眼鏡なしで異世界!extra
今回は18歳から読めるムーンライトに投稿した番外編の健全な部分だけを抜き取って纏めてあります。
あちらに寄せられた感想は抜粋すると「変態」です。あっちは読む人をかなり選びます。
裏連載を読むつもりがあれば、ネタバレになるので今回のみ未読を推奨します。
恋をするとは思わなかった。しかもこんなに居た堪れないくらい心が乱れるなんて。時々、突き刺すように甘い言葉を胸にねじ込まれる。毒が回って狂いそうになる。ありえないと思っていた相手に心が持っていかれる。
怖かった。
逃げようとした。
でも咲いた恋花は見つけられてしまい、あまつさえ覚悟が無いまま実ってしまった。
恋人が出来たという事実も直視出来ない。そんな私は今、にじり寄ってくるユアンに思いっきり追い詰められていた。
「や、野営のテントを張らなきゃいけないって時に何考えてんのよ!?」
調査隊として各町を巡る手段は徒歩。次の町に疲れきって辿り着けても身を休められるのはまだ先だ。ここら一帯には町ごと被災して逃げてきた人が溢れているわけだから、宿なんて上等な所では滞在させてはもらえない。滞在中の寝床は自分達で設置しなきゃならないわけ。サバイバルにも程がある。
しかも誰かさん達のせいで町の人や他の調査隊から隠れた場所に天幕を設置してるもんだから他人と協力し合うことも適わず、初日は本格的な天幕を諦めて野宿と大して変わらない狭いテントでの雑魚寝になるんだけどね。
とにかくだ。ひとまずの準備が出来たら町で炊き出しを分けて貰って、それを食べたら体を拭いて即テントに飛び込んで休みたい。
なのにこの男ときたら。
「町を移動する時には集団行動、町にいる間は調査隊の活動で夜は雑魚寝。この合間以外にどうしろって言うんだよ!」
前に構えたユアンの両手は引き下がらないままで、私は明らかに何かされようとしている。
「どうもしなくて良いから!」
「僕はこういうことをしても許される関係になったような気がするんだが」
「そ、そういうのはまだ先がいい」
「僕を煽るだけ煽っておいて馬鹿にするのも大概にしろよ!」
「覚えがないってば!」
「大体君は僕が好きだと言ったくせに、どうしてここまで拒絶してるんだ。意味が分からないんだが!?」
「い、い、い、言わされたんだもん」
「手を握れば振り払う、隣に座ればジャックを壁にして逃げる、恋人になったのが僕の勘違いじゃないなら理不尽極まりない扱いじゃないか。まあ君は前からあらゆる意味で理不尽を極めてたけどね。それにしたって以前より更に距離を開けてくるってのはどういう了見だ、畜生」
「ううっ、それは、それは」
頭のてっぺんまで赤くなってくのを自覚して唇を噛む。
「冗談じゃないんだよ。こっちはいつから我慢してると」
繰り返す。森の中で襲いくるこの仮面を被った変質者と恋仲になったことを、私はまだ直視出来ていない。甘い空気すら羞恥心で死にそうなのに、人目が無いところになるとユアンが迫ってくる。こんな関係になる前はこの男の方こそからかえばすぐに固まる奥手だったはずなのに、おかしい。詐欺だ。
後退りながらとっ散らかった頭で荒い鼻息で近づいてくるユアンをどうにか鎮める方法を探して目を泳がせる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「怖い、怖い、普通に怖い!」
私の前にいるのは誰がどうみたって恋人ではなく変質者そのものじゃないか。今回はジャックやアーサーがそれぞれ野営のための準備で拠点を離れてる隙を狙われた。もう最近形振り構わなくなってきて、こっちの躱す手口が効かなくなっている。
こうなったらアーサーかジャックが帰ってくるまで時間を稼ぐしかない!
ユアンから目を離さないせいで木の根に足をすくわれて木に背中をぶつけた。そこでユアンの手が私の肩に届いて、仮面を地面に落とすと一気に唇を押し付けられる。
「んうっ!」
啄むなんて可愛いもんじゃない。唇を甘噛みされて舌が口の中に入ってくる。動悸が激しく暴れ出す。手で押し返しても物ともしない。それどころかユアンの片手が私の太腿に触れてきた。その手がゆっくりと後ろに回って登ってくる。焦ってその進行を止めようと手で鷲掴みにして抵抗した。それでも止めきれない指先にズボンの上から尻の縁をなぞられた。
頭が真っ白になる。
「ひゃめ」
「はぁ」
舌を入れられたままキスの隙間に喋ればまともな言葉にもならず、舌に苛まれながらユアンの息を吸い込むだけとなった。唇の右半分は爛れて扁平なので唇に厚みを感じるのは半分だけ。そのせいで私が口の中でどんなことをされているのか全て横から丸見えになっている気がして羞恥心で死にそうになる。
ユアンの熱が篭った目に焦点が合って目眩がしてきて腰が砕ける。
手が震える。
膝も震える。
だってこんな外で、人が帰ってくるような所なのに、こんな、こんな。
「おーい戻ったぞー。テントの木組みはこんなもんで足りるかなーっと」
背の高い草を掻き分けるアーサーの能天気な声に冷水を浴びせられる。私は緩んだ拘束から抜け出して迷うことなく地面に落ちた仮面を素早く取るとフリスビーの如く森の向こうに全力で投げ飛ばした。
「地獄の果てまでとってこいやあああ!!」
「うわああああああああ!?」
森の草の背は高い。物が失くなれば見つけるのが困難な程に。
想像以上に飛んだ仮面を追って草むらに飛び込むユアン。入れ違いにテントを張るために刈り上げた滞留地に足を踏み入れたアーサーが呆れた調子で長く丈夫そうな木の棒を地面に置く。
「お前らはこの忙しいのにまた戯れてたのか」
「ロッカー!!」
仮面を見失ったらしきユアンの怒りの声が草の何処かから飛んでくる。
俯いた状態で肩を震わせ息を荒げる私をアーサーがどう思ったのかは分からないけど、頭を強く撫でてきた。
「喧嘩する程仲が良いのも結構だが野営の準備で大変な時はとりあえず止めろー。たく、ユアンだけはロッカが男だろうと女だろうと関係無しだな。いやユアンは前から気付いてたんだっけか」
ちなみに、この関係はアーサーにもジャックにもまだ知られていない。同居する仲間内の話なんだから報告すべきなのは百も承知だ。でもこの報告は色々と気不味過ぎて、延々と先延ばしてしまっている。
何度でも言うが、まず、私がこの関係を直視出来てないわけで。
焚火に鍋を置いて食後のコーヒーのために湯を沸かす。火を四方で囲みながらアーサーが追加の薪で鍋の下を突きながら火加減を調整するのをぼんやりと眺めた。暗闇に浮かぶオレンジの人影と疲労感、火の弾ける音と温もりを感じると眠気が押し寄せて夢の中に入りそうになる。
「はあーあ、これでしばらくまた調査が終わるまではのんびりやれるな」
「町の近くに天幕を張ってる調査隊のメンバーは到着した時点で問い合わせ殺到して、初日から昼も夜もなくなるみたいだけどね」
「調査隊に志願するだけあってボランティア精神が並大抵じゃねえな。尊敬するわ」
誰かさん達が人を可能な限り遠ざけたいがために私達だけ本隊からはずれているけど、町に到着すれば即座に家族や知り合いの安否を知りたい人が殺到して大変みたいだ。当然すぐにさばける人数じゃないから、しっかり腰を据えるために寝る場所を設置するのを優先するんだけど、待ちきれない人達がこぞって調査隊の拠点や寝所の設営を手伝ったり、空き住居を提供されたりするから作業はとてつもなく素早く終わるらしい。代わりに初日はとっぷり遅くまで対応に追われて、翌日に顔を合わせると疲労困憊になっているから羨ましくはない。
町の真横にある調査隊の天幕には夜でも明日が待てない逸る問い合わせに押しかけられている。それに比べると町に着いたらこちらのペースでやれる私達は気楽なものだ。
私も初日以外は出来るだけ遅くまで対応するようにはしてるけどね。風呂を沸かして、入って、食事が済んだらすぐに寝って、出来るだけ余計なことが挟まる余地がないようにそれはもう遅くまで時間を潰すために。
「ほいよ、ロッカの分だ」
「ありがとう」
アーサーから熱いコップを両手で受け取り、縁に口をつけながら横目でこっそりユアンを見る。
多分ユアンにもバレバレなんだろうけど、私はこういう、あ、あ、甘そうな関係は持った経験がない。だって、周りは年相応の色気を持ったスタイルの良い友達ばっかりだったし、職場では中学生とかいって笑われる始末だったし、女として扱われてこなかったんだもん。男友達はいたけど圏外でさ、なにかといえば中学から変化の無いちっぱいとか言われてきたし。
思い出したら腹が立ってきたな。
とにかく縁が無かったものに今更急にどんな態度でいればいいかか分らなくてあの空気に耐えられない。そんな色っぽい雰囲気味わったことないし、痴漢以外から触られたことがないし、触られたら反射的に全力で反撃するぐらいの意識が染みついてる。
大体こんな上半身が平たくて、陸上部時代の負の遺産のせいで尻と太腿が目立つアンバランスな体に盛るとかどれだけ飢えてるのかって話じゃない!
女なら誰でも良いのか! 良いってことか! ちっぱいだぞ!
視線を感じて顔を上げるとジャックがこっちを向いていた。無言でガン見されてたことに気付いて焦る。
「な、何よジャック。コーヒーの砂糖なら自分の鞄でしょ」
一番砂糖を消費するから自分で管理をしろと前の町で押し付けた分が残ってるはずだ。ジャックが頷く。
「ロッカがユアンと最近」
心臓が一瞬止まる。
「喋らないから喧嘩かなって」
「気のせいだ」
ユアンが遮った。
あまりにも不自然な早さで返したりするから微妙な間が開いた。しかし、ジャックはこういう時にとことん空気を読まない。
「でもユアンの前だけ無口な」
「ジャックがたまたま見かけなかっただけだ。今日も喋ってたしな。なあ、アーサー」
そう言われると勘違いなのかと思い直したらしく、ジャックは首を傾げた。
「気のせい……」
そこにアーサーがフォローを入れる。
「そうだな。ロッカとユアンの本気の喧嘩だったらもっと派手にやってるって。ジャックは調査隊やなんやでロッカといる時間が増えてベッタリだろ。裏方に回ってる俺やユアンはそれに比べると話す時間とか話題が減ってるから割合的にそう感じるんじゃないか?」
「そ、そうそう」
私は手を打って尻馬に乗る。だが所詮助け舟のアーサーも空気読まず人だった。
「前の町でも昼の配給貰いに行った時にお互いを枕にして昼寝してた姿なんて一年前のジャックじゃ絶対に見なかった光景だしな、ははははは」
仮面が鋭くこちらを向いたのでサッと目線を誰もいない斜め上に逃がす。べ、別にジャックだし、あれは居眠りして気付いたら。
「あ、あー、私今日は疲れてるし、もう寝ようかなあ。おやすみー」
これ以上下手な話の展開になる前にそそくさとテントに入って寝床に飛び込み掛け物を頭まで被って丸まる。
寝るに限る。夢の中は安全だからね!
テントの外からすぐに「んじゃ、俺逹もそろそろ火をランプに移して寝るか」「俺が焚火消す」と後始末をしている声がする。そこへすぐにテントに入ってくる気配を感じた。
「ど真ん中を陣取るな」
イラついた声と共に丸太かのように勢いよくテントの端まで一気に転がされた。強引な移送に飛び起きて目の前の仮面を睨みつける。
「ちょ、別にここまで隅に寄せなくったって寝る場所あったでしょうが!?」
二日目になると人前では仕事をしないコンビが私達が町にいる間に仮住まにもっと手を加えるから余裕をもって休めるようになるんだけど、初日だけはテントの中は限りなく窮屈だ。
そうはいっても大の字で二人分占領してたんじゃあるまいし!
「男の間で寝ようとするな! 君に恥じらいはないのか、恥じらいは!」
「外側だと時々虫が目の前にいたりするから嫌なのよ! しかも今更この仲間内の間に寝たところでどうだって言うのよ!」
「寝返りで偶然にとか色々危険要素がいくらでもあるだろ! 第一普通端から詰めてくだろ、端から。真ん中で寝るとか」
「疲れてたから何も考えられなくて突っ伏しちゃっただけじゃない。口で言いなさいよ!」
「寝入りかけだと君は生返事で無視するくせに。僕は効率良く最初から実力行使をしたに過ぎないっ」
ぴーぎゃーぴーぎゃー言い合っていたらアーサーに「うるせー静かにしろーい」と喧嘩両成敗で叩かれた。
隣に並んだユアンの向こうで、いつの間にか寝る体制についたアーサーとジャックが横になる。仮面と至近距離で向かい合った状態で取り残されたのに気付き、私は慌てて背中を向けて横になった。
<別の日>
「ロッカ、明日休みを申請して町に出掛けないか」
そっぽを向いて腰に手を当てながら放たれた仮面の言葉に、聞き間違いかと思って耳をよく擦る。
人手不足で詰め込み作業をしてる調査隊は、こんな条件で名乗りを上げているだけあって志が高い人員で大半を占めている。だからって休日返上で心身に負担のかかる仕事をしていれば不調の訴えが出てくるのも当然の流れだったわけで、最近になって順番に休暇を取るようになっている。よっぽど重ならない限りは夕食前に町に戻って申請してくれば休暇はすぐ受理されるはずだ。
ユアンが付け加える。
「別に都合が悪ければ明後日でも」
思わぬ直球の誘いが延びそうになって私は慌てて何度も頷いていた。
一人になれる風呂桶の横でコソコソと荷物を探って外出鞄の中身を作り上げていく。目潰しの唐辛子スプレーを詰めたら、今度は少ない手持ちの服をどうするか悩む。髪留めに合いそうなのはこっちだと思うけど全身を映す鏡が無いから実際が分からない。
一緒に出掛ける、つまりデート、しかも町中、なんのつもりだろうか。
人目のある道には出ないと豪語してる引き篭もりが本気なのかが既に怪しい。後で冗談に決まってるだろと言ってくる可能性も大有りだ。そもそも相手はあのユアンだし最初から期待なんてしてないけどね、後で馬鹿をみるもの。よしんば本当に町デートだとしても普通なわけがないじゃない。買い出しぐらいに考えておくのが無難よね。町中ではさすがに襲ってこないだろうけど帰りの森は危ないかも、だから、あれこれ、覚悟はしないとだけど。
握り締めた棍棒を明日持っていく外出鞄の中に取り出しやすいようにソッと詰める。
光がポツポツと出始めた頃合い、町の門周りには守衛と見回りの男くらいしかすれ違う人影はない。少しすると大量の炊き出しを用意するために欠伸をしながら当番が起きてくる。
私は翌朝になってこの浮かれた姿を見られるのが恥ずかしくなり、誰も起きないような薄暗い早朝に『町の門で待つ』と書置きを残して朝食も取らずに飛び出してきてしまった。守衛から少し離れた草むらの辺りに到着して暗い空を見上げる。
待ち合わせ時間決めてなかった。
頭を抱えてしゃがみ込む。完全に昨日から動揺し続けてる。馬鹿じゃないの。しかもこんな薄暗い内から出て来てお洒落してずっとここで待ってたら、デートが楽しみ過ぎて早く来ちゃったんだなって確実に生暖かい目で見守られるじゃない。より恥ずかしい状態になってるじゃないっ!
一度、帰ろうか。いや、そもそもジャックやアーサーと顔を合わせ辛いから早く出てきてるのに無理無理。森の中に身を潜めて待ち人が来るまで隠れる仮面方式は服が汚れるから問題外だし。
どうやって時間を潰そう。
悶々と考えている私の目の前で炊き出しの準備に取り掛かろうとしている集団に目がいった。
下ごしらえが済んで後は煮込むだけになると私は不要を言い渡される。結局好奇心旺盛なオバちゃん達には詮索されまくったけど、道端で長時間立ち尽くす居たたまれない状態だけは避けられたわ。手伝った特典で一足先にスープを貰って体が温まってくる頃合いには空もだいぶ明るくて、食事の匂いに釣られた人も現れ始めてきた。そろそろユアンも目覚めてるはず。
大きく深呼吸をして待ち合わせ場所に戻る。町の門前にいる二人の守衛が私の方を見た。早朝からうろちょろして、一度姿を消して戻ってきたら確かに不審だろうから仕方ない。職質されるかと思ったけど配置についてしばらくしても守衛は仕事をしにこなかった。
時折笑われてる気配がする。いや被害妄想だ。睨んだら負け。仕事中に私語は慎みなさ…………聞こえてるわよ!!
しばらくは普通に棒立ちで耐えていたけど、落ち着かなくて時々物陰を覗いてみたり人が隠れられそうな草むらを蹴ったり石を投げこんでみたりする。
携帯が無いって不便だ。今何処メールをすれば解消される不安の類が地底じゃ標準なんだもの。勝手に待ち合わせの形にしてしまったことを後悔しながら、ユアンが潜んでいそうな草むらをめがけて拳大の石を拾って投げつける。
「はあ」
ユアンに見つけてもらうまで待つしかなさそうだ。
手の土を払って服を改めて見下ろし、左右に体を捻ってスカートの裾を揺らす。炊き出しの人達には可愛いから大丈夫と言ってもらえたけど、ユアンにはどう思われるか分らない。肩にかかりそうなぐらい伸びた髪を梳いて乱れていないか確認するのも何度目になるか。
絶対一生無いと思ってたデート。今なら裏路地を一周して帰って来るみたいなゲテモノデートでも多分怒らない。
そんな感じで草むらに蹴りを入れながら待っていると、誰かの好奇心に満ちた訝し気な声が耳についた。
「何あの人」
ユアンが来たのかと思って急いで辺りを見回した。でも別に先と変わった様子もなく、あの白仮面にローブの不審な人影は見当たらない。そりゃそうか。あの仮面が人目に付くような真っ当な道を歩いてくるはずがない。それに変質者が出現したらもっと騒がれるか。そろそろ来ても良いと思うんだけどな。
もう一度草むらを蹴る。
人の視線を集めたのは向こうから門に向かってくるカジュアルシャツの軽装をした男みたいだ。街道からはずれた場所から現れたのを考えみるに見回りの男衆か。距離が縮まってくると男の顔に違和感を感じ始める。顔に何かつけてるんだ。金属みたいな銀色の光を照らし返してる、顔を片側だけ覆う仮面を。
茫然としてる私の目の前まで来ると仮面で隠されていない顔がハッキリとした。一番酷く爛れた部分だけが覆われ、はみ出した傷や目の下辺りが抉れて歪んでる鼻、いつも目がいく泣きボクロは晒されている。ローブは見当たらない。
「なんで待ち合わせなんだよ」
ユアンが不機嫌そうな顔で冷や汗をかきながら私の前に立っていた。
町の往来をユアンと並んで歩く。
なんだこれ。
誰だこれ。
仕事に向かう人に、子供の泣き声、忙しく朝の采配を振るう主婦の怒声。大通りに面した店はまだ開店してない所の方が圧倒的に多い。でも人は少なくもない時間帯。なのに人前に出ると暗がりに飛び込んで消えるはずの妖怪が私の横を歩いてる。顔は強張って尋常じゃない汗をかいてるけど。
「あのさ、確かに私は日頃から普通の往来を歩けと言ってきたわけだけど、なにもリハビリ無しに急に実行しなくても。今日のところは無理せず目的地までいつも通り裏路地で向かったら?」
会話も一切なく我慢し続けていたユアンが舌打ちをする。
「路地だと君のスカートが汚れるだろ」
人が浮かれきって選んだ渾身のお洒落を忌々しそうに見下ろして、ユアンの目が私の髪に止まる。手が後頭部に伸びてきて髪留めに指が触れると髪を一房梳かれて私は頬が熱くなる。あのユアンが私の服のために妥協している?
何その普通な理由!?
立ち止まって驚愕している私に気付かずユアンはそっぽを向いて足を速めだした。私は離れそうになる背中に精一杯の早足で追いかける。少し先を行くユアンの握り締められた拳が目に入って思わず手を伸ばして手首を握った。でも腕を振るユアンの動きに私の手は滑って、捕まえ損ねたと思った。でも私の指はユアンの拳の中に入り込んで、絡まってて、大きな手に握り込まれている。
見上げたユアンの耳が赤い。
「ち、違うから! 見失ったら普通過ぎて今日のシルエットじゃ判らないから、これは念のため」
手に力が込められる。
なんだこれ。
どういうことだこれ。
これじゃなんだか本当にデートみたいじゃないさ。
何か話さないとなんて考え出すと大体焦って話題が浮かばない。手を繋いで黙々と歩き続けること何十分、頭の中をとっ散らかしてたらユアンが前を向いたまま唸り出した。私はこのきっかけに喜々として乗っかる。
「どうしたの。やっぱり普通の往来だから迷ったの?」
「やっぱりってなんだ! この町にはガキの頃に遊覧で来ることがあったから大方は覚えてるんだよ。そうじゃなくて、朝っぱらから出るつもりがなかったのに君が早々に一人で出発したりするから予定が狂ってるんだ。昼食にと思ってる店が、まだしばらく開店しないんだ。それどころか朝食の時間帯だし」
まさかの藪をつついて私は言葉が詰まる。
「な、なによ。ユアンが時間を言っておかないから悪いんじゃない」
「観劇やパーティでもあるまいし今朝で十分だったろ。大体出る前に普通自分から聞くだろ」
やっと繋がった会話が今朝の失態についてで一気にテンションが落ちた。顔を背けて地面に吐き捨てるように悪態をつく。
「ユアンに正論を言われると本当ムカつく」
「なんでだよ! 君は言い返せない時の理不尽さが毎度、ちょ、痛いから止めろ!」
手に爪を立てると大袈裟に痛がりやがる。でも手は振り解かれない。
「だって」
私は俯いて小声で早口に捲し立てる。
「せっかくだから時間いっぱい二人きりで一日中過ごすんだと思ったんだもん」
「ふぁっ!?」
ユアンの突然の奇声に顔を上げると顔は上空を向いていた。そのまま固まったので手を引いて呼び戻そうとしてみたが顔はこっちを向かない。私ばっかり浮ついてるらしい。馬鹿みたいだ。冷静に考えてみれば当たり前じゃないか。無理をして町中を歩いてるユアンにとってはこんなデート元々楽しいはずがない。だったら何故町中なんて選んだりするのか。森の中だとアーサーの結界が無くちゃ危険過ぎて何処にも行けやしないけどさ。
なんだかバツが悪くなってくる。余らせてしまった時間をどう潰すべきかに考えを巡らせて辺りを見回すと、案外すぐに用事は思いついた。
「そうだ。だったらこの町の店にある商品の下調べに付き合ってよ。他の町じゃ予想外に忙しくて既知のお店への営業すら出来てなかったし丁度良いわ!」
「は!? おい待て急になんで仕事始めようとしてるんだよ!?」
飲食関連で朝食を提供してるのは宿くらいだけど、雑貨系統は逆に朝開店の夕方前閉店が多い。この町もそこは大して変わらないはずだ。細かい商品は分からなくても、どんな店があるか分かるだけでも戦略は考えられる。
「良いじゃないさ。手伝ってくれるお子様達がいない今よく考えたらこれを逃す手はないもん。あんた達全然協力してくれないし」
「冗談じゃない! これはその、デートだから我慢してるのであってだな、仕事のためなんかで人混みの中に留まるなんて」
「とりあえず開店してるお店に片っ端から総当たりしてこうかな。ほら行くよ」
「それにこっちにも計画というものが、っておい、おいって!」
がっつり四時間は仕事したという。
ユアンが吐きそうな顔になって体を横につけながら店の壁を叩いて苛立ちをぶつける。不機嫌満載のユアンに体を折って下から覗き込んでみる。
「久しぶりの本職でうっかり熱が入って時間を費やし過ぎちゃった。ごめんね」
「この仕打ち、覚えてろよ」
「ごめんってば。昼食の時間帯だし予定のお店そろそろ向かう?」
ユアンが負の言葉の詰まった溜息をついて髪を掻き上げる。
「予定は狂ったけど買い物も計画の内だったし、まあ一応良いことにしておく。一応だからな。それで、これだけ店をまわったんだから何か欲しい物の一つでもあっただろ。また戻って来るのも苦痛だし食事の前に予定を消化」
「あー、ないない。無駄遣い出来るお金なんざ無いんだから見て楽しむだけよ。調査隊の報酬は今後の生活の立て直しのためにも出来るだけ残しておきたいしね」
そりゃ今日は、特別少しだけ使うつもりで持ってきてはいるけど。
私は柔らかい革製の外出鞄を外から撫でた。小さな鞄に色々と詰めてきたので少し不格好に膨らむ形になってしまって。
「いや金のことなら僕が用」
「ああ!?」
手触りで鞄の中身が足りないことに、ようやく気が付いた。
「な、なんだよ?」
「セクハラでお困りの酒屋の娘さんの所に唐辛子スプレー忘れてきちゃった」
「待て、それ以前に何故そんな物を鞄に詰めてきてるんだ!?」
「作り方説明する時に渡しっぱなしだったんだ。道理で荷物が急に軽くなったと」
「僕にか! 僕に使うためにか!?」
喚くユアンをすり抜けて慌てて酒屋に凶器を取りに戻る。
しかしその時には父に試し打ちをして効果を実感した娘さんが私お手製の凶器シリーズを物凄く気に入ってしまって、今日にも使いたいから売って欲しいと縋り付かれてしまった。唐辛子の香りが漂う店内の床でのたうち回る父を背に娘さんに長期戦の構えを取られた私は仕方なく重い荷物を千円に変えることとなった。普段なら良い商売になったと喜ぶところなんだけど、棍棒だけかぁ。心許無いなぁ。
店先に出ると顔を引きつらせていたユアンと目が合って、私はあざとさを意識した上目遣いで見つめ返した。
「ごめんね、待った?」
「その前に君の荷物を改めさせろ」
抵抗虚しく鞄を奪われて棍棒を取り上げられた。
鞄が軽くなったことに不満な顔を向けるも無視をされて連れて来られたのはレンガ造りのお洒落な建物の前だった。
「まさか」
身の丈に合わない店の扉を迷わずユアンが開け放って店の中に引き込まれる。大丈夫なのか恐る恐る店内を見回せば天井は高いし所狭しと詰め込まれていない余裕のあるテーブルの配置、小綺麗に飾り付けられた店内。自分の足元を見て顔が引きつる。一般の大衆食堂ならともかく、こんな山道でボロになってる靴で来る感じの店じゃないんだけど。アーサーに連れていかれた食堂と違い過ぎなんだけど。
入口に立っていると店員が寄ってくる。
「お二人様でしょうか。お席はどちらになさいますか」
「目張りがある端の席で頼む」
「ではこちらへどうぞ」
入口で腰が引けているとユアンに引きずって行かれる。これじゃいつもとまるっきり逆だ。周りの人の姿と自分を比較しようにも私の目では当然薄らボケてて判らない。のっぺらぼうがこっちを見てるのは仮面のせい? 服が場違いなせい?
席までくるとユアンが繋いでいた手を離して椅子を引いた。
「早く座れよ」
私が座り終わるのも待たずに立ったままユアンが店員に注文を言って追い払う。私がおずおずと座る頃には店員が去る間際で、カーテンをおろしていった。人から隔てられて対人恐怖の重圧から一旦解放されたユアンは一人肩の力を抜く。
「ふー。しかし君はこういう店が全く似合わないな」
「第一声がそれっ!? 別にちょっと小洒落た店くらい女子会でちょくちょく行ってたわよっ!」
「冗談だ。ここはそこまで萎縮するような店じゃない。ただ労働者がフラリと入るような店じゃないってだけで、ドレスコードもなければ予約もいらない程度なんだ。デート中に飛び入りであんな図々しい営業をするような女が何を気後れすることがあるのやら。というか前から君あんなグイグイやってたのか」
「生活がかかってるのに遠慮がちにやってたら食べていけないでしょ」
「仕事の話になった途端に真顔になるなよ。世知辛くなるだろ」
「結構手応えあったのよね。他の町より店が多くて賑わってる気がするし、調査隊が終わったら拠点にする町はここが良いかもしれないわ。家は一から作り直しになるけど長期的に考えて、北の町は産業が農牧中心だったから依頼が」
「おい、仕事のこと考えだすのも止めろ」
そうは言われてもこの落ち着かない気分を誤魔化す他の方法が見つからない。飾り付けられているテーブルの上に目を彷徨わせると逆効果になる。
噴火が落ち着いて荷物さえ取りにいければ前に奮発して買った一張羅があるし、仕事を再開したら何よりも先に靴買おう…………。
「こっちにこういう店があると思ってなかったわ。町で見かけたことがなかったから、少なくともこの国では外食産業は大衆食堂か喫茶店くらいしか無いとばかり」
「君みたいな貧乏労働者がうろつく辺りには無いからな」
「自分だって勝ち組のお坊ちゃまから落ちぶれたド貧民仮面のくせに」
みすぼらしくて場違いじゃないかばかり気になってたけど、一番大事なことを思い出して私は小声で身を乗り出す。
「それはそうとお金大丈夫なの? 私さっきの臨時収入を足しても三千円位しか持ってきてないんだけど」
メニューも見ずにユアンが決めていたから値段を把握し損ねてる。せっかくのデートなのに最後に皿洗いで賠償なんてオチになるんじゃないでしょうね。
「心配しなくて良い。今日は全部僕が出す」
「ここそんなに安いの?」
訝し気に聞いたらユアンが片面しか見えない目を剥いて身を乗り出す。
「そういうこと聞くか!? 普通に二人で半月分の食費相当だよ!」
テーブルに上半身を軽く乗せた状態で口を半開きにしたまま固まった。町から避難した人間はほぼ平等に持たぬ人だ。しかも調査隊に参加して少ない報酬を得ているユアンの懐事情なんて私と全く同じはず。
「そんなに使うの!? 調査隊の報酬って最終的に確か十万位でしょ? え、一カ月の食費って私がつけてる家計簿では一人大体二万が平均だからそれの半月が一万で二人分だから」
「具体的に計算するな! 本当に無粋な女だな、君は。心配しなくても調査隊の報酬とは別口の金だよ」
ユアンが私の顔面を鷲掴みにして席に押し返された。
「そこら辺に落ちてる額じゃないでしょ。そんなお金、一体何処から」
「調査隊の作業の合間に時間を切り詰めて稼いだ」
憮然とした顔で肘をついて答える。
「金になる物を作って売り払ったんだよ。ただでさえハードな強行軍をさせられてる中で休憩時間を捨てて睡眠時間すら削った代償なんだ。勿体無いだのと使い方に文句を言われる筋合いはないからな」
カーテンが開く。
店員の姿に私は姿勢を正して茫然としたまま運ばれてきた料理を目で追いかける。並べられた綺麗なサラダとスープ。お洒落な食器が並ぶ。丁寧に説明されて店員はお辞儀を残して去っていった。
急に手を出さなくなって、時間を惜しんで木を削るのに没頭しだした仮面の横顔に困惑していた。何を考えているのか分からなくて、体の関係を拒んだりするから面倒になっちゃったのかなとか、人と接するのを厭うユアンなんだからこんな関係にもすぐに飽きちゃったのかもしれないって。
目の前の料理を口にしたら今までの人生で一番美味しく感じた。別になんてこともないサラダなのに。
「これ凄く美味しい。日頃ユアンが私の料理全く美味しいって言わない理由が分かった気がする」
「食材のせいにするな。問題は君の味付けが濃過ぎる点だけだ」
「何よ、アーサーなんかあそこに更に醤油足したりしてるじゃないさ。ジャックなんか目を離したらこっそり煮物に砂糖足してくるんだから」
「たまに馬鹿みたいに甘い煮物が出ると思ったらジャックの仕業だったのか!?」
運ばれてくる料理を食べながら普段と同じやりとりをした。こんな洒落たお店なのにいつもの憎まれ口の応酬で。昨日から準備していたはずなのにデートらしいことなんて何も用意出来てなかったんだ。このままじゃ完敗だ。
デートらしいこと。
食事をしている内に一つ頭に思い浮かんだものがある。でもこれをやってユアンが乗るだろうか? アーサーやジャックだったら普通にやれると思う。でもユアンでしょ?
そんなことを頭の中でグルグル迷ってる内に皿から食事が消えていく。人参が最後に一つ残ったところで私は手を止めて見下ろす。
何もせずに終わっていいわけがない。ユアンがここまでしてくれたのに私が何もしないわけには。でも、こんなのしたことないし。
「なんだよ急に黙り込んで」
もう喋ることにも気が回らなくなって人参を睨みつける。
「ええい!」
勢いで皿にある人参を刺してユアンの前に突き出す。
「ユアン、ほら、あーん」
手が震える。
ユアンがフォークを見下ろして無表情のまま動かなくなった。
と、突然過ぎた。
前後の流れもシチェーションもすっ飛ばしてしまった。やっぱり乗ってこないしさ。どうしよう、えっと、フォロー、言い訳を。
「えっと、ちょっとお腹一杯になっちゃったから、勿体無いし食べて欲しいなって。だから、それでこれ」
く、苦しい!
人参が虚しくテーブルの上で存在感を主張する。
本当に、もっとみんなのデート話を真面目に聞いておけば良かった。自分には今関係無いなんて思わず詳しく聞きだしておけば、この局面を乗り切る参考になったかもしれないのに。
「や、まあ、後少しだから頑張れば食べれますけど」
ユアンの不動さ加減に心が挫けて、突き出していた人参を自分の口に片付けようとした。そのフォークを追いかけてユアンがテーブルに両手をついて食いついた。上に乗ってる皿が激しく音を立てる。至近距離で大きく見開いたユアンの目と見詰め合う。
「あ」
その瞬間「デザートをお持ちしましょうか?」と店員が顔を覗かせた。私はユアンの口に生えてるフォークから手を離して膝に置いて壁に顔を向けて両手で覆い隠した。
恥ずかしい。
引用元:1話冒頭、4話途中