生物学上は女性です
「見送りしないでいいのに」
「いえ。このくらいは」
体調不良というのに、玄関口まで見送ってくれる万十郎に私は戸惑った。
ランチバッグを渡され、わざわざ昼食まで用意してくれたのかと思うと申し訳ない気分になる。
「もう家事はいいから、万十郎は自分の体調を一番に考えること。私も自分のことくらい自分でするよ」
「ですが、これから掃除と洗濯をしなければ」
「毎日丁寧に掃除してくれたおかげで気になる汚れもないし、一日の洗濯物もそこまで多くない。無理に毎日しなくていいよ」
「それでは衛生面が気になります」
「……帰ったら私がするから」
「そうですか? けれど、食事は出来合いでは栄養面が心配です」
「……万十郎のご飯食べ続けて、いまさらスーパーやコンビニの惣菜に戻れないよ」
「なにも食べないと? それでは餓死してしまいます」
「……私が作るという選択肢はないの?」
「え? 作れるのですか」
「……多分」
「やっぱり、料理だけは譲れません。台所は僕の仕事場です」
「……無理しない程度でお願い」
「ね。夫婦みたいでしょ」
「――ん」
「え」
隣のドアから美男美女が身を乗り出していた。
物知り顔の小町先輩と、無表情ながら興味ありといった雰囲気を見せている空也先輩だ。
「おはよう。ちとせに市河君」
「おはようございます。――ではなく、お二人とも、いつからいたんですか!?」
「ええと、ランチバッグを渡すあたり?」
「ほぼ最初からじゃないですか!」
私は顔から火が出そうになった。
先日のごたごたは遥か過去のことといわんばかりに、素晴らしくいい笑顔を浮かべる小町先輩。
お元気なようでなりよりです。
「……朝っぱらから、お二人とも暇なのですか」
「もちろん、暇じゃないわ。勉強はともかく、内心どうでもいい学友と交友を深めないといけないし」
「……心の声が漏れてます」
「漏れてるのじゃなくて、わざと言ってるの」
「……はあ。そうですか」
朝からテンション高めの小町先輩にかなうはずもなく。
私は早々に会話の応酬に不参加を決めた。
「それじゃ、行ってきます」
「あら、もう行くの?」
「すでに時間ぎりぎりです」
「気を付けて。不審者が現れたら速やかに大声をあげて退避ですよ」
「そうよ。道中くれぐれも気を付けて」
「どこの犯罪国家ですか」
苦笑するも、空也先輩の無言の圧力。
「……わかりました。絶対ということはないですからね」
毎日当たり前のように物騒なニュースが流れていたけど、どれも他人事だと思っていた。
けれど、あわや犯罪に巻き込まれそうになったことで、そうでもないと考え直した。
ソフトターゲットという言葉も出てくる時代、いつ被害者になるか分からないのだ。多少の防犯意識は身につけた。
けれど。
ため息をつきながらも苦笑する。
「さすが姉弟ですね。心配性なところはよく似ています」
目を引く外見はもとより、最近は内面も似ていると感じるようになった。
空也先輩とは、最初は目が合うだけで委縮したのに、今は二人きりでも緊張しない。
――むしろ、万十郎といるほうが緊張するかも。
突然早くなった鼓動を持て余していると、小町先輩の笑い声が響いた。
「それはもちろん、双子だもの。どこもかしこもそっくりよ」
「……そこまでとはいいませんが」
相変わらず、弟が大好きなお姉さんだ。
私は一人っ子のなのでよく分からないが、微笑ましい。
「双子?」
隣で万十郎が呟いた。
どこか唖然とした表情だ。
「お二人は双子なんですか」
「そうだけど。言ってなかった?」
「……はい」
当たり前のことだったので、万十郎も知っているとばかり思いこんでいた。
置いてけぼりにして申し訳ない。
けれど、姉弟なのは知っているはずだし、双子というだけで、そんなに驚くようなことだろうか。
何やらカルチャーショックを受けたような表情だが、どこか遠くをみるように小さく笑んだ。
「平和ですね」
呟いた次の瞬間には、いつもの穏やかな顔。
「ちとせさん。そろそろ行かなくていいのですか」
「――あっ」
思った以上に時間を潰してしまった。
私は慌てて荷物を抱え直す。
「じゃあ、行ってきます。……万十郎は無理せず休んでてよ」
「はい」
私たちの会話に先輩たちが目くばせした。
彼らに会釈して歩くと、ほどなく小町先輩の聞こえた。
「行っちゃった。――どうしたの? 市河君、調子悪いの?」
「大したことありません。それより、望月さん。今度、時間があるとき、僕にお付き合いください」
「あら。デートのお誘い?」
一瞬歩みが止まったが、続く言葉を振り切るように駆け足になった。
アパートが目に見えない位置になってやっと、歩くスピードを遅くした。
そのまま、今にも立ち止まりそうになる。
「急がないと遅刻する」
呟いて歩を進める。
知らず、ランチバッグの持ち手を強く握り締めた。
幸いにも不審者が現れることはなかった。
講義室に入ると、見知った顔があった。
彼女も私に気付いて手を振った。
「おはよ、ちとせ。ぎりぎりだよ」
「おはよう。朋子」
隣に座ると、朋子は私の顔をのぞきこんだ。
「もしかしてこないかと思ったよ。……大丈夫?」
昨日の今日だからか、察しがいい。
同姓として心配してくれる友人に表情を和らげる。
「きつくても、薬飲んで根性で行くよ。……まあ、少しだるいけど、痛みはほとんどないから。むしろ、昨日までのほうがつらかったかも」
「そっか。確かに、今日のほうが顔色はいいかな。私も本番よりPMSのほうがひどいときあるからなあ」
室内には男子学生もいるので、控えめに話す。
しばらくすると先生がやってきたので、お喋りを中断して意識を切り替える。
幸いにも症状は軽くて済んだのだから、存分に学生の本分を全うしよう。
――そう思ったのに。
先生の話を聞いてても、参考書に手を伸ばしても、あやかしの青年が脳裏にちらつく。
いつもと同じ穏やかな表情。いつもと違うひとりの食卓。みえない距離感。
笑っていたけど、どこか上の空だった。顔色も悪かった。
大丈夫だろうか。あやかしに適応する病院はないのだから、病気や怪我をしても自力でどうにかするしかない。
私は俯いた。
――それって、島と似ている。
故郷の水杜島。医療機関がなく、病に倒れても負傷しても、簡素な応急手当や置き薬でしのぐしかない。
陸の病院に運ぶまで、本人の体力や自己治癒力がものを言う。
そして、災害などで陸に運べないとあとはもう祈るしかない。
結局は神頼み。
あやかしの体調不良も同じだ。
周囲は、ただ不安に流されないよう祈るだけ。
心配しても、本人がなんてことないふうに装うと、それ以上何も言えない。
私は唇を噛んだ。万十郎が私の前に現れる経緯を思い出す。
――私は、今まで周囲にこのような心配をかけていたのか。
元気でいて欲しい。笑っていて欲しい。
けれど、辛いなら言ってほしい。
そんな、強がりはいらないから。
結局、碌に集中できずに講義は終わった。
復習時間を多めに取らないと。
私は息をつくと、朋子がためらいがちに視線を送った。
「大丈夫? やっぱりつらいんじゃ」
「ううん。ちょっと考えごとしてた」
朋子は目を見開いた。
「講義そっちのけで考えごとなんて、珍しいね」
「うん。……ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」
「どの科目? 私はそう成績がいいわけじゃないから答えられないかもしれないけど」
「いや、勉強のことじゃなくて……」
今度はのけぞった。
「勉強のことじゃないの?」
「……なに? 後ずさったうえ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」
「いや、だって。勉強の鬼のちとせが、別の悩みを持ってるとか信じられなくて」
私に対する朋子の評価が良く分かった一言だった。
憮然とした表情で友人を見つめると、苦笑いされた。
「ごめん。それで、なに?」
「――うん。なんて話せばいいのか……」
逡巡して口を開いた。
「ふた月くらい前かな。故郷の島から知人が訪ねてきてね。ちょっと訳アリで今は一緒に暮らしてるの」
「へえ……」
すでに突っ込む要素はあるだろうが、相づちを打つにとどまる朋子。
私は続ける。
「そのひと、家事が得意だから、泊めてあげる代わりに食事やら洗濯やら家事全般をお任せしてるんだけど」
「そういえば、今までのちとせのみるからに不健康が、最近になって改善されてるのはそのため?」
「え?」
「だって、以前のちとせは、頬はこけて目はくぼんでクマが常駐、ニキビもよく見かけるし、不健康を体現しているようだったもん。夜中、知らない人が見たら、ちょっとしたホラーだよ」
朋子の言葉に私は突っ伏した。
悪意はなくありのままを言っているからこそ、怒る気にもならない。
事実、その通りだし。
「……うん。そのひとが来てから、毎日の食事も手作りで栄養バランスがいいし、規則正しい生活を送るようになった」
「そっか。今は肌ツヤもいいし、クマもあまり目立たない。ニキビもないよね。どうかしたのかなと思ったけど、良かったじゃん」
突然の変化に気にはなってたんだろうけど、こちらから言わない限り、朋子は聞いてはこない。
ともに田舎出身で、私はアパートで下宿、朋子は親戚の家にやっかいになっいる。お互い、知っているのはそのくらい。
勉強やなんてことない世間話はするが、プライベートに関しては、お互い深くは聞くことはせず、話したくなったら聞くよといった感じだ。
そういう関係だからこそ、付き合いやすいのかもしれない。
「それで、聞きたいことってなに?」
「うん。そのひと、最近よそよそしくて以前と同じ様子でもどこか距離を感じて……」
「うん」
「そして、今日はなんだか体調が悪そうで気になって」
「……は?」
「わけあって病院に行けないし、こっちは心配するしかないんだけど、それすら暖簾に腕押しで」
「…………」
ぽつぽつと零す。
隣は沈黙だ。
「とにかく心配なの」
「あんたがそれを言う!?」
言い切った瞬間、怒鳴られた。
「青い顔して痩せ細って、それでも気にした様子もなく過ごしていて、周囲をヤキモキさせたちとせがそれを言う?」
「その節は本当にすいませんでした」
平謝りだ。大家さんに先輩たち、それから両親。私は、多くの人に知らず心配をかけてきた。
それは、隣で肩を怒らせる友人も。
お互い不干渉でも、健康のことは気になる。
考えてみれば当たり前だ。
「そのひとが来てくれて私は自分のことが客観的に見えるようになった。健康は大事だと分かっていたはずなのに、どこかで私は大丈夫と思っていた。……反省してる」
「わかればよろしい。……それで、心配事はその同居人のこと?」
「うん。体調不良はもちろん、なんで他人行儀になったのか、気になりだしたらたまらなくなって。そのひとが普段なにをしているのか知らないし……。私がアパートにいるときは同じように部屋にいるんだけど、日中はどうしているのかなとか思ったり」
私は万十郎のことを何も知らない。
保護者のお墨付きはあったし、ずっとそれでいいと思っていた。
勉強の邪魔にならなければいいと。
有り体に言えば、どうでもいいと思っていた。
「だから、そのひとが何を考えているのか気になって」
「……それで、勉強に身が入らなかったの?」
「……わからない」
分からないから、悩んでいるのだ。
朋子は困ったように言った。
「そのひとにもそのひとの思うところがあるのだろうから、いちいち言わないだけじゃないの。子供じゃないんだし、過干渉が過ぎるのはよくないよ」
「……それはそうだけど」
何を考えているのか知りたいと思うのは変なのだろうか。
……確かに、これまでの私からは考えられない。
勉強一筋だったのに。
「ちとせなら、勉強に差し障るくらいなら、その人を追い出しそうだけど……。彼女も、理由なしにわざわざ故郷の島から来たわけじゃないんでしょ」
「……彼女?」
「……え? 違うの?」
お互い、瞬きを忘れて互いを凝視した。
「もしかして、男のひと?」
「そうだけど……」
人間じゃないけど、今はその点は関係ないだろう。
朋子はどこか戸惑ったように言った。
「いや、一緒に住んでるからてっきり女性かと」
「――確かに、そう思うのが自然なのかな」
「自然というか、考えもつかなかったというか。……けど、そうかあ」
得心がいったという表情の朋子に、私は首をかしげる。
「その彼が日中なにをしているのか気になって、勉強も手につかないんだね」
「いや、そこまでじゃないけど……」
「けど、講義に身が入ってなかったでしょ」
「それは……」
講義中であろうと、ふとした拍子で浮かぶ顔。
穏やかな表情。翳りのある瞳。
視えないガラス。見える印。
登校間際の万十郎と小町先輩の会話。
魅惑的な笑みを浮かべる美しい先輩。
――デートのお誘い?
朋子はじみじみといった風に告げた。
「驚いたというか、安心したというか。ちとせもやっぱり女の子なんだねえ」
「そりゃ、男か女かといわれたら、生物学上は後者になるよ」
私の言葉に、朋子も机に突っ伏した。
PMS=月経前症候群
生理前におこるイライラや腹痛など、身体的・精神的に不快な症状のことです。




