通学路のような
道路脇の空き地に、黒塗りのワゴン車が静かに止まった。
裕樹の幼なじみ、川原隆司と瀧島美知香が通う東高校は、左手に見える丘の上にある。正確には、緑豊かな山の手前にほんの少し突き出た丘の上だ。海岸近くにある駅から、商店街、住宅街を通って丘に登るのが通学路となっており、駅から歩いて二十分ほどの距離だ。地形のためか、通学路がある南側の開発は進んでいるが、北側はほぼ未開発の森になっている。ワゴン車は、通常の通学路とは反対側の、農道の空き地に止まった。
雅哉、梓乃、裕樹、そして最後に蒼雲が車から降りる。
「じゃぁ、行ってくるから」
三匹の猫たちは車内に残ったままだ。
「風霧たち連れて行かないの?」
いつも一緒にいる猫たちを、ここまで連れて来て置いていくとは思わなかったので、裕樹は怪訝そうな声を上げた。
「あぁ。こいつらは家で適当に時間をつぶす」
「そうそう。心配ない。俺たち風華達と遊んでいるから」
「ねー」
「はい」
梓乃の化け猫である七枝も、首を回して弾んだ声で返事をする。
風華というのは、蒼雲の祖父、蒼巖が使役している化け猫の名前で、風霧と雲風の母猫だ。猫風家本宅には、その他にも何匹か化け猫がいる。風霧と雲風は、久々に彼らと再会できるのが楽しみで仕方がないらしい。
「てっきり変化して一緒に行くのかと思った」
化け猫は、変化して巨大化すると霊能者にしか見えない幽体に近い姿になる。通常の生活で猫を連れて行けないような場合でも、猫使いに使役されている化け猫達は、このようにして変化した状態で付き従う。それを知っている裕樹が、疑問を口に出した。
「仕事に行くわけではないしな」
「そりゃそうか」
「では、お帰りの際には……」
運転席の宗康が、体をひねって声をかけてくる。
「連絡する」
その言葉を途中で遮って、蒼雲が返事をする。ここから猫風家の本宅がある町までは車で一時間ほどだ。四人が学園祭の見学を終える夕方まで、宗康は猫たちとともに本宅で待機をすることになっていた。
「祖父上と祖母上にもよろしく伝えておいてくれ。二匹ともあまり羽目を外すなよ」
蒼雲が、車内に残った猫達に声をかけると、
「それはこっちの台詞だぞ、蒼雲」
「そうそう。蒼龍の目が届かないからってはしゃぎすぎないようにね」
嫌みのような言葉が二匹の猫達の口から飛び出す。
「煩い。お前らに言われる筋合いは無い」
蒼雲は、不機嫌そうに扉を閉めた。
「それにしても、良く許してくれたよな」
去っていく車を見送りながら、しみじみと口にしたのは裕樹だ。
誰が、という主語を付けなくても分かる。それはここにいる四人それぞれに都合よく解釈されうる言葉で、そしておそらく、その全てが正しい。
「本当に何もないとは思えないな」
「自分の親父の言うこと信じられないのかよ?」
独りごとのような裕樹の言葉にすかさず雅哉が言葉をかぶせる。
「だってさぁ…」
三人の視線が、自然と蒼雲に集まる。
「信じる信じないは関係ないだろう。信じて何もないと思うのは甘え過ぎだ。判断を他人に委ねて安心することに意味はない。いつ何時なにがあるかわからない。一日自由を貰ったんだ。そのくらいの代償は払ってもいい」
「相変わらずのきっちりとした正論で安心するぜ。お前がいれば心配ない。俺は楽しむぞー」
「おい、雅哉。蒼雲の話ちゃんと聞いてたか? 他人に委ねて安心してるんじゃないって…」
「まぁまぁ、行こうぜ、なぁ」
雅哉は既に、ノリノリで歩きだそうとしていた。
「ったく」
雅哉と蒼雲。傍から見ればどちらも楽観的なように見えるが、その心のありようは正反対だ。一人は、何も起らないだろうと楽観し、もう一人は何も起らないわけは無いと楽観している。その両極端の二人に挟まれている裕樹には、気苦労が絶えない。裕樹はどちらかと言えば、細かなことが気になってしまう心配性な性格だ。それでも、何事かが起きてもきっと何とか出来ると思えるほどには、裕樹も楽観的だった。それだけ、この四人のチームに自信が持てるようになって来た現れでもある。
「…さん? 裕樹さん?」
すぐ近くで、梓乃が自分の顔を見上げていたのにようやく気がついて、慌てて焦点を彼女に合わせる。
「裕樹さんのご自宅もこの辺りなんですか?」
「あ、あぁ…、えっと…、俺の家は、東高の最寄り駅から電車で三十分くらいかな。駅からはこれまた二キロくらい離れているけどね」
「なんだか、四人で仕事じゃない外出するのって初めてだから嬉しいですね」
四人は農道を、東高校のある丘に向かって歩き始めていた。ここはちょうど高校のある丘の反対側。ここからなら、のんびり歩いても三十分とかからない。地理をわかっている裕樹が前を歩くはずだったのだが、いつの間にか、スキップでもしそうな勢いの雅哉が先頭を歩いていた。裕樹と梓乃が、話しながらその後に続く。
「俺、学校好きじゃなかったから、中学ん時は、こうして歩いて登校するのが面倒で仕方が無かったけど、今日はなんか、わくわくするな」
雅哉は、今朝は一段とハイテンションだ。久々の「通学路」に声を弾ませている。四人とも、着物でも袴姿でも制服でもなく私服だった。雅哉はカーゴパンツを穿き、服の上からでも分厚い筋肉が推し量れるようなVネックのロングTシャツ姿だ。首から下げているシルバーのリングが実は法具のひとつなのだが、おしゃれなアクセサリーにしか見えないのは雅哉のその服装のせいだ。本人は「セックスアピール」だと譲らなかったが、術者には見えない代わりに、どう控えめに見積もっても格闘家には見える。
「お前はどう見ても高校生には見えないんだけどな」
隣で心どころか体までもを弾ませている友人の方を見ながら、裕樹が笑う。こちらは、ジーパンにTシャツ、その上にフード付きのパーカーという年相応のスタイルだ。いや、雅哉の服装も、年相応には変わりないのだが。
「はぁ? 何でだよ、俺、ピチピチの高校生だろ、どう見ても」
「ピチピチってなぁ…」
あまりにも不釣り合いな形容詞に裕樹は苦笑いを浮かべる。
「えー? どう? ねぇ、梓乃ちゃんはどう思う」
「高校生には見えないですね、確かに。高校生らしいって言うのは裕樹さんや蒼雲さんみたいな格好だと思いますけど」
後ろを歩く蒼雲にチラリと視線を送る。カーキのチノパンに白シャツ、その上に紺のジャケットを羽織った蒼雲は間違いなく爽やかな高校生だ。梓乃はと言えば、良家の娘らしく、花柄ワンピースの上にカーディガンを羽織ったお嬢様スタイルだ。いつもはポニーテールにしている髪を下ろし、サイドの三つ編みを後頭部に持っていってバレッタで留めている。薄い黄色のワンピースに黄緑色のカーディガンを選ぶところも、正統派のお嬢様といったところだ。雅哉の母である弥生に強制されたかっこいい系のミニ丈スカートスーツも似合ってはいたが、柔らかな雰囲気の梓乃には、このような可愛らしい服装の方がよりふさわしく見える。
「あ、蒼雲、ずるいぞ。お前なんで眼鏡かけているんだよ。それ反則だろ!」
梓乃から「高校生らしい」と言われた服装の蒼雲は、眼鏡をかけて、ますますインテリ高校生風だ。
「猫眼を隠すための眼鏡だって、前に言っただろう?」
蒼雲は眉ひとつ動かさずに雅哉の言葉を受け流しているが、なぜか代わりに、裕樹が呆れた声で返答する。
「あ! じゃぁなんで梓乃ちゃんはかけてないの?」
予想通りの展開。雅哉が梓乃の眼鏡姿に異様に萌えを感じるというのは、五月の仕事の際に散々聞かされている。大柄な雅哉に詰め寄られて怯えるようにしながら、梓乃が困ったように口角を釣り上げている。
「私は常時猫化しているわけではないので…って、言いませんでした?」
「え? そうなの? だって、学院ではいつも…」
「私は蒼雲さんと違って、猫が近くにいないと簡単な猫化も維持出来ないんです。っていうか、猫使いのほとんど全てがそうなんですけど…」
蒼雲のように、猫がいなくてもまるで呼吸をするのと同じように猫化を維持し続けることができる猫使いは極めて少ない。森の一族では千年に一度の逸材と持て栄されている梓乃の兄の柾一郎でさえ、猫がいない状態での猫化は二時間と続かないだろう。それを蒼雲は、意気込むことも無く自然にこなす。そして梓乃は、その自然体の裏に、どれほどの痛みが潜んでいるかを身を以て知っている。だからこそ、蒼雲への尊敬の念は日に日に強くなるばかりだ。
「まぁ、お前の規格外は今に始まったことじゃないしな」
雅哉は既に蒼雲の優秀さと対抗することは諦めていて、羨ましがることはもちろん、派手に驚くことも無くなっている。蒼雲の眼鏡を反則だと騒いだのも束の間、既に関心は他のところへと移っている。まじまじと梓乃を見つめる。
「梓乃ちゃんがそれ以上可愛くなっちゃったら、ナンパされまくって大変かもしんないし、その方がいいか。それより、俺、高校生に見えないか? まじで? そんなに老けて見える?」
はっちゃけてみたり落ち込んでみたり、雅哉の表情は忙しい。
「老けてというか、体格の問題だと思いますけど、大学生くらいに見えますよ」
「空手部の大学生って感じだな。そんなガタイのいい高校生、そうそういないからな」
「それじゃダメじゃん」
「どうしてですか? 年上に見えるっていうのはいいことだと思いますけど。それに、雅哉さん、頼もしいお兄さんに見えますから、女子受けはいいと思いますよ」
梓乃はこの一瞬で雅哉に魔法をかけた。もちろん文字通りの意味ででは無いが、雅哉の表情が一変するほどの強力な魔法だ。ほぼ黒かったオセロの盤面が、端から全て真っ白に返されていくような劇的な大逆転劇。
「頼もしい…お兄さん…!!!」
キラキラと目を輝かせて梓乃の顔を覗き込んでいる雅哉の姿は少し滑稽だが、その純真さには感嘆すべきかもしれない。
「よっしゃ!」
こぼれ落ちるような笑みを浮かべて力強いガッツポーズを決め、上機嫌で走り出した。
「まったく、やかましいやつだな」
冷ややかな口調だが、蒼雲の表情は硬くはない。蒼雲なりに、今日という日を楽しんでいるように見える。
(そういえば)
と裕樹は思い出す。
(家族旅行が初めてだと言って、楽しそうにしていたよな)
小学校最後の夏。蒼雲と知り合って二年目の夏。家族旅行に蒼雲を誘ったことを思い出していた。その時も裕樹の父が、蒼雲の父親を説得して、半ば強引に蒼雲を同行させたのだった。新幹線も水族館も初めてだと言って目を輝かせていたのを覚えている。娯楽に関心がないように装っているが、そうではないのだろう。何の制約もなければ、蒼雲だって、年頃の高校生らしく馬鹿騒ぎをしていたかもしれない。
「どうした?」
自分を見ている視線に気がついた蒼雲が、訝しげな目でこちらを見ていた。
「俺は羨ましいとは思っていないぞ」
「あ、いや。なんでもない」
心の声を聞かれていたはずはないのだが、蒼雲の指摘は的確で、また言葉が顔に出ていたのかもしれないと、裕樹は不甲斐ない自分に苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
雅哉が集団を引っ張ったので、予定より早く丘を登りきり、三十分とかからずに駅前から続く通学路との合流点まで辿り着いた。同い年くらいの男女や、父母と思われる大人たちがにぎやかに通学路を上って来る。
「で? 裕樹の友達は剣道部だったよな?」
学園祭のテーマに合わせたのか、鳥の格好をした案内係からパンフレットを受け取って、一行は正門をくぐった。日曜日だけあって、開門直後だがすごい賑わいだ。人の流れから少し外れて、四人はこの後の行動について確認し合うことにした。幸い、入り口すぐに飾られた大看板の裏手は人通りも無く静かだった。
「俺の同級生は川原隆司と瀧島美知香って二人いてね。川原が剣道部で瀧島が新体操部だよ。どちらの部活も午後のイベントスペースで演武(演舞)をするって話だったけど、とりあえずは川原のクラスが出しているっていう露店に行ってみるよ。確か、チョコバナナ売っているらしいから」
東高校の文化祭では、クラスごとにイベントを企画して、食品を販売したり、お化け屋敷や金魚すくいの店を出したりする。それとは別に、部活ごとの展示や演武など、展示やステージイベントも盛りだくさんだ。
「ってことは、これですか? 1−G。チョコバナナ販売しますって書いてあります。場所は…中庭の『小鳥横丁』みたいです」
パンフレットを捲って、素早く該当の項目を見つけ出した梓乃が、そのページを開いて一同の前に差し出す。小鳥横丁は、縁日の屋台を模したエリアで、露店を出すクラスがテントを張っているらしい。1−Gの文字は、その中ほどにあった。
「あぁ、たぶんそれだ。みんな、他に行ってみたいところあるか? 俺は、午後のこのイベントステージの企画を見るつもりだ。この人混みだし、なるべく四人で行動しようと思うんだが」
「それにはもちろん異存はないぜ。でも、万が一はぐれた場合はどうする? まさか式神飛ばして連絡取る訳にもいかんだろう?」
パンフレットから顔をあげ、雅哉が軽い冗談のつもりで言う。
「そのまさかだよ」
しかし裕樹は、その冗談を真面目に打ち返した。背負っていたボディバッグから小さな布袋を取り出し、その中身を三人に手渡す。
「はい、これ」
腕にはめるタイプの念珠だ。
「もしかして、朝、俊樹先生から渡されたものってこれですか?」
それを受け取って早速左腕にはめながら、梓乃が裕樹を見上げる。猫風家の東京屋敷を出たのは朝五時前だったが、俊樹が玄関まで迎えに出てくれていた。その時に、彼が裕樹に何かを手渡したのを梓乃は見ていた。
「あぁ。それと、お小遣い」
「へ? お金もらってきたの?」
「昼飯食べなきゃならないし、模擬店で買い物とかしたいだろう?」
「俺、財布持ってきたぜ」
雅哉が、少し膨らんだカーゴパンツのポケットをポンと叩いた。
「まぁ、せっかく父さんがくれたし、一緒にいる間はここから払うよ。いいだろう?」
この言葉の大半は、手ぶらで来ている蒼雲に向けられている。梓乃も雅哉も学園祭がどういうものかだいたい把握していて、ちゃんと財布を持ってきていたが、蒼雲はおそらくそうではないだろうと、裕樹は予想したのだ。結果的にはこの予想は正しかったのだが、それを敢えて確かめることはせずに一方的に呼びかける。
「そりゃぁもちろん、そうしてくれるなら大歓迎だぜ」
奢ってもらえるというのなら、それを断る理由は無い。雅哉が大きく頷く。他からも反論は上がって来ない。
「で、このブレスレットだが、お互いの位置を確認し合えるだけの簡単な木霊が仕込んである。喚起の方法は簡単で、この親玉に指を触れて、少し気を流してやればいい。うん? どうした、蒼雲」
ここまで説明して、蒼雲が別の気配に意識を向けていることに裕樹は気がついた。裕樹の方を見ること無く、目の前の校舎を見上げている。その目が、「物質」を見ているわけではないことに、裕樹はすぐに気がついた。
「なんか変なものがいるな」
蒼雲の指摘は唐突だ。
「変なもの?」
三人は、蒼雲が視ているものを視ようと意識を集中させる。
「まるで魔界って感じの雰囲気だが、学園祭っていうのはこういう場所か?」
「それ、本気で言ってないよな?」
蒼雲の笑えない冗談に、裕樹は引きつった笑みを浮かべる。
「人が多いからじゃないのか? 俺は特に何も感じないけどな」
雅哉は首を傾げる。
「裕樹さんはどうですか?」
改めて、もう一度意識を集中させる。学校を取り囲むように植えられた桜の木が、不意にざわめく。
「何か拾って来ているみたいだな」
「誰かに憑依してるってことですか?」
「いや、この感じは人ではないと思う。もっと正確に言うと、自分では移動できないタイプの何か」
桜の木に宿った精霊が伝えてくるメッセージは、しばらく前に入り込んだ何かが、一度もここから出ていないということだった。それはすなわち、学園祭の客でも、東校の生徒でもないということだ。
「地縛霊的な?」
「何かを封じ込めた呪具という可能性が一番高いだろう」
「場所わかるか、蒼雲?」
目標物をだいぶ絞り込んでいる蒼雲が、手元のパンフレットに視線を落とす。
「可能性があるとすれば、ここだろうな」
長い指が、一つの部活展示を指差す。
「歴史文化研究部か…」
歴史文化研究部の展示紹介の欄には、【歴史の闇、呪いの世界】の文字。
「いやー、もう、これビンゴだろ」
覗き込んで来ていた雅哉が嘆息する。『あっと驚く展示物あるよ!』がどんなものかは分からないが、良からぬものの正体はここにある可能性が極めて高い。
「もちろん、これ以外かもしれない。位置的にはこの校舎の向こう側な感じだ。一通り中を歩いてみればわかるだろう」
「そうだね」
「まずは1−Gのブースに行くんだろう?」
四人は渡されたブレスレットを左手首に嵌めて、裕樹の幼馴染、川原隆司のクラスが行っている露店ブースに向けて歩き始めた。