畏怖
私が歯磨きを終えてリビングに戻ると、青年はテーブルを拭いていた。
「あれ? もう洗い物は終わったの?」
「食器の数が少ないのでそう時間はかかりませんよ。まあ、今度台所にあるすべての食器を洗い直す必要がありますが」
それは暗に私の洗い方が下手ということだろうか。
確かに洗い物はいつも簡単に済ませているけど、気になるほどの汚れはないと思う。
ベッドサイドの置時計に目をやると午後一時半を過ぎたところだ。
そういえば、と私は彼を見る。
「あなたはお昼ご飯食べたの?」
先ほどまで目の前でがっついておきながら、我ながら間の抜けた質問だと思う。
青年は瞬きすると首を振った。
「いいえ」
「え? 食べてないの?」
てっきり食べているのだと思った。
「私にはちゃんと食べろっていいながら自分は抜くのは駄目よ。何か――」
冷蔵庫の中は空っぽだろう。
すぐに食べられるものはインスタント食品しか思いつかない。
歩いて十分ほどの場所にスーパーがあるけど、少しの材料で立派な料理を作った彼だ。出来合いの惣菜で満足するかどうか。
いや、この際口に入ればいいか。
少し前ならこれを口実に追い出したが、今は手紙が気になるのでそんな気にならない。
目まぐるしく考えていると視線を感じた。
「何?」
「心配してくれているのですか?」
私は目を見開くと大きく首を振った。
「違うよ。食事を抜くのは駄目だってさっきも言ったでしょ」
「はい。僕を心配しての言葉ですね」
違ーーう!
必死に否定するのになぜか嬉しそうにされた。
そして何度も見る穏やか微笑み。
「あやかしに人間の食事は必要としないので大丈夫ですよ」
「え?」
「食べることはできますが、あくまで嗜好品になりますね」
言っている言葉が理解できない。
「それはどういうこと?」
「とりあえず座りましょうか。ちゃんと説明すると言いましたし」
戸惑いながらもテーブル横に腰掛ける。
青年も座ると指を組み私を見た。
「僕のことを覚えていないんですよね? 亀を助けたことも」
「うん」
記憶力は悪くないほうだけど、何度も聞かれるとなんだか申し訳なくなってくる。
「そんな顔しないでください。では、そこからですね。……手を」
「手?」
「触れていいですか」
「いいけど……何をするつもり?」
「思い出してもらうだけです」
彼はそう言って柔らかく目を細めると、差し出した私の左手の甲を小鳥に触れるように少しかさついた指で優しく撫で、己の手のひらと重ねた。
骨ばった大きな手のひらに、優し気な雰囲気だけど目の前のひとは男性なのだと改めて感じる。
触れ合った箇所を意識して、妙に気恥ずかしい。
力を加えられたわけではないのに熱い。なんだかじっとりと汗をかいてきた。
「まだなの?」
手のひらの汗を気付かれたくなくてせかすように聞くと、一瞬強く握ったのち、ゆっくりと離れた。
触れた手の甲の熱は引かないが、ざらりとした、けれど優しい感触がなくなって少し変な気分になった。
そして、目を見開いた。
「なにこれ?」
左手の甲に痣が出来ていた。
いや、痣というのが正しい表現なのかわからない。
ただ、痣としか言いようのないそれは艶めく墨色で綺麗な六角形をしていた。内側は丸くくりぬかれたような模様があり、淡く金色に光っていた。
「印が見えるように少し僕の霊力を注ぎました」
まったくもって意味が分からない。
私は突如浮かんだそれをみて思わず呟いた。
「黒い……」
「それは、僕の本性が黒いからでしょうか」
「なにそれ? 実は危ないヒト!?」
一見優男だけど、前科持ちとか?
思わず後ずさった。
「危なくはないです! ……少なくとも、あなたには誠実でいます」
思いのほか真剣に断言されて、口をつぐむ。
私は改めて痣を見る。
艶のある黒、そして淡く発光する金。
人体には発光する器官も機能もないはず。少なくとも現代の科学では研究はされども証明まで至っていない。
日光に当たると髪の色が明るくなるのは紫外線によるもので、写真と撮ると赤目になるのはフラッシュの光によるもの。光って見えるすべては外的要因だ。
けれど、手の甲の痣は確かに内側から光を放っている。
眩暈を感じ、視界が暗転する。その一瞬、懐かしい風景が見えた。
「……今のはなに?」
僅かにかぶりを振って、ゆっくりと青年に視線を戻す。
そしてようやく、私が異常事態に陥っていると知った。
変わった人だと思った。
それは玄関口で名乗られた時も、勝手に部屋にあがられた時も、親から託された手紙を読んだときも、料理を作ってもらって食べたときも。
たった今触れられた時でさえ、その印象は変わらなかった。
ただ、風変わりな人だなと思った。
彼の瞳孔が針のように尖っているのに気付いた。人間にはありえない、獣を思わせる金色の瞳だ。それはどこか痣の色を思わせる。
初めて目の前の存在の異様さを感じた。
――こわい。
突如として沸き上がった感情は未知のものに対する恐怖だ。
私の感情を感じ取ったのか、青年が困ったように眉を寄せた。
「荒っぽいことをしてすいません。印を通じてあなたの記憶の扉をたたきました」
「記憶の扉……?」
「はい。印に触れてください。これで思い出すはずです」
「――無理」
私は痣を少しでも遠ざけようと伸ばしていた左手に顔を背ける。
歯の根が合わない。
「無理よ。取って。これ、取って!」
「ちとせさん!」
私は少し恐慌状態に陥っていたのだろう。
振り回した左手が掴まれたと思うと、気付いたら力強い腕に抱かれていた。
膠着は一瞬。全身の産毛が逆立ち、激しく暴れるが、背に回された腕はピクリともしない。
「いや、離して!」
「落ち着いて」
「いやっ、こわい……怖い」
「大丈夫。大丈夫だから」
浅い呼吸を繰り返す私に、低い声で何度も大丈夫と告げられる。
怪しげな痣を付けた普通でない存在だというのに、あやすように優しく背をさすられ髪をなでられ、鼓膜を震わせる静かな声に少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
「……ごめん」
私は両手で青年の身体を押しのける。今度は抵抗もなく離れていく熱に安堵の息をつく。
「こちらこそすいません。ここまで取り乱すとは思いませんでした」
俯いているので表情はわからないが、途方もなく困惑した声音だった。
私はぽつりと呟く。
「目が……」
「目?」
「金色で、瞳孔が獣のようで……」
「ああ、力を使ったからですね。――これで戻りました?」
問われてそっと上を向くと、いつもの垂れ気味の茶色い瞳があった。
私が身体の力が抜けるかのように息を吐く。
「本当にすいません」
「――これ、消せる?」
差し出した左手を見る。
痣なんてよく知らぬ間にぶつけてできている。けれど、そうじゃないと分かる綺麗な形。
そして痣ではありえない光放つそれは、今も消えず僅かに熱を持っている。
青年は逡巡したのちためらうように口を開いた。
「それは、僕のことを思い出してからでもいいですか?」
「今すぐじゃだめなの?」
「……できれば」
絞りだすような声と悲壮な表情に二の句が継げない。
――なんだか私が悪者みたい。
再度俯いた私の頭上に声がかけられた。
「絶対にあなたを傷つけることはしませんから」
「……ぜったい」
「はい」
思わず、爪が白くなるほど強く手を握り締める。
「……私、その言葉嫌い」
「え?」
「絶対という言葉。世の中に絶対なんてない。真夏でも雪が降るかもしれない。海水が真水になる日が来るかもしれない。太陽が西から昇って東に沈むかもしれない」
すべて極端な話。大袈裟だと笑われるか呆れられて終わりだ。
けれど、往々にして科学で説明できないことが起こるものだ。今も。
瞬きもせず、六角形の痣を見る。
「あなたが私を傷つけることもあるかもしれない」
青年は黙って耳を傾けていた。
私は彼のそんな静かな瞳を見た。少し垂れ気味の茶色を。
僅かに唇を噛んで頭を下げた。
「けど、さっきの思いは本物だと思った。……だから、暴れたりしてごめん」
「……いえ、いいえっ!」
私の言葉に青年は頭を振る。
「僕こそ、言葉足らずでした。本当にすいません」
「もう、謝らなくていいよ」
照れくさいのとなんだか恥ずかしいのとで、少しぶっきらぼうな口調になってしまった。
「いえ、それだけじゃなくて」
私は瞬く。まだ何かあったっけ。
「……名前、呼んでしまいました」
「――ああ」
名前で呼ぶなと啖呵を切ってから、彼は私を外国人みたいに片言で苗字を言ったり、ただあなたとだけ呼んだ。
けれど、とっさに出たのは私の名前。温かな腕と包み込むようにかけられた言葉。
「……いいよ。名前で」
「え?」
「だって苗字とかあなた呼ばわりはむず痒い」
――本当に私は心が狭い。
けれど、あまのじゃくな私の言葉に、青年は困惑気味に少し笑った。
なんだか久々の笑い顔に思えた。
「記憶の扉だっけ」
「はい。印に意識を向けて触れたら、僕がそれを刻んだ時のことを思い出すはずです」
痣じゃなくて印と言われると、なんだか所有物に聞こえる。
おまけに刻むとか……。
私は首を振っておかしな方向に行きそうな思考を追い払い、案じる視線を曖昧にやり過ごす。
「平気よ。……じゃあ、試してみる」
深呼吸して右手の指を左手の甲の痣、もとい印にやる。
光に触れたと思った瞬間、懐かしい風景が脳裏に広がった。
先ほども浮かんだ、これは――。
穏やかな波が打ち寄せる浜辺に、杭でつながれた漁船、干された網。桟橋には陸への航路便が横づけされている。
少しばかりのコンクリートの道に沿って、身を寄せ合うように立つ家々。
段々畑のみかんの木が可愛らしい白い花を咲かせており、奥に向かって緑が深くなっている。
懐かしい、故郷の水杜島だ。