどの衝撃を受けたのか想像できない。
とにかく、素人にはどうしようもない。
「見たところひびは入っていないし、怪我も内臓までは達していなそうだから、このまま安静にするのが一番かしらね」
「夏だから、家に置いとくのはよくないよね。海にかえして大丈夫?」
「おれのって言ってるのに……」
「だから、陽太のものじゃないって」
老婦人は穏やかに笑いながら子供たちを見つめていたが、ふと表情を改めた。
なぜかくんと亀を嗅ぐ。
「おばあちゃん、どうしたの?」
「亀さんから潮の香りがしないわね。水で洗ったくらいじゃ落ちないし――」
子供たちもつられて嗅ぐ。
「どちらかというと、潮より土とか草のにおい……?」
「あちこちに草の汁がついてるな。森から来たってことか? なら、あの泉……?」
腕を組んだ少年に少女が首を傾げる。
「森の奥に泉があったよね。私、行ったことある。お母さんとおばあちゃんと行った」
「おれも父ちゃんに連れられて行ったことある。お前、あそこからノコノコ出てきたのか」
興味深そうに亀をのぞき込む少年を老婦人が見やる。
「陽太君のお家は森の管理人だものね。そう、ちとせとは一緒に行ったことあったわね。とにかく、この島には川がないし、淡水は森の泉しかないから。あそこ、亀の棲み処なのかもしれないわね」
「私、行ってくる」
「泉に? ダメよ、一人じゃ危ないわ」
「平気。陽太も来てくれるって」
「おれ、何も言ってねえし」
「亀さん苛めたばつよ」
「苛めてねえし」
言い合う子供たちの頭を撫でて、老婦人が困った風に笑った。
「これは言っても無駄のようね。気を付けて行ってらっしゃい。日が暮れるまでに戻ってくるのよ」
「はーい」
少女はいったん家に入ってバックを持ってくると、濡れたタオルを敷いて亀を置き、ぶつぶつ文句を言う少年を連れて行った。
ふたつの影を見送りながら、老婦人は意味ありげに言った。
「――もしかしたら、いつか恩返しが来るかもしれないわね」
それから、すれ違った大人たちからは微笑ましく見られながらも、本人たちは口喧嘩をしながら島内を移動した。
森の入り口からしばらくは均された道で、親に連れられて山菜採りなど出かけたことがあるが、さらに奥には数えるほどしか行ったことがなかった。
おまけに子供の二人だけは初めてで、自然口数が減り、せわしなく辺りを見回しながら進んだ。
近くの茂みがカサリと音を立てて揺れて、少女は飛び上がった。
「きゃあ!」
「うお。いきなりなんだよ」
「だって、今そこの茂みが動いたから。……ウサギ?」
黒いウサギがピクピクと耳を小刻みに揺らしながら子供たちの前に現れた。
途端、少女は嬉しそうに笑ってしゃがみこんだ。
「可愛いー。けど、ごめんね。あげられるものがないんだ」
ウサギはカゴの中を確認するように鼻をひくつかせ、食べ物がないなら用なしとでも再び茂みの向こうに消えていった。
「野生動物とはいえ人に慣れてるなあ。ま、餌がないとすぐに消えるところは辛辣だけど」
「陽太難しい言葉知ってるね」
「うっせえ」
雰囲気が和らいだところで「確かこっち」と歩を進めるうち空気に水の香りがまじり、ほどなく泉に到着した。
その場所だけ切り取るようにぽっかり開いていて、水底まで見通せる澄んだ水を湛えていた。
少女はカゴから亀を取り出すと、そっと地面に置いた。
「ほら。もう麓のほうまで来ちゃだめだよ」
怪我をよけて甲羅を撫でると、亀は首を傾け少女を見た。
そして、思わず差し出した小さな手に抱擁するように手足を回すと、そのままよじ登った。
「はは。亀がよじ登ってらあ」
「こら。私で遊ばない」
もう一度地面に置くと、亀は再度細長い瞳孔を少女に向けるも、今度は大人しく泉に向かって歩いた。
そして、そのまま水に浸かりやがて見えなくなった。
「お。もういなくなった」
「あれ? 泉は底まで見えるのに、亀さんは見えなくなっちゃった」
二人で目を合わせ首を傾げるが、帰りに再びウサギと遭遇するうち忘れていった。
ただ、亀の金色の瞳は意識の隅に残った。