私の可愛い亀
照明がついていないため、中は薄暗かった。
窓からは宵闇の僅かな光が差し込み、部屋の中を妖しく浮かび上がらせる。
個室のようで、ひとつあるベッドは使用された痕跡がなく、皺ひとつなかった。
サイドテーブルにはランプと水差しが置かれ、壁にはナースコールが埋め込まれている。あとは着替えをいれるクローゼットや荷物入れのロッカーが隅に並んでいる。
ありふれた病室だ。
しかし、思っていたひとがいなくて、私は迷子のように目を彷徨わせる。
視界が突然明るくなった。
空也先輩が明かりをつけたのだ。
明るくなった室内を目を細めて慣らしていると、ある一点に目が留まった。
ベッドを置く広さもないのに、角にカーテンが引かれていた。
私は吸い寄せられるようにそこに向かい、そっとカーテンをめくった。
はたしてそこには、背の低いテーブルに水槽が置かれていた。
中には一匹の亀。
甲羅には体長に見合わない大きな傷跡がある。
私は目を見開いた。
「万十郎!」
甲羅から少し出た四肢はだらりと倒れ、頭は力なく伏している。
あやかしにも亀の生態にも詳しくなくても、普通の状態ではないのは分かった。
「万十郎! どうしたの? 一体なにが――」
駆け寄り声をかけるも、ぴくりともしない。
水槽の中に手を突っ込もうとしたとき、手首を掴まれた。
「薬液から出してはいけない」
「薬液……?」
よく見れば、水槽の水は少し緑がかっている。
「長く続いた不調のうえに、昨夜襲撃を受けたため、彼は弱っている。人の姿をとれないほどに」
「え」
振り返ると空也先輩が昏い瞳で水槽の中を見ていた。
私が亀をみて万十郎と呼んでもおかしな顔をしない。
いや、今はそんなことより――。
「不調? 襲撃? どういうことですか」
「説明するから落ち着け」
「そんな、落ち着いてなんて――」
「医者を目指しているのだろう。なら、たとえ身内に患者がいても、平静を保たなければいけない」
静かな声音で諭すように告げられ、思慮深い目で見られ、私は少しずつ冷静を取り戻した。
「……すいません。話してください」
落ち着きを取り戻した私の様子に、空也先輩は頷いて手を離した。
騒いだのに、万十郎はぴくりとも動かない。
「まず確認。彼は幽世のあやかしで間違いないな」
「……はい」
やはり先輩はあやかしの存在を知っている。
幽世というあやかしの世界のことも。
「その手の甲も彼が?」
「はい」
左手の甲の印に触れる。アパートに来た日に存在を認識させるも、怖がったために見えなくしてくれた、もとは金と黒の二色の印。今は瞳に映り、全体的にくすんだ色をしている。
空也先輩は私に向かい合った。
「聞きたいのはひとつだけ。……彼は食事はとっていたか?」
「食事……」
私は口をつぐんだ。
最近は一緒に食べることも少なくなったとはいえ、それまでは共にテーブルを囲んでいた。
けれど、それではないだろう。
人間の食事とあやかしのそれは違う。
口ごもる私に、空也先輩の冷静な声が聞こえた。
「彼は飢餓状態だった」
「え――」
私は言葉を失った。
飢餓?
飽食が問題となっている現代社会では聞くことすら少ない言葉だ。
空也先輩は真剣な表情で続けた。
「あやかしに必要な栄養素はタンパク質でもビタミンでもない。霊力だ。あやかしの肉体を保つには、霊力の豊富な幽世の食物を摂取すること。それが無理なら、霊力の代わりとなる気を取り入れることが必要になる。特別棟――あやかし棟の世話になるものは、大抵栄養失調が原因だ」
「栄養失調……」
「それでも、長く現世にいるあやかしや、現世で生まれ育ったあやかしは耐性ができているので、そう簡単に倒れたりしない。けれど、幽世のあやかしは違う。定期的に霊力を取りいれないと倒れてしまう。彼も、僅か二か月も持たないとは思わなかっただろう」
知らない。聞いていない。
あやかしの生態は分からないので、私は万十郎の言葉を信じるしかなかった。
けれど、本当は……。
私は震える声で呟いた。
「……水杜島の泉の水で充分だって」
「門の泉の水か。確かに幽世の霊力を宿しているだろうが、この状態を鑑みるに焼け石に水だったようだな」
「そんな……」
私は緑色に染まった水槽を見た。
穏やかに笑っていた彼は小さな亀となって薬液に浸り、微動だにしない。
――私があなたの料理を食べる間も、餓えに苦しんでいたの?
美味しいと笑う横で、お腹を空かせていたの?
「言ってくれたら……」
けど、現世での食事は人間の精気と言っていた。拒絶したのは私だ。今も、その対応が間違いだったとは思わない。しかし、倒れるほど我慢するなんて……。
幽世に帰ろうとか思わなかったのだろうか。
「よく彼はここで目減りしていく霊力を補充しにきていた。幸い、病院にやってくるあやかしは霊力不足による不調が原因のことが多いからな。そのたびに幽世の霊力が濃縮された薬湯を摂取していた」
私は唇を噛んだ。
狭いアパートの一室では必要な家事も多くない。
余った時間、日中なにをしていたのだろうとうっすら疑問に思っていた。
答えが通院だったなんて。
「そもそも印を捧げたあやかしは、あるじ以外から霊力を頂戴しても効率がすこぶる悪くなる。薬湯をどれだけ摂取しても満たされない状態で、じわじわと霊力が枯渇していくのにどうするのだと、前に聞いたことがある。君に訳を話せと言ったことも」
「……それで、万十郎は?」
掠れた声で問いかける私に、空也先輩は首を振った。
「自分のことで君を煩わせたくないと。君を心配させたくないし、無理強いなどもってのほかだと言っていた。俺が幽世に戻れば無駄に霊力が削られることはないと言えば、側を離れるなど論外だと突っぱねていた。ならどうするのだと聞けば、彼は笑って、ただ一緒にいると。結局、時折ここに訪れては薬湯を摂取して、じわじわといつか訪れる限界を待っていた。……まあ、限界が来る前にこうなってしまったが」
私は言葉もない。
胸のうちからせり上がってくる思いを唇を噛んで堰き止める。
「なんて……」
馬鹿で、頑固で、強がりで。
なんて健気なんだろう。
「万十郎……」
力なく呟いた。
水槽に手を添えるも、私の可愛い亀は僅かたりとも動くことはない。
項垂れた頭上に空也先輩の声が降ってきた。
「だが、ひとつ疑問に思っていた」
「なにをですか……?」
「いくらなんでも突然すぎる。実際はどうあれ、つい先日まで一応元気に過ごしていたんだ。いきなりこうも衰弱するのは異常だ」
私は瞬いた。
確かに。
血の気の引いた顔で疑問符を浮かべる私に、先輩は静かに向いた。
「君と会って理由が分かった」
「私……?」
黒い瞳が、頭のてっぺんから足の先まで観察するように私を見た。
「彼の霊力を感じる」
「万十郎の霊力?」
私は左手の甲を見た。
「この印のことじゃ?」
「印に刻まれた霊力はそれほど大きなものではないし、俺も知っている。それとは別の霊力だ」
「別の……」
私は呟いた。
思い浮かぶのは、何かあった、けれど覚えてないつい先日のこと。
「少しいいか」
断りとともに、空也先輩の手が私に向かって伸びた。
思わず閉ざした瞼の上に、ひんやりとした手のひらが触れる。
――暗い。
夜のよう。
ぼんやり思っていると、ふと柔らかな熱を感じた。
黒一色の中に、一対の金色が浮かぶ。
それが瞳の色だと認識すると、瞬く間にひとの姿が形作られる。
妖しくも美しい人外の彼。
彼はベッドに横になった私を見ていた。
その視線の先には、私が苦悶の表情で体を折り曲げている。
――「怖い」
彼は眉間に皺を寄せて震えていた。
会ってから一度も見たことがない表情だった。
そうだ。
あの夜、私は痛くて苦しくて、でも黙して耐えていると気づかわし気な瞳と出会った。
彼は自分のほうが傷ついたような顔をしていた。
そして、不安で潰されそうな声音で言った。
――「あなたを苦しめる原因を取り除くのも役目。だから――」
「――あ」
私は呟いた。指先が唇に触れる。
――「いただきます」
「万十郎……」
冷たい唇。思考も熱も溶かしていくような柔らかなそれ。
ただの口づけではない。目が覚めたら悶えるほどの痛みが消えていたのだから。
そして、その夜のことを忘れていた。
けれど、それだけじゃない。
朝起きた時、全身が温かく感じていた。お風呂上がりのような心地よい温もり。
「彼が君に霊力を与えて君の不調を治したんだな」
空也先輩の声が聞こえた。手のひらが離れていく。
けれど、私は微動だにすることができなかった。
「ただでさえ目減りする霊力を、君の治癒に使ったんだ。こうなるのも無理はない」
ため息混じりの空也先輩の言葉が通り過ぎる。
私は言葉もない。
万十郎は、飢餓で苦しんでいる状態で、さらに追い打ちをかけた。
輸血が必要な人が献血をするようなものだ。
決めて実行したのは万十郎だ。
けれど、原因は私にある。
「万十郎……」
何度目か分からない名を呟くも、小さな亀は微動だにしない。
私は唇を噛んだ。
「空也先輩。どうすれば万十郎は元に戻るんですか」
「飢餓状態を回復するのは勿論だが、今はまず傷ついた核を修復しないといけない」
「核? それに、傷ついたって――」
「彼の背中には古い傷跡がある。治癒力の高い亀のあやかしでも残る傷なら、核まで達していても不思議ではない。……核とは人間にとって心臓にあたる部位だ」
「心臓――」
私は目を見開いた。
古い傷跡とは、十年前にはあった甲羅の傷だろう。
まさか、心臓まで達するほど深い傷だったなんて。
人間であれば集中治療室行きだ。
そんな重傷で十年過ごし、今また私の側で笑っていてくれたのか。
「割れたコップに水を注いでも零れるように、傷ついた核に霊力を注いでも吸収されなることなくその身から零れ落ちる。だから核を修復する。そのために、印の主である君が必要だ」
「私?」
「意識が沈んでいる状態ではこれ以上の治療はできない。しかし、他人が呼び掛けても起きることはないだろう。極論、物理的衝撃を加えてもだ。だが、君は印を通じて彼と繋がっている。だから、印を通じて彼を起こしてほしい」
「印を通じてって、どうやって」
「印に意識を集中して、彼を呼び掛けるんだ」
「呼び掛ける……」
印は深いところで繋がっていると、万十郎も言っていた。
最初はそれが怖くて、得体が知れず不気味で、目にしたくもなかった。
今は彼と繋がる唯一のしるし。
私は唇を引き結んだ。震える声で問う。
「やります」
「あやかしの意識下の闇は深い。混沌ともいえる。引きずられたら、もろとも意識は闇に沈むぞ。それでもできるか」
優しい空也先輩には慣れないだろうに、真剣な面持ちで脅す様子に微笑んだ。
「大丈夫です。――絶対に」
祖母を亡くしてから忌避していた言葉が、自然と口をついて出る。
彼は双子の姉のように厳しい表情で私を見るも、ふと視線をやわらげた。
「分かった。俺が側で支えているから、引き込まれそうになる前に戻ってこい」
「はい。ありがとうございます」
私は目を細めた。
こんなに饒舌な先輩は初めて見た。それだけ、彼も心配してくれているんだろう。
ふと先輩が遠くに投げかけるように呟いた。
「古瀬と相対した時のことを覚えているか」
「古瀬? もちろんです」
小町先輩の因縁の相手。狂気に走った瞳でナイフを向けられたことは忘れることはできない。
けど、どうして突然古瀬の名がでるのだろう。
「幽世のあやかしは、あるじに危害を加えるものには容赦しない。現に彼は、君にナイフを向けた古瀬に対する殺意を隠すこともしなかった。しかし、結局危害を加えることはなかった。たとえ俺や小町が止めても、簡単に排除できたはずで、現世のしがらみとは無縁の彼には、それだけの力も理由もあるはずなのに」
「それは、私が人間社会で暮らすなら、それに適応しないといけないといったからです」
人に迷惑をかけない。傷つけない。法律にまで及んだら難しくなるけど、子供でも知っている当たり前のルールは守るべきで。
空也先輩の言葉の真意が掴めず眉を寄せると、彼は淡々と告げた。
「彼を傷つけたのは、その当たり前のルールが通じない幽世のあやかしだ」
私は目を見開いた。
「亀のあやかしは守りが堅く、たとえ飢餓状態であろうと、滅多なことでは負傷しない。それが、昨夜俺が場に入った時には、前後不覚になるほど追い詰められていた。どれほど攻撃を食らおうと、決して反撃することはなかった」
昨夜、私は苦い過去のことを話し、子供みたいに泣き、眠った。
そのあと……私が眠りについたあと、彼は誰かに襲われたというのか。
ひとを傷つけない。他人に迷惑をかけない。
当たり前のルールを守って、そして――。
蒼白になった私に、空也先輩は優しく目を細めた。
「君の言葉は、存在は、それだけ価値のあるものだ。右にも左にも極端に振り切れるあやかしの手綱を引けるのは君しかいない」
どこまでも率直で、素直で、純粋で。
私は涙声で言った。
「ほんとうにばかですね。……帰ったら叱らないと」
ごめんと、そしてありがとうと。
――万十郎。
胸に愛しさがつのる。
私はそっと左手の甲を右手のひらで包み込むと目を閉じた。
☆ ☆ ☆
お腹がすいてたまらない。
隣には芳醇な香りを漂わせる果実が。
――けれど。
駄目だ。
食べてはいけない。喰らってはいけない――。
5章終了です。お付き合いくださりありがとうございました。




