彼の名前は市河万十郎
昨日一日ですっかり見慣れた万十郎は、今は洋服を着ていて、こちらは初めて見る姿に新鮮味を感じた。
「おかえりなさい」
彼は私に告げた後、小町先輩に視線を向ける。
私は、万十郎と小町先輩を交互に見て戸惑った。
小町先輩が何を考えているのかさっぱり分からない。
お昼におかしなことを言って私をからかったかと思えば、今は弟の空也先輩の言動を仄めかす。
豪胆な態度をとったかと思えば、底のしれない透き通った笑みを口元に刷く。
「こんにちは。望月小町よ」
先ほどまで私に見せていた華やかな笑顔から一転、小町先輩は夜露に濡れた月見草のようにしっとりと艶めいた微笑みを浮かべた。多分、これが『望月』としての顔なのだろう。周囲に高嶺の花だといわれるゆえんだ。
彼女がその気になれば、男女問わず相手を惑わせそうなすさまじい色気に私はくらりときた。
さすがに万十郎も赤面するに違いない。
なのに、視線の先の彼はぽかんと口を開けて首を傾げていた。
「――家政夫?」
呟かれた言葉に私はどきりとした。
お昼に彼がどういった立ち位置か聞かれてとっさに出た言葉だ。やはりたとえが悪かったか。よく考えたら、ただの同居人で通せばよかったのだ。
今も別におかしなことは話していない。けれど、どことなく後ろめたい気分に襲われる。
万十郎も小町先輩も見ることができない。
思考が渦を巻く中、場違いなほど明るい声がした。
「なるほど。確かに、お世話係というより家政夫のほうが近いですね」
小町先輩の艶めいた笑みに戸惑うどころか、穏やかに微笑みかえし、万十郎は言った。
「初めまして。ちとせさんの家政夫の市河万十郎です。よろしくお願いします」
――――ん?
「ご丁寧にどうも。こちらこそよろしくね。お隣さん」
小町先輩は笑顔の仮面を外すと、さっぱりとした見慣れた表情で私が預けた本を万十郎に渡した。
「重たい荷物は男性が持ってあげないと。それじゃあね」
そのままひらひら手を振って隣室の扉の向こうに消えていった。
突然の事態に頭が追いつかない。
とりあえず。
「イチカワ君? ちょっと顔貸してね」
据わった目で口角だけあげて彼を見た。
「さて、どういうことか説明してもらおうじゃない」
「説明ってなんのことです?」
本気で分かっていない様子の彼に口元がひきつった。
「あやかしに苗字はないって言ってたわよね。……イチカワ君?」
だから万十郎と名前で呼んで、小町先輩にあることないこと深読みされて突っつかれたのだ。
確かに、立ち位置を聞かれ、とっさに思いついた答えで家政夫と言ったのは私のミスだ。
けれど、小町先輩に姓名で名乗ったのが胸の奥にしこりを残す。
嘘をつかれたのが悲しくて悔しいのだ。
眉を寄せる私に、彼は戸惑ったように言った。
「あの、ちとせさん? なにか誤解があるようですが」
「誤解? なんのこと」
「市河万十郎というのは本名であってそうではないです」
「……どういうこと?」
「昨日、ちとせさんは言いましたよね。一緒にいるのなら人間社会に適応するようにと」
「ええ。言ったわ」
「人間は苗字をもつ生き物。他の民族は知らないですが、少なくともこの国はそうですよね。だから、僕もそれに習ったまでのことです」
思考が追いつかない。
つまり、あやかしは本来名前しか持たないけど、彼は人間社会に適応するために苗字を名乗ったと。
それを迫った大本の発信源は私であると……?
私は頭を抱えた。
それなら、昨日のうちから苗字を名乗ってもらえばよかったのだ。
そうすれば、お昼に名前呼びする失態を犯すことはなかった。
違う。それでは、彼に罪をなすりつけているだけだ。
「それは……私が気を付けるべき案件よね」
「いえ。僕も伝えるのを怠っていました。人間社会に溶け込んで生きるあやかしは苗字を名乗っているので」
「――は?」
「市河姓は亀の人間社会に生きるあやかしが名乗る苗字です。もちろん、すべての市河姓があやかしというわけではないですが」
「なら、最初から市河万十郎と名乗ればよかったんじゃ……?」
「ちとせさんには僕があやかしであると知っていただかなくては。あくまで、あやかしが人間社会に適応するためにつく名ですから」
私は昨日からどれだけ頭を抱えているのだろう。
話が通じる相手でも、そもそもの原点が違う。お互いの当たり前と思っていることが違うのだ。
こうして、齟齬をみつけてやっと歯車が噛み合う。
彼は人間社会に理解を示し、歩み寄ってくれている。けれど、まだ足りない。それは、あやかしと人間の常識の違い。
……私もあやかしに歩み寄らないとこの差は埋められない。
私は彼が淹れてくれたお茶を飲んだ。
変わらず美味しい。
帰宅して部屋に入った時、ちょっとした違和感を感じた。
何かが変わったとかいうのではなく、ただ空気が綺麗だと思った。
定期的に換気して掃除機をかけているけど、どうしても残る埃っぽさや小さな汚れが気にならなくなっている。手洗いうがいに入った洗面所の鏡や蛇口には白い水垢がまったくなく、今飲んでいる湯呑も茶渋の染みもひとつもない。
他の誰でもない、すべて彼がしてくれたことだ。
「はあ……」
「ちとせさん? あの、どうかされました?」
大きなため息に彼があたふたする。その様子に思わず笑みがこぼれた。
昨日今日といつもより勉強時間が減っている。しばらくはその状態が続くだろう。
けれど、まあいいかと受け流せる程度に心が軽くなっていた。
「まったく……。私は勉強しか能がないのに」
「ありますよ。瀕死の亀を救ってくれた優しいひとです」
真面目な表情で言うものだから、ますます対応に困る。
つまり、笑い飛ばすしかできない。
「おかげで、住み込みで家政夫なんてすることになっちゃったけどね」
家政夫も立派な職だけど、使われる側だ。そして使う側はまだ二十歳にも満たない小娘。十年経ても姿が変わらない永き時を生きるあやかしからすれば、なんとちっぽけな存在だろう。
住む世界が違えば常識も変わる。出会うことすら奇跡だったのに、これ以上何を拒めよう。
「掃除も洗濯も楽しいですよ。どんどん綺麗になっていくさまが感じられてあっという間です」
「そっか」
部屋を見回す万十郎につられて、私も揺れるカーテンを眺めた。
近所で夕飯の準備でもしているのだろう。いい匂いが漂ってくる。
「いい名前だね」
「――え」
私は万十郎に向き合った。
「市河万十郎。なんだか伝統芸能の役者さんみたいで格好いい」
私はその時どのような表情をしていたのだろう。
驚いたように目を見開いた万十郎は、じわじわと頬を染め、笑みを浮かべた。
何度も見た穏やかで優しそうな笑みではない。
嬉しいけど照れくさそうな、見た目の年相応の笑顔だった。
私もつられたように赤くなった。
空咳をしてそっぽを向く。
「……夕食、一緒に食べるんでしょ」
「はい」
「お弁当、おいしかった」
「それは良かったです」
「……明日も、作ってくれる?」
「もちろんです」
ふわふわとした心地に目を細めていると、あることに気付いた。
そして、顔から血の気が引いた。
「洗濯物は……?」
「もちろん、とりこんで畳み、すでに収納済みです」
彼自身の服はもちろん、タオルはありがたい。私の服も、トレーナーやズボンなら、まあいい。
けど。
「……下着も?」
「はい。ちとせさんが洗うといいましたが、それ以外は言及しなかったので綺麗に畳んでしまっておきました」
私は陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。
蒼白になった顔色に赤みが増す。
「…………け」
「け?」
「やっぱり出てけっ!!」
「ええっ!?」
日本人特有の空気読めはあやかしには通用しないらしい。
――やっぱり、早まったかも。
私は内心大いにため息をついた。
あやかしと人間の常識の違いはそうそう埋まりそうにない。
2章終了です。お付き合いくださりありがとうございました。




