「僕」って誰だ?
小説とは虚構の物語で構成された文学作品である
ーwikipedia
「僕」って誰だ。
「僕」をあらわすものといえば「名前」だ。
例えば「山田太郎」という名前だとする。
この世界に「山田太郎」は何人もいる。
これでは「僕」が何人もいることになる。
じゃあ他のもの。
他のものといえば「年齢」だ。
例えば「14歳」だとする。
「山田太郎」かつ「14歳」は少ししかいないだろう。
だけど必ずしもそれが「一人に限定される」とは限らない。
さらに他のもの。
「性格」だ。
例えば「陽気」だとする。
「山田太郎」かつ「14歳」かつ「陽気」は少数だろう。
でも「一人に限定される」とは限らない。
では「成績」ではどうだろうか。
例えば「テストはいつも満点」だとする。
でも一人には限定されない。
アインシュタインは「僕」をどのように説明しただろうか。
「相対性理論を発見した人」かもしれない。
「相対性理論を発見した人」は一人に限定される。
「僕」をアインシュタインは説明できるということだ。
「一人に限定されるもの」があれば「僕」は説明できる。
でもそれがない人はどのように説明すればいいのか。
「名前」「年齢」「性格」「成績」
これらの「一人に限定されないもの」をいくつも掛け合わせても「僕」は説明できない。
儚いものである。
「一人に限定されるもの」がなければ「僕」は説明できないのだ。
では科学的に考えてみよう。
「東経○○ 北緯○○にいる人」
このような「数値」であらわすと「僕」は確かに説明できる。
内面的な部分は説明できないが「一人に限定される」
内面的な部分が説明できずして「僕」を説明したと言えるのだろうか。
先程の例ではある程度内面的な部分も説明できる。
「数値」では「僕」を完全に説明した、とは言い難い。
これらのことから導きだした答え。
いや、このような問いに答えがあっていいはずがない。
あくまでも予想だ。
「僕」を説明するには「一人に限定されるもの」が必要である。
それは決して「数値」などの外観的なものではなく「業績」などの内面的なものでなくてはならない。
この予想に基づいて読者の皆さんに考えてみてほしい。
「僕」って誰ですか?
筆者は「僕」を説明できません。