視えないガラス
「なんだか週明けくらいからぼんやりしてるけどどうかしたの?」
「――そう?」
「そう。さっきの講義も身に入ってなかったでしょ」
よく気が付く友人だ。
確かに、週末に公園で老婦人と孫娘に会ってから、ふとした拍子にどこか考え込む自分がいる。彼女たちと私と万十郎との掛け合いが、脳内で再生される。
「また望月先輩となにかあったの? 姉弟先輩ふたりともどこか雰囲気が変わったって噂だけど」
「ないよ」
私は首を振った。事件のことは朋子には伏せている。
空也先輩が新たな隣人となったけど、特に何か変わったというわけでもなく、多少にぎやかになったくらいだ。
裏でどんな情報操作があったのか、突然の引っ越しにも関わらず学友が騒ぎ立てることなく、同じアパートの下宿人も近隣住民もごく自然に新たな下宿人を受け入れた。ちなみに、以前暮らしていたマンションは引き払わずそのままというのだからお金持ちはすごい。
小町先輩は校内では変わらず周囲と一線を引いた孤高の華だが、どこか吹っ切れたのか、時折作り物ではない自然な表情を見せた。それがまた周囲の目を引いて、高嶺の花だけどどこか親近感がわくだの守りたいだの、新たな人物像が作られつつあった。
空也先輩の無口無表情は変わらないが、少し雰囲気が柔らかくなった気がする。とはいえ、アニキと呼ばれそうな硬派な印象は変わらない。
ちなみに、小町先輩は休肝日を作ったが、飲酒総量は変わらないと弟先輩から苦言を受けたので、さっそく忠告しておいた。結果、告げ口しただの事実を言ったまでだだの何やらもめごとが起こったが、まあご自由にどうぞと放置した。夫婦喧嘩だけでなく、姉弟喧嘩も犬も食わぬ。
暴走しがちな小町先輩とストッパーの空也先輩はまさに対で、一緒にいるのは理にかなったことだと思う。
ただ、小町先輩が引っ越していたら万十郎と別室になったと思うと何やら胸の内がもやもやする。
残念なようであり、安堵しているようでもあり。自分の考えがまとまらない。
そして、今はもっと物理的に危惧していることがあった。
「そっか。けど、顔色も悪いし。大丈夫?」
「うん……。そろそろかなって」
朋子に心配げな顔をされ、私は曖昧に頷いた。
体調は良くないが病気ではない。
女性には避けて通れぬものだ。
下腹部をさする私に、朋子は察したように身を寄せてささやく。
「温かくして鉄分摂って、辛い時は薬に頼ることもありだよ」
「わかってる」
朝晩の冷えが強くなってきたので、見た目度外視の重装備だ。
毎日の食事のバランスもいい。
けれど、どうしようもないことがある。
今晩あたり来そうだと身体が訴えている。
私は周期が遅れがちで、痛みはあったりなかったりする。気にならないときは普段通り過ごせるが、酷い時は身体を折り曲げるほど痛む。そして、残念ながら今回は後者になりそうだった。
いくら個人差があるとはいえ、これでは生活に支障をきたすと婦人科にかかったこともあるが、特に異常はなく、やはり体質という結果だった。
女性の身体は繊細で、ホルモンバランスやストレスで簡単に体調をくずしてしまう。私は、それが顕著なのだろうと説明を受けた。
さらに残念ながら薬の効きも悪い。
ゆううつなため息をつく。
「男には分からない悩みだね」
「だね……。今日はもう帰るね」
講義は終わったし、図書館による気力もない。
こういう時は、無理をしないのが一番だ。
「アパートまで送っていこうか」
「朋子はそろそろバスの時間でしょ」
親戚の家に下宿している朋子は、電車とバスを乗り継いで通学に一時間ほどかけている。おまけに、便数も少なく乗り遅れたらかなりの時間待たされる。
まつたけ荘まで徒歩十分の私に付き合ってもらうのはあまりにも申し訳ないので丁重にお断りした。
「もう少し頼ってくれていいんだけど」
「充分良くしてくれてるよ」
「ちとせはもっと欲張って良いと思うんだけどね」
これ以上なにを欲張れと。
困惑していると、肩をすくめて朋子はバスに乗った。
まだ空は明るいが、暮れるのは早い。茜色に染まる前に帰路についた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつもの会話を交わし、手洗いうがいをする。
部屋着に着替えると生あくびが出た。
「お疲れですか」
「うん。まあ」
嘘ではない。
眠くて気分がすぐれないのは月経前症候群の症例でもある。
「悪いけど、ホットミルクお願いできる?」
「わかりました」
キッチンに戻る万十郎を見て息を吐いた。
ほら、やっぱり頼ってる。
ほどなく、湯気立つカップを手に戻ってきた。
「蜂蜜を少し入れました」
「ありがとう」
僅かに触れた手と手に、思った以上に冷えていたことに気付いた。
カップを持ち、湯気を吹いて、ひとくち含む。温かさと優しい甘みが染み込むようだ。
「冷えは大敵ですよ」
「うん」
頷いて、少し笑った。
「亀って変温動物なのに、人間の私のほうが冷たいなんてね」
やっぱりあやかしってわけが分からない。
子供をあやすように万十郎が言った。
「飲んだら休んでください。夕飯が出来たらおこしますから」
「うん。ありがと」
本当に子供で、頼ってる。
何も聞かずにそっとしてくれるのはありがたい。けれど、なぜか寂しくもあった。
ベッドに丸まる。寂しい気持ちになるのも症例にあったっけ。
ぼんやり思っていると、徐々に意識が沈んでいった。
庭先を掃いていた老婦人はこちらに向かってくる人影に箒をもつ手を止めた。
五歳ほどの女の子が肩を落として歩いている。
服はところどころ汚れ、髪にも砂が混じっていた。
「おかえりなさい。どうしたの? 可愛い顔が台無しよ」
「おばあちゃん……」
優しく訊ねる老婦人に幼子は目に大粒の涙を浮かべた。
そうして下を向く子供の視線をたどると、ひざに擦り傷ができていた。
「あらあら。きれいにしないと。他に痛いところはある?」
首を振る子供に老婦人は安堵まじりに微笑み、家の裏手に連れ立った。
蛇口をひねり、水で汚れを洗い流す。
傷にしみるのか子供は顔をしかめて今にも泣きだしそうだ。
「いたいのいたいのとんでいけー」
「……とんでいけー」
嗚咽まじりに反芻する幼子に老婦人は微笑む。
擦り傷から砂汚れが落ちたのを確認すると水をとめ、清潔なタオルで拭く。
「さて、あとは着替えて、頭も洗いましょう」
それから、こざっぱりした格好になり気分も多少上昇したのか、子供の表情も若干穏やかなものになった。小さな手で温めた牛乳を飲んでいると、玄関先からにぎやかな声が聞こえてきた。
「ただいまー。みんなして、やれ腰が痛いだの肩が痛いだの、二足歩行の宿命を愚痴られてもねえ」
「ママ」
「あら、着替えてどうしたの。髪も湿っているし」
朝と違う服装に母親は首をかしげた。
「ころんだ」
「お転婆さんねえ。――母さんがみてくれたの?」
「傷口を洗って、汚れてたから頭もついでにね」
「ありがとね。ちとせも、治る怪我ならどんどんしなさい」
「痛いのや」
ほほを膨らませる子供に、母親は真剣な表情で言い聞かせる。
「嫌だから次からは気を付けるようになるのよ。この島はお医者様がいないから、ちとせも痛いとかつらいとかあったらすぐに言いなさい」
「うん」
「それで、あなたは二足歩行の愚痴を聞きに行ったの?」
祖母の言葉に母親は肩をすくめた。
「一応元看護師だからね。腰痛も肩こりも怖い病気が隠れてることがあるけど、皆さん農作業と年齢ゆえの悩みでした。持病持ちは定期的に陸の病院にかかってるし、特に異常なしね」
「それはようございました。うちも置き薬をそろそろ新調したほうがいいかしらね」
「そうね。今度陸にいくとき買ってくるわ」
医師がおらず、病院も診療所もない水杜島は、基本怪我や病気は家庭の置き薬で対処するか、自然治癒力にまかせる。
持病持ちは船に一時間ほど揺られて陸の病院に通う。
不便といえば不便だが、それが当たり前のことだと受け入れられてきた。
――数年後、嵐の夜が訪れるまでは。
「……寝てた?」
また夢を見た。最近昔の夢をみることが多い。ホームシックになるには時期的に遅いはずなのに。
じっとりと寝汗をかいて気持ち悪い。
額をぬぐおうと腕をあげたとき、万十郎がこちらをうかがう気配がした。
「夕飯が出来ましたが、食べられそうですか?」
「うん」
私は身体を起こした。夢の余韻かまだ少しぼんやりしている。
「なんだかうなされていました。起こそうか迷ったんですが」
「そっか。別に嫌な夢じゃなかったから大丈夫だよ」
ただ、懐かしい夢。
意識を切り替え、手洗いに行く。
食欲はあまりないが、食べられるときに食べておかないと。それに、せっかく作ってくれたのだから。
「万十郎は今日も食べないの?」
キッチンににひとつしか用意されてない食器類を見て聞いた。
「はい」
最近一緒に食事をする機会が減った。
人間の食事はあやかしの栄養にはならないから平気なんだろうけど、このところの変化になんとなく気になる。
穏やかな態度で優しく接してくれるのは変わらないが、視線を合わせようとすると微妙にそらされ、会話も上滑りしている感じがする。
「明日からは消化がよくて鉄分の多い料理をお願い。……あまり食べられそうにないから」
万十郎は僅かに驚いた表情で、口を開きかけたが、結局何も言わずうなずいた。
近いけど遠い、視えないガラスが存在しているようだった。




