助けなんて来ない
もしも私が人間じゃないとしても、そんな自覚は無いし、あんなことをやりたくはない。
「昨日さあ、夜に地震あったよな。天井裏がミシミシ鳴るから崩れそうで不安で、そろそろ修繕補強しないとまずいかもしれんわー」
「家が軋んでるのが早目に分かったのは結構だけど」
当たり前のように天井裏から話すアーサー。ここ最近は完全に寝床が天井裏に移っている。降りてくるといえばトイレか食卓を囲む時ぐらい。順調に引き篭もり度合は増していく。
「定位置そこみたいに収まらないでくれない? そろそろお子様達の間であだ名が天井裏の三十路王子になりかねないんだけど」
「別にいいだろうが。今まで三人で敷き詰められてた空間がさ、そーんなに広く使えてるんだから。快適になっただろ?」
六畳一間を見回す。
確かに、今までアーサーの寝床があった窓際の部分をジャックが使うようになってから夜中のトイレで誰かを間違って踏むことはなくなった。その陣地替えで私も壁一面を使えるようになり、寝る時には手足を伸ばせ寝返りもうてるという利益を得てはいる。だからってこんな大人を許容して良いかというと駄目だと思うわけで、寝る時だけならまだしもお子様達の白い目が痛いったらありゃしない。せめて突然の来客に備えて日中くらいは普通にしてもらいたい。その来客中が一番引き篭もりたいんだろうけども。
「更には下にジャックとロッカという対人最強人払いコンビを配置しておけば大半の奴は逃げていく。俺も安心安眠の共同生活でみんなが幸せ素晴らしいだろ。そうだ、どうせなら修繕のついでに窓の無い完全防備の快適な部屋へと本格的に改造しちまおうか」
ジャックの強面はともかく私を含められても凶悪なアーサーの虜相手に虫除け効果なんか発揮できないわよ。
天井裏からジャックに「お茶くれ」と頼んで腕を伸ばすアーサーを見上げて、私は不意に頭に過ったことを提案する。
「そんなに人間が怖いなら前に言ってたみたいに、ここから離れて森の中で暮らしちゃう?」
「それ本気で言ってるなら俺は全力で乗っかるぞ」
即答で賛成してきやがった。声がマジだ。
森の中で暮らす。
あの寺から距離をとって身を隠せば土地神の手下は私を見失うかもしれない。泥にならないよう気をつけて穴とかいうのに近づかないようにさえすれば、このまま何も関わらずに済むかも。
「森はやだ」
黙々とパンを胃に収めていたジャックが口を挟んできた。
「このままが良い」
ふーん。
以前同じ話が出た時はジャックだって楽しそうだなんて言ってたくせに。
アーサーは苦笑する。
「まあ今のジャックじゃそう言うよな。最近毎日楽しいかー、ジャック?」
ジャックが力を込めて何度も頷く。
「そっかそっか。じゃあ寂しいけどジャックはここに置いてくかー、ロッカ」
「そうだね。多分ユアンも行くと思うけど」
動揺したジャックが慌てて首を振る。
「私、川の近くが良い。お風呂に毎日入りたい」
「町の門外で暮らすとなるとなあ。結界が作りやすくて大型の獣に狙われにくい場所じゃないと厳しいぞ。となると、んー、やっぱ川の近くは無理だな。色々と寄って来ちまうから。もう少し距離をとって隠れられる位置にしないとな」
「えー。水運ぶの大変じゃん」
言葉が出てこないジャックが激しく首を振る。若者を弄って楽しそうにアーサーが笑う。私も笑いながら、心は軋んだ。
町を出るなんて私だって嫌だよ、ジャック。だってこの地底で私の知る世界はここしかない。私を知る人はここにしかいない。
それなのに。
「…………森で暮らすかどうかは置いておくとして」
首振りジャックを放置して私は立ち上がる。
「そろそろ依頼を貰いに行ってくるわ」
「おう、いつもすまないねぇ」
「悪いと思うならアーサーも一緒に来てくれていいんだけど」
めっきり仕事以外で外に出なくなりつつあることを揶揄したのに、駄目な悟りを開いたアーサーはどこ吹く風だ。
「俺が行っても足手まといだ。依頼も増えて安定収入、今やロッカの交渉手腕に敵う俺ではない。ついては現場で全力を尽くす所存なので適材適所でこれからもよろしく頼むぜ!」
ジャックがアーサーを見上げて「このままじゃ本当に」と森への移住案を危ぶむ。最近、本当はそこに少しの安心感を覚えていたりする。アーサーとは逆に現場で大して役に立てない私にはここで必要とされる絶対的な理由が他にない。
「まあでも」
とっとと支度を済ませて扉に手をかける私にアーサーが言葉を続けるので、振り返ったら天井から何かを投げられた。反射的にキャッチしようと思って足を踏み出したけど私の目では土台無理な話で、大きく外して取り落とした物を手探りで探して拾う。
「ロッカはすぐ根を詰めようとするけど、何か嫌な目に遭うようなら別に依頼はいらないから、さっさと逃げ帰ってこいよ」
手の中には小さな飴玉。
「いってらっしゃい」
アーサーとジャックの声がそろう。私は少しの間だけ立ち尽くして、俯いて「いってきます」と答える。
空を見上げながら歩くといつもより空気が澄んでいた。雲もなく向こう側の大地がハッキリと見える。もちろん私の視力だから当社比というやつだけど。
「空って言っても青空じゃないのよね」
蜃気楼みたいで、これだけはいつまで経っても慣れない。あそこの大地を突き抜けたらちょうどブラジルなのかしら。
店から出て少し歩いた場所で立ち止まって依頼内容を見直す。納期と入手場所を考えてスケジュールを上手く組むのが大事だ。納期が守れず二度と依頼が回ってこなくなるのだけは絶対に避けたいし、同じ場所で別件の依頼もこなせたら往復するような無駄な労力を使うことなく稼げる。効率良く仕事を受けるコツがつかめてきたから前みたいに休日がとれない状態もなくなった。まだ危うい時はあるけど生活は軌道に乗ってると言える。
溜息が出て、頬を自分で抓る。
まだ後一件定時の依頼確認があるんだから、集中しなきゃ。
営業スマイルを作れるように頬を揉みほぐしながら最後の店に向かおうとした時、変なざわめきが聞こえて曲がり角で立ち止まる。どうやらあっちの一角で野次馬が集まっているみたいだ。どうせ物珍しいことがあったかトラブルなんだろうし、いずれにせよ今日はあそこに寄り付かないようにしよう。大回りにはなるけど、せっかく野次馬の作る輪の外にいるんだから関わりたくない。
踵を返して道を変えようとしたところで、野次馬の群れから出てきた人が明らかに私の方を見て立ち止まった。もちろん顔なんて見えないから目が合ったわけじゃないけど、爪先をこちらに変えて近寄って来ているから確かだ。ハッキリしてくるシルエットで徐々に知り合いのような気がしてきて、話しかけられる前にはこの老人がいつもの医者だと気づいた。
「やー、カーペンター君とこの番犬君。仕事かね」
「誰が番犬さ。先生こそ何してんの。急患?」
「ひゃっひゃっひゃ、いんや、何か騒ぎがあったみたいだから覗きに行ってただけ。人が集まってたらとりあえず気になるじゃない」
その会話の最中に野次馬の輪に特攻するもう一人の白衣が視界を過る。
「いつもいつも仕事放り出して、どうせここなんでしょう!? さっさと戻って仕事してください、この糞爺!!」
目の前でヘラヘラしながら医者が向こう側から見えない建物の陰にそれとなく身を隠す。あの看護師さんも大変だな。アーサーの付き添いで診察を受けに行った時もたまにこういう光景を見かけては、ちょくちょく待ち時間が伸びたりしていた。そうは言ってもトラブルで怪我人が出た時に問答無用で駆けつけている野次馬好きの医者がいたからこそアーサーが助かったりしたわけで、一概に悪癖とも言い難いんだけど。特に私の立場では。
医者がポンと手を打つ。
「あ、そういえば昨夜に地震があったでしょ。あれって爆発型だったよね」
「爆発型ってのは聞いたことがないから分かんないけど、地震があったってのはアーサーが言ってた気もする。私は寝てたから気付かなかったけど」
「あれで寝てたって、君やっぱり図太いよね。整備されていない空き家がいくつか倒壊しちゃう程だったのに」
「最近不眠だから一度意識が落ちるとなかなか起きれないだけさ」
「おやおや薬をご所望かね。もちろん金を出せば良い夢が見れるように眠り薬をすぐに処方してやるが」
この医者め。私がろくに金持ってないこと知ってるくせに。
「つまんない挑発はいらないから先生も診察室に戻ったら? 建物が崩れるくらいの地震なんだから怪我人が運ばれて来たりで忙しくなるんじゃないの」
「いやいやこれが地震の実質被害は空き家が崩れるだけで済んだみたいでね、怪我人は出とらんのよ。だってみんな布団の中にいる時間だし」
医者が野次馬のいる方に親指を向ける。
「それに、今はそれどころじゃないかもしれんよ。あそこね、シューッて空気が地面に吸い込まれてる感じの音がしてるんだよ。私も爺さんから聞いたことがあるだけだから確かじゃなくてね、予感が外れてくれる方が嬉しいんだけど、あれって噴火の前兆ってやつじゃないかと思うんだよね」
息が止まる。
「あそこね、どうしても噴火口な気がしてならんのよ。あれ、噴火って若い子は知らない? 噴火っちゅうのは地面から熱い煙が噴き出して、酷い場合は噴石が空から降ってきて溶岩がドロドロっと周りを焼き付くす災害のことだよ。溶岩っていうのは」
人目を憚ることも忘れて大声で叫んだ。
「ま、待ってよ。それって、この町中でってこと!? ありえないよね。だってこんな平地で」
「噴火口ちゅうのは窪地で真ん中だけおちょぼ口みたいに飛び出した形をしとるもんだよ。ここは人の記憶に残らんぐらい長いこと噴火してないから段々分かりにくい地形になっちゃってるだろうけど」
『よく覚えとくといい。一番、低い、場所だ』
幽霊の言葉がフラッシュバックする。
少しずつ周りで人が立ち止まり、聞き耳を立てて「噴火だって?」と不安そうに囁き始める。
「そんな危ない所にどうしてわざわざ町なんて作ってんのさ!?」
「私に聞かれてもなあ。通説で良ければあれだよね、土地神様のご利益である豊饒を求めて人が集まってきて、町を作っちゃったんだろうね。歴史的にみてもそういう町は珍しくないし、ここもそうだと思うよ。それに土地神様は元々噴火を抑え込む守護神だからねえ、神様がいれば何も恐れることはなかったんだろうね。現に何百年も噴火したという記録は残ってないし、大昔はそりゃあ熱心に祀られて信奉されていたそうだから」
上手く呼吸が出来ない。
医者は困ったように髪を撫でつける。
「でもあれだね。最近はあの寺もすっかり廃れちゃってたからね。もう長ーいこと噴火していないもんだから逆に顧みられずお参りもされなくなっちゃって。おまけに住職さんが途絶えて本当に誰も奉納もお祀りもしなくなってしまったからなあ。あの様子じゃ、いい加減に土地神様も町を見離しちゃったかもしれんと思わない?」
ざわめきが広がっていく。
「昨日の地震」
「噴火なんてあるわけ」
「でも、今あそこで」
立ち止まる人が増えていく。
「そんな馬鹿な話が」
そのざわめきを確かめるように医者が視線を巡らせる。
ああ、そうか。
この医者、自信が無いようなことを言いながら確信してるんだ。自慢にならないけど私はこの町で結構顔を知られてるし人目を引く。やたらと目立つ仲間がいるのと何度も騒ぎを起こしているせいだ。それで広告塔に使われたんだ。世間話の体裁で、周りに警告するために。
「どれくらい猶予があるものやら、規模も分からんし、警察に避難を呼びかけても老人の戯言みたいに邪険にされる気しかしないしねえ。うーん、昔に爺さんから聞いた時は興味なかったが、こんなことなら詳しく聞いておくんだったなあ。最近の若い子なんて噴火も知らんぐらいで、集まっとる野次馬も呑気に私の言うことを一笑に付す始末だよ。念のためで良いから出来るだけ急いで避難をするのが賢明だと思うんだけどねえ。昨日の地震で壊れたあそこの寺の近くで耳を澄ませるといい。地面から空気を吸い込みながら地鳴りが鳴るなんて、どう考えても嫌な予感しかせんぞ?」
医者は「ひゃっひゃっ」と笑う。その姿を走ってきた看護師がとらえて「あ、こんな所に!」と叫べば、医者は腕を曲げて走り出した。
「それではそろそろ私は避難させてもらうとするかね。番犬君も賢明な判断を選ぶことだ!」
「もう先生、今度は何処に行く気ですか! ちょっとー!?」
医者の後を看護師が追いかけていく。そこから一拍おいて周りが戸惑いながら早足で、あるいは駆け足でこの場を離れていく。
その時、野次馬が集まっていた辺りで岩が割れるような音と小さな揺れが起きた。異常過ぎる音で一斉に人が引いた隙間から半壊しているもう建物とは言えない姿が垣間見えた。地響きと硬い物が割れる音量はどんどん上がっていく。医者が脅すまでもなく連続する細かい縦揺れが何かの前兆を伝えてくる。恐怖を覚えた声が徐々に大きく飛び交いだして、騒ぎは素早く感染していく。
この町のために、使命を果たせっていうの?
「無理に決まってるでしょ」
後退る。
「どうして私なのよ!!」
髪をグシャグシャに掻き回して苛立ちと恐怖のままに私も走り出す。出来るだけ遠くに逃げるんだ。ユアンだって言ってたじゃない。私がそうだって証拠は無い。誰かがハッキリそう言った? 勝手にそうかもって思ってるだけだ。よくよく調べればきっとマイナーな魔法の一つで体が泥になったりすることなんて特別でもなんでもないに決まってる。そうだよ、自分の手が泥になったりするから気持ち悪くて不安になって、嫌な方に考えてただけなんだ。魔法なんてありえない世界で育ったから動揺しちゃってさ。幽霊なんて不確かなものが言っていたことをまともに受けとめるなんて本当に馬鹿だ。
ポケットに手を入れてネリに貰ったお守りを握り締め走る速度を上げる。
まだ異常を確信出来ていない人が「何かしら、あの音」と不安そうに周りに問いかける。その横を「よく分らないが避難の呼びかけがあったらしい!」と伝えまわる男が現れる。
私は勢い余って扉に激突しながら「アーサー! ジャック!」と中に駆け込んでテーブルにまたぶつかって手をつく。
家の中を見回すと誰もいなかった。天井を見上げて「アーサー、本当にいないの!?」ともう一度呼びかける。
血の気が引く。
「嘘でしょう? こんな時に限って何処に」
とにかく、そうだ、荷物を出来るだけ鞄に詰めこんで逃げなきゃ。
家を出ると外は完全に騒ぎになっていた。うちの連中が堂々と表にいるわけないけど、すがる思いで扉を背に往来を行きかう大量ののっぺらぼうに目を凝らす。いつも通り路地を無理やり通って移動しているとすれば私に見つけられっこない。あの迷路みたいな道は暗記してないんだもの。私一人じゃほとんど分からない。
ネリに貰ったお守りを握り締めたら指先に別の物が当たる。それを摘まんで確かめると小さな飴玉が目に入った。眩暈がするぐらい激しく頭を振って止まりそうな思考を叩き起こす。
「そうだ、ユアン。まさかこの騒ぎでも家の中で引き篭もってたりしないよね」
嫌な疑惑に行きついて唇を噛み、私は進路を北に向けた。
アーサーの家から三つ目の十字路を駆け抜けた時、花火が上がるような音が響いた。誰もが茫然とした顔で足を止めて空を見上げる。
商店街の方だ。
灰色の煙が柱のように立ち上っていて、それが雲を作るように空でヌルヌルと膨らんでいく。こんな写真を何かでよく知っている気がするけど何故か思い出すことが出来なかった。
「なんだよ、ありゃ」
その辺の誰かも同じらしい。現実感の無い呟きで地鳴りが聞こえてきてもまだ足は動かない。灰色の雲が真上にきて町に屋根でも作るつもりらしく外側に向かって空を全て覆い隠していく。
「おいおいおい、まずいんじゃないのか、これは!?」
「いやああ!?」
急に町中に熱風が吹いた。遠くも近くも悲鳴を上げて周りの人達も命の危機を実感して駆けずり回りだしたっていうのに、私は段々と下に降りてくる分厚い灰色の雲からまだ目が離せないでいた。呼吸が早くなるのに全然酸素が足りない気がする。
「噴火じゃ! 昨日の地震で穴が開いて噴火したんじゃ! この町はもうお終いじゃ!!」
膝が笑う。
町の外に逃げなきゃ。
薄暗い町中で逃げる人の流れは滅茶苦茶だ。人にぶつかっても全力で足を前に出して地面を蹴って。だけど私は逃げる猶予を見誤った。荷物なんて取りにいっちゃいけなかった。一目散に真っ直ぐ逃げてさえいれば、医者が忠告していた通り賢明な判断さえしていれば、こうはならなかったのかもしれない。
上を見るまでもなく頭上に迫って来る雲は天井が落ちてくるように素早く覆いかぶさってきて全身を呑み込んだ。火事を思い出して布で口元を覆い目を眇める。粉塵に取り囲まれて薄暗さが一層増した。
こんなの私にはほとんど道が分からないじゃない!
あちこちから聞こえる悲鳴が急に間近で聞こえて、警戒する間もなくまともに横から衝撃を食らった。
「あっつ!?」
地面に転がって剥き出しの肌を地面に摩り下ろされる。地べたに這いずったその直後、顔に風を感じた。直前まで粉塵に隠れていた足が勢いよく目前に現れる。反射的に全身で横へ回避した。元いた場所を力強く大きな足が踏み抜いて叫びながら走り抜ける。
粉塵を吸い込んで口の中にざらついた苦味が広がり、咳き込みながら唾を吐き出す。壁に手をついて立ち上がって、布でまた口を押える。
まずい、まずいまずいまずいまずい!
よく見えもしないのに方角が完全に分からなくなった。遠くですら人の動く影が見えなくなって、声も遠くなっていく。ユアンの所に辿り着くのはもう無理だ。
でも、どっちに行けば。
だって眼鏡が無いのにこんな色の無い所じゃ見えっこない。
「誰か助けて!」
何処かの屋根の辺りで破壊音が連続で聞こえる。噴石が降ってるんだ。
もう直感しかない。壁に手をついて何かにつまずきながらがむしゃらに進む。壁が消えたら何も無い空間を手探りで走って、もう周りには声がしなくなって、心臓は止まりそうなくらい早鐘を打って。
「誰か、私目が悪いの。誰か」
壁を探して手を伸ばしていたのに肩から壁にぶつかって側頭部を強打する。どこもかしこも血が肌を伝う感触がする。何か触っていないと夢の中を走っているみたいで、ちゃんと前に進んでいるのか、真っ直ぐ走れているのかすら分からなくなる。こんなの目を瞑って走ってるのと何も変わらない。
せめて眼鏡さえあったなら、陰影だけでも分かったなら!!
怖い、ここが何処ら辺なのか全く分からない。
「アーサー! ジャック! ユアン!」
口を押えていた布はいつの間にか取り落としていた。壁にへばりつきながら進むが、つまずいてまた転んでしまう。歯の根も合わず、ガチガチ震えて立ち上がれなくなる。
「お父さ」
駄目、こんなんじゃ死ぬだけだ。全力で太腿を何度も叩き、力を振り絞った。なんとか無理やり立って、目の奥が熱くなるのを堪えて足を踏み出した時、後ろから奇跡的に声がした。
「おい、ロッカいるのか!?」
アーサー?
「ロッカ何処だ! いるんじゃないのか!?」
胸から熱いものがこみ上げる。壁から手を離して服を握りしめ、私はアーサーに向かって叫び返した。
「ここ、ここにいるよ! 道が見えなくてどうしたらいいか分からないの。お願い、助けて!」
手探りで粉塵を掻き分ける。それでもこの分厚い壁はどいてくれなくてアーサーを見つけられない。
「大丈夫だ、俺が声で誘導するから頑張って走れ! こっちだ、ロッカ!」
震えが吹き飛んだ。
唇を噛みしめて声のする方に向かって走る。
「ねえアーサー、ジャックとユアンは一緒じゃないの?」
「そっちは心配しなくても大丈夫だから早くこっちに来い!」
「ま、待ってよ!」
粉塵を突き抜けて走る。耳を澄まして恐怖を無視して、ただただ無心でアーサーの声を必死に追いかける。「こっちだ」という声に励まされて。
粉塵が少し薄まって景色が薄っすらと見えてきた。そして遂に綿を抜けるみたいな音を立てて私は粉塵から抜け出せた。
やった!?
笑みが零れて目の前にいるアーサーを探して顔を巡らせた。景色を見回して、走る足の速度を緩めて、私は目の前の光景に立ち止まった。
激しく地面から吹き出す灰色の柱が空に向かって真っすぐと伸びていた。空で膨らんだ粉塵は重力に引かれて放物線を描き、傘を作って町を押し潰している。それが息苦しいドームの壁になってこの空間を閉ざしていた。皮膚を炙って溶かすような熱風が吹きつけ全身がひりつく。目の前には勢いで吹き飛んだ瓦や壊れた壁の建物があった。
足で何かを蹴ってしまい見下ろす。真っ白になった頭でそれを拾い上げると、それは足の無いクリーチャーにしか見えない不気味な、あの土地神の御使いを模したであろう神像だった。
「ひっ!」
取り落とす。
「アーサー?」
震える声で名前を呼ぶ。
返事が、無い。
背中に感じる視界がゼロの灰色の空間にまた包み込まれてしまいそうで、ふらつきながら前に進む。崩れた建物から伸びる柱の根本には大きく割れて開いた木床があった。嫌な匂いが鼻について一気に気持ち悪くなる。
誘き、出され、た…………?
膝をついてくずおれる。
土地神の寺が真上にあって、人がよく消える場所。神隠しに遭う人間と泥人形が穴を埋めて消える場所。多分あの地下にあった底の見えない井戸をアーサーもどきが見せたのは、あれが私の墓場になるってヒントだったんだ。
医者は土地神が見捨てたから噴火が起きたと言った。違う、土地神はこの町を見捨ててなんかいない。ここからそう遠くない場所で私はヘドロが穴を埋めているのを見た。そしてこの町の穴を埋めるための泥人形は今回もきっちり用意されていたんだから。
私が従っていないだけで。
土地神は人を守り助けようとしている。私は世界を円滑に回していくための土地神の部品。町で今も逃げ回って助けを求めている人達を助けるために、今も土地神が不良品を導いた。私はこの世界や人を助ける側で、助かる側には入っていない。
ここ、爆風に粉塵が押されて広がってるから真下だけ開けてるんだ。台風の目みたいなものなのかな。
馬鹿みたい。助けてなんて地底に来てから何度も言ったけど、助かったことなんてなかったじゃない。何度も口にしてるのに、家族の所に帰れはしなかった。生活は苦しくて、敵ばっかりいるみたいなこの町が正直怖かった。あまつさえ、神様ときたら助けてくれるどころか私を殺すために導いてくる。
私の目じゃ、もう逃げ道なんてわかりっこない。
この世界で私に助けなんて来るわけがないって、いい加減に諦めて、そんな言葉忘れてしまってれば良かった。
目を瞑って俯く。
もう、何も、見たくない。
「やっぱり私は泥人形だったんじゃない。ユアンの嘘つき」
半年間もこの町で過ごしてから教えるなんて土地神も鬼畜過ぎるんだよ。私が役目を果たせばこれは収まり、この町の危険はなくなる。もっと早く分かっていれば町で知り合いなんて作らなかった。誰がどうなろうが使命も町も知ったことかって。正気でこんなこと出来るわけがない。最後まで無駄だろうとあがいて生に齧りつきたいんだもん。
この町で知り合った顔が浮かぶ。
きっと怖がってる。
危険な状況で逃げ惑いながら。
困難に立ち向かうの、苦手な奴らだもんね。
ああ、そういう思考回路も結局全ては神様の定めた予定調和の上ってことか。
「どうせ死ぬなら…………」
震える両腕を巨大な噴火口に向けて伸ばす。指先から溶け出すように沸きだして皮膚を伝う泥が、地面に落ちた。




