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文章を書く技術

 エリック・ホッファーは書く事と読む事の間には千里の隔たりがあると言っていた。書くという事は、一見誰でもできるようだが、実際にはピアニストがピアノの弾き方を習う事と同様に難しい。インターネットに広がる無数のブログ、ツイッター、フェイスブックなどを見ればそれは一目瞭然だ。そこではただ書いている、ただ言っているだけで、書く技術というのはほとんど見られない。より正確に言えば、書く事によってしか表現できないものがそこには現れていない。


 エリック・ホッファーは、モンテーニュを熟読する事で書く技術を習得したと言っていた。ホッファーは日雇い労働者で、冬に雪に閉じ込められる事を予期して、先に分厚いモンテーニュのエセーを買ってからそこでの労働に望んでいた。そしてホッファーは予期通りに雪に閉じ込められ、モンテーニュと向き合う事になった。ホッファー曰く、そこで彼は書く技術を学んだらしい。


 物事を学ぶ人間には誰にでも師匠と呼べる存在がいるものだ。僕にとって、思想上の先生、表現というものが何かを教えてくれたのは「神聖かまってちゃん」なのだが、具体的に書く技術を教えてもらったのは小林秀雄である。僕の語り口に逆説的かつ、難解な語り口調が含まれているとすれば、それは師匠の小林秀雄から取ってきたものだ。僕の文章が難解だというクレームがあれば、師匠の小林秀雄にクレームを言ってもらえればありがたい。そうすれば弟子の責任は免れるというものだ。


 元々、小林秀雄は僕には難解な存在だった。大学生の時、何度か小林秀雄を読もうとしたのだが、どうしても読めなかった。どうして小林がこれほど評価されているのか、よく分からなかった。小林秀雄評価などはったりではないかと疑問を抱きすらした。しかし、大学を出て一年、二年した時ぐらいに小林秀雄の短いランボー論を読み、意味は分からないが「こいつはどうやらすごいやつだ」という漠然とした感想を抱いた。それがきっかけとなって僕は小林秀雄を読むようになった。


 小林秀雄で僕が一番気に入っている本は、岩波文庫から出ている小林秀雄初期文芸論集である。僕はある時期からこの本を毎日読み、小林秀雄の文章、一字一句に文字通り心酔した。心の底から小林秀雄の文章、啖呵の切れ味、半端な学者や文学者もどきを綺麗に切っていく姿に感動し、毎日のように読んでいた。その事が自分の文章の根底を形作ったのだろう。僕は小林秀雄の逆説的な論理を受け継いだと今でも勝手に思っている。


 最近は偉そうになっているので好き勝手言わせてもらうと、本屋で最近の作家のエッセイなんかを手にとっても、ほとんどが文章によって自己を表現する技術というものを感じない。ただ、自分の感じている事、考えている事を事実の水準で言うという事と、言葉を音楽のように駆使して己を表現するという事は全く違う事だ。読者でも作者でもその事を認識している人はかなり少ないと思う。翻訳者などでも、良くない翻訳には音楽性が欠如している。補注をたくさんつけて、学者としての知識量を自慢したとしても、翻訳というのは結局、日本語を扱う技術が必要とされる。翻訳者は部分的には詩人であらねばならないが、自分は詩人ではない、学者だという隠れ蓑に隠れたがる人は「原文に忠実な~」とか、訳注をたくさんつけて知識に逃げる傾向にある。言葉を扱うというのはかなり難しい事だ。


 言葉を扱う技術というのは本質的は「手」を使う事であり、そこには職人的な気質も存在する。手を使って人は物を作るが、その際、技術に熟達したものは頭より手の方がよほど物を知っているという感覚を味わう事だろう。今の作家…例えば西尾維新とかその手の作家に感じるのは、「頭でっかち」という事だ。現代のインテリは大抵、手を具体的使って何かを表現する事を知らないので、頭だけで先行しているという印象を受ける。手を使い、体を使って物事を覚えるのはそう簡単ではない。(僕がこう言うと、「それは肉体性の欠如の事ですね」みたいにしたり顔で言う人間がいるが、僕が頭でっかちというのは正にその「肉体性の欠如」みたいに整理して何事も済まされるという発想それ自体である)


 話を前に戻すと、本屋で最近の日本作家のものをパラパラと見ていて、唯一書く技術を感じたのは、村上春樹のエッセイだった。村上春樹に対して僕はもう興味をほとんど持っていないが、村上春樹はやはり、書くという事を自分なりに知っているのだと思う。(ホッファーレベルではないにしろ) そして、人が書く技術を習得し、自分を表現できるようになるには、おそらく考えられているよりはるかに遠い道のりがあるのだろう。知識や情報はそれを活用する者を必要とするが、それを自意識の領域で、自分の手足の如く活用できる人間……そういう人間を生み出すには多くのエネルギー、金、時間が必要とされる。ホッファーのような人間一人生み出されるにも、世界の内の実に多くの資源が費やされたのだ。そしてまた、ホッファーのような優れた文章を読む我々はその文章それ自体をまた、自らの資源としなければならない。そのようにして「書く事の歴史」は進展していくのだろう。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 参考になりました。ありがとうございました。
2016/02/15 10:52 退会済み
管理
[良い点] 沁みました。 グサグサ突き刺さりました。 ダラダラとした垂れ流しや、つまらない自己主張に埋め尽くされたエッセイ欄を苦々しく感じていました。 評価を得る方法や、ランキング入りを狙う方法など…
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