2、展望台の景色
見えるのは、教室。制服の女の子たちが囲んでいるものは鞄。綾香のだ。一人の女の子が鞄を蹴った。それに続いて数人が蹴る。中に入った弁当箱が嫌な音をたてる。それから机が動かされ、二階の窓から落とされる。でかい音が、学校中に響く。やがてそれは、笑いに変わっていた。教室のドア越しに、それを眺めていた。そして、拳を握りしめ綾香は俯いた。
もう誰も信じない。もう誰も好きにならない。そう思いながら、歯を食いしばった。
この長い階段を上れば、展望台が見える。この街を見渡せる、展望台だ。夜の街はキラキラ光って宝石みたい。その景色を独り占めしたくて綾香は急いでそこまで駆け上がった。
ふぅ。とため息をこぼしながら手すりにしがみつく。風が気持ちいい。短いスカートの裾を気にて、カーディガンをスカートの裾近くまで下げる。風でなびく長い髪を耳にかけて、手を口元に持っていく。まだ春にしては寒い時期、手の感覚がなくなりそうになる。
「あれ?」
間抜けな声が聞こえた。聞いたことのある声。その方向に顔を向けると同じように制服を着た男の子がいた。隣の席のやつだ。
「あんた、何してんの?」
隣の席だけど話したことは全くない。いつもタバコ臭いやつっていう印象しかない。
「俺? 俺はこれ」
手に持ってたのは、家庭用ビデオカメラ。それだけじゃよく分からないので、思いっきり首を傾げたらカメラを構えられたので眉根を寄せた。街頭の明かりから綾香の姿が見えるはずだから、意味は分かったはずだ。
「盗撮」
「誰も撮ってないって。こんなとこで何してるの。女の子が危ないんじゃない」
そう言いながらカメラのレンズは綾香とは全く違う、街の景色の方に向けられた。真剣な目でレンズを覗いている。綾香も同じ景色を見つめた。
「家、この近くなのよ」
「そんなこと言って油断してるやつが襲われるんだよね。スカート丈短いし、誘われてるって勘違いした変態が寄ってくるんじゃね」
ちっとも心のこもっていない口調で言われたのでムッとした。でも言ってることは正論だ。スカートの裾を手で触ってみた。確かに短い。
「・・・今日はタバコの臭いしないのね」
カメラから目を離して綾香の方を見た。薄暗い街頭が彼の後ろから当たっていて顔がよく見えない。
「気付いてたかぁ。臭い、苦手?」
「うん。苦手じゃない人いないと思うわ」
「やっぱり? 俺もそう思う」
「でも吸ってんじゃん」
「これは俺にとって顔洗うのと同じ、朝の一連の作業なの」
「ふーん。いつから吸ってるのよ?」
「小学生のときから」
また景色を撮りはじめる。何の為にしてるんだろうか。そんなにこの景色が好きなのかな。変なやつ、と綾香は息を吐く。
「マセガキ」
「で、お前何してるんだ?」
「私は・・・」綾香は言葉が見つからなくて、手元を見る。「家に帰りたくないだけ」
「あ、そう」
カメラはいつの間にか綾香の方を向いていた。思わず、顔をそらしてしまった。
「撮らないでよ」
彼は笑った。無情の声のはずが、楽しそうな笑い声に変わったので彼の方を見た。カメラを構えた彼がゆっくり近付いてきた。慌てて顔の前に手をかざすけど、近付いてくる足音は変わらない。
「もう、ウザイ! 撮んなよ」
更に笑い声が響く。足音は止まったり。ゆっくり手を下ろすとカメラを構えたままの彼が、綾香の顔を見ていた。
街頭の明かりの後ろに、月が見えた。美しい、月の明かりが街頭の明かりと重なって彼の体を発光させているように見える。思わず、綾香は目を丸くして見つめてしまって彼がカメラを回していることに気付かなかった。赤いランプが付いているのを知っていたのに、動けなかった。
しばらくしてから、彼がカメラを下ろした。
「いいもん、撮った。あんたいい顔すんね」
満面の笑みを向けられて、ハッとした。彼の顔を見ていられずに、顔を背けながら俯いた。顔が火照っていくのが分かる。今ここで顔を上げたら、彼にそのことが分かってしまう。顔をあげられない。
「なんかさ、ファインダー越しの世界ってすごいんだよね。そこにいる人を、この瞬間を映して記録する。それでこの瞬間のあんたがこのテープの中に永遠に存在し続ける。なんかすごいよな」
「そ、そうかな」
彼の言葉を、うまく聞けなかったけど、おかげで火照っていく熱は収まっていったように思える。隣に並んだ足が見える。そこからゆっくり顔を上げると彼の横顔が見えた。
風が吹いた。綾香の髪の毛は視界を遮るように、目の前に流れる。
「あなた、名前は?」
彼はこっちを向いた。目を丸くしてこっちを見る。
「近藤平也」
こんどう、へいや。口の中で復唱してみる。一緒に横に並んで風にあたりながら街を眺め、ときどき他愛もない言葉を交わす。地上と空の境界線が見えなくなるほど、その景色は美しかった。