酒は飲んでも呑まれるな
結局、万十郎が洗い物をしているうちに、私は小町先輩に事の次第を電話で告げて、ひとりで大丈夫だからと伝えた。どこか拗ねた口調ながらも、受話器越しに「わかったわ」と返答され、ひとまず安堵して電話を切った。
そして、登校時。私はいつものように玄関先まで見送る万十郎を振り返って言った。
「わざわざ見送らなくていいよ」
「僕が好きでやっているので」
「はあ……」
そして、ランチバッグを受け取るまでが一連の流れだ。
しかし、今日は変化があった。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「……まどろっこしい」
第三者の声が滑り込んだと思ったら、隣の部屋の扉から小町先輩が出てきた。
朝から麗しい先輩は、ご機嫌斜めのようで柳眉をひそめている。
「毎日毎日、飽きもせず、まるで新婚さんね」
「え?」
「仲が良いのはいいことだけど、進展がなさすぎて私はそろそろ飽きたわ」
「へ?」
「そろそろ行ってきますのキスくらいすればいいのに」
「はあああ?」
不機嫌顔から一転、小町先輩は玩具を見つけたようにからかい顔になった。
「何を言っているんですか。私と万十郎はそんな関係じゃ……」
「知らないひとから見れば新婚夫婦よ」
「えええ……」
私は赤くなって金魚のように口ぱくぱくさせる。
毎日って言った。つまり、この恥ずかしいやりとりが毎日見られていたというのか。
釈明を。どうにか納得できる言葉を紡がなければ。
赤面のまま脳内フル回転させる私を差し置いて、万十郎はにっこり笑って小町先輩に挨拶した。
「おはようございます。望月さん」
「市河君もね。毎日ひよこちゃんのお世話お疲れ様」
思考が停止した。
ひよこ……。私はひよこ……。
「ちとせ? どうしたの」
「いえ。なんでも……」
ふらりと彷徨った視線の先の光景を見て、私は目を見開いた。
目に見えるものが何であるかを認識すると、その場まで歩いてひとつ手に取り、ゆらりと振り返って先輩の名を呼んだ。
「小町先輩……?」
「なに?」
「これは何ですか?」
「お酒の瓶ね」
この下宿先のアパートまつたけ荘に越してきた春先。今後、少なからず顔を合わせることになるであろう隣人に、形ばかりでもと挨拶に訪れた時、驚いたことが二つあった。
ひとつは件の女性の目を瞠る美しさ。なぜ安アパートにいるのかというくらい気品を兼ね備え、手土産を渡すことさえ忘れ思わず見惚れた。
そしてもうひとつ。その眉目秀麗な女性の部屋の有様。玄関口で少し目にしただけだけど、その範囲だけでも数えきれないほどの酒瓶が転がっていた。
その時、女性に見惚れたことなど吹き飛んで、アルコール依存症を危惧し詰め寄った。
のらりくらりとかわされ、それから部屋に訪れる機会もなく、いつの間にか忘れていた。
「飲み過ぎです!!」
そして今。久々に見る開け放たれた隣の部屋。その扉の向こうには空の酒瓶の数々があった。
有名メーカーから聞いたことのないブランドまで、数えたらきりがないほどの瓶やらボトルやらカップやら。
当時と全く変わらない様相に眩暈がした。
「淑女の部屋の中を覗くなんてマナーが悪いわ」
「それについては謝ります。それで、これはどういう状況ですか」
「お酒はお水と一緒だもの。それに、きちんとゴミ出しはしてるわよ? ただ、収集する頻度が低いのよね」
「瓶は月に一度。缶は隔週です。そこまで低いとは思いません。それに、アルコールは利尿効果があるので、水分を摂ったと言えません。……まさか一人で飲んだんじゃないですよね」
目に見える玄関先だけで山とあるのだ。部屋の奥はどうなっているか容易に想像できる。一人で飲むのに明らかに多すぎる。
真剣な顔で問い詰める私に、小町先輩はにこりと笑う。
「もちろん一人よ」
「病院に行って検査を! 肝臓にすい臓、あと循環器系も。いや、もう、全身診られる人間ドッグを」
「落ち着いて」
「だって、どう見ても飲みすぎです。いくらお酒に強いといっても限度があります。部屋の奥はどうなってるんです? いえ、言わなくていいです。アルコール外来行きましょう!」
「いやよ。病院嫌い」
医科大学と病院を経営する望月一族の娘が何をいっているのか。
いつかは空也先輩とふたり病院を継ぐとも噂されている。
「小町先輩~!?」
「市河君。ちさせが怖い」
「真面目なひとですから」
「そこ、のほほんと会話してない!」
「だってちとせは未成年でしょ? さすがに誘えないじゃない」
「当たり前です」
「市河君は成人してる? なら、今度一緒に飲まない? ちとせのあられもない姿を肴にして」
「ああ、それは楽しそうですね」
遊ばれてる。見た目美麗で中身残念な先輩と亀のあやかし職は家政夫の青年に遊ばれている。
いや、万十郎は真面目に答えている気がするので、むしろ質が悪い。
万十郎の肩にほっそりとした手が伸びた。
小町先輩の、誰もが見惚れる極上の微笑み。ちくんと針を刺したように胸が傷んだ。
「けど、すいません。僕はちとせさんのものなので」
あっという間に、痛みは羞恥に取って代わった。
私は小町先輩から万十郎を引き剝がすと、彼を自室へと追いやった。
これ以上は混沌だ。
「あら?」
「行きましょう! 学校! 行くんですよね?」
「ええ。けど、成人したら飲みましょうね」
「お断りします」
涼しい顔で何本も酒瓶開けそうな先輩には付き合えない。
けど。
「……本当に、一度検査したほうがいいですよ」
適度な飲酒は良くても、過度の飲酒は身体の害になる。
先輩は後者だ。成人したばかりの彼女はアルコールに対する免疫は軽視すべきではない。
なのに、小町先輩はふわりと笑った。
「ありがとう。けど、飲んでも吞まれないから大丈夫よ」
まったくもって答えになってない。
今度、空也先輩に相談するしかなさそうだ。
☆ ☆ ☆
大学に続く並木道。一時限目の講義に向かう人達だろう。学生が目立つ。
性別関係なく、すれ違うひとの多くがこちらを振り向き、中には立ち止まるひともいる。
視線の先は優美なる先輩だ。しかし、彼女は気にした様子もなく、悠然と歩く。気品あるその姿が目を引き、余計注目を集める。
「なんで離れて歩こうとしてるの」
「お構いなく。私はただの通行人Aとでも思ってください」
「なに? さっきまで休肝日を設けろと口うるさく言ってたのに。いいからこっち」
「――あ」
ぐいと腕を引っ張られ、舞台にあがるかのごとく衆目を浴びた。
いきなり現れた平凡女子に、誰だこいつと好奇の視線を感じる。
私は内心大いにためいきをつきながら横に並んだ。
校内でも先輩とともにいるとよく感じる視線だし、だからといって実害はない。大学生ともなれば、良識をわきまえて安易に絡んだりしない。先日の図書室の件も、女子学生は私に聞こえない程度の声量で嫌味を言ったまでだ。ただ、私の耳が良くて声を拾ってしまった。それだけ。
そういえば、今朝の男も望月医科大学の学生だろうか。近辺に他に大学はないし、社会人にも見えなかった。朝帰りの酔っ払いだなんて嘆かわしい。
そんなことをつらつら思っていると、隣でぽつりと呟かれた。
「なんだか迷惑かけちゃったみたいね」
「そう思うなら休肝日を設けてください。ついでに少し離れてくれると嬉しいです」
「そうじゃなくって、今朝変な男に絡まれたって聞いて」
「ああ……」
今まさに考えていたことだったので、反応に遅れた。
ついでに、小町先輩は付け足すように、毎日が休肝日よと続けられた。断固意義申し上げる。
そんな私の視線を華麗にスルーして、小町先輩は腕を組んで眉を寄せる。
「私に用があるなら直接くればいいのに。どうしてちとせに絡むのかしら」
「偶然ですよ……」
散歩に出かけたら、たまたま酔っ払いに絡まれた。
「お酒は飲んでも呑まれたら駄目なのよ。そいつは酒飲みの資格はないわ」
力説された。まったくもってその通りなのだが、隣室の魔境を思い出し反応に困る。
「それより、朝電話したとき、わかったと言ってましたよね」
「強行に出ないと一緒に登校してくれないとわかったわ」
「それ、いちゃもん……」
口では勝てそうにない。
仕方なく歩幅を合わせると、小町先輩は勝ったとでもいいたげな笑みを見せた。
「大家さんが追い払ってくれたから、もう大丈夫だと思いますよ」
「聞いたわ。見事な撃退ぶりだったみたいね。か弱い婦女子に絡むだなんて、風邪でもひいて寝込むといいわ」
私は苦笑いで返答とした。
そして、ふと考え込む。
「……どうして、そこまで怒ってくれるんですか」
「え?」
「散歩に出かけたのは私の責任だし、絡まれたのも偶然です。無事だったのに、どうしてそこまで怒ってくれるんですか」
小町先輩は少し沈黙した。
再び口を開いたときは、先ほどの軽い雰囲気が消え去っていた。
知らず、周囲との距離が広がる。
「私はね、まつたけ荘が気に入っているの。数歩歩けば壁に当たる狭い部屋だけど、息苦しい本家よりも、静かで無機質な広いマンションの一室よりもずっと居心地がいい。そして、そこに住むひとも。飲んだくれな私を見ても幻滅せず、むしろ身体の心配をしてくれる」
「小町先輩……」
今、目の前で物静かに微笑む姿は、可憐で美しく他人を寄せ付けない、まさに孤高の華だ。
そんな、神秘的な雰囲気の望月小町がとんでもない酒豪だと知ると、信奉者はどう思うか。
「まつたけ荘の住民は変わり者が多いけど、みんなそのままの私を見てくれる。それがどんなに嬉しいことか分かる?」
微笑む先輩に私は目を細める。朝の光が眩しい。
静かに、だからこそ感じ入ったように言葉にする彼女を思う。
一度目を伏せ、私ははっきり言った。
「なら、アルコール外来に行ってください」
一瞬の沈黙。小町先輩は目を見開いたと思ったら、堪えられないと言った感じで笑い出した。
私は至極真面目に言ったつもりなのに、どこに笑う要素があるのだろう。
先輩は眼尻をこすりながら言った。
「はは……。ちとせってほんと面白い」
「いえ、特に普通です」
平凡な一市民だ。
どこか張り詰めた空気はすっかり消え去り、朝の空に先輩の高らかな笑い声が響き渡った。
ふと、周囲がざわつく。
何事かと振り返ると、後方の高層マンションから人影が現れた。
黒いジャケットにダメージジーンズ、ゴテゴテしたアクセサリーを身にまとった一見軽薄そうな人物。しかし、乱雑にはねた髪から覗くのは静かな瞳。
小町先輩の双子の弟の空也先輩だ。
「空也、おはよう」
「はよ……」
空也先輩はこちらに近づくと、私を見た。
思わずぺこりと頭を下げる。
「おはようございます。空也先輩」
黒い瞳がわずかに見開かれた気がする。
首を傾げると、わずかに口角が上がった。
「……ん。はよ」
なんだかご機嫌がいいらしい。それは結構なことだが、私は内心相当な冷や汗をかいた。
……目立っている。恐ろしく目立っている。
小町先輩ひとりいるだけで目を引くのだ。双子揃えば二倍ではなく二乗だ。
なのに、慣れているのだろう、二人とも我関せずといった様子だ。
肌荒れが改善されても顔面偏差値が平均値ぎりぎりの私は、天井越えの二人に囲まれて居心地が悪くて仕方ない。
「あの、先に行きます。失礼します」
言うなり、私は足早に立ち去った。
逃亡といってもいい。
平凡な一庶民は名もなき通行人Aでいいのだ。




