モザイク処理は故障した
湿度が高い無風の室内はサウナの様だった。自分の息すら暑くて、見上げる天井が心なしかいつも以上に霞んでるような気がする。汗がとめどなく流れて顔から首を伝って床に滴り落ちていく。少しでも床の冷たさにあやかりたくて服を捲り上げてみても地底の夏は地表からやってくるらしく岩盤浴でもやってる気分。何もする気にならない。胸元の服を動かし空気を入れる手にも力が入らず、徐々に力尽きていく。
「あのさぁ」
「いやぁ、暑くて死んじゃう。もう、だめぇぇぇ」
張り付く前髪をかき上げて苦痛に喘ぐ私に、テーブルに向かってチマチマ作業をしていたユアンが手を止め頭を抱えて天井に向かって喚く。
「ふざけんな腹をしまえ! 胸元をパタパタするな! 変な声を出すなあああ!!」
「窓開けてこっち来て扇いで。熱中症で死んじゃう」
「大体どうして君はわざわざ僕ん家にバテに来てるんだよ!? 自分とこでダウンしててくれよ!」
最近は戦略的な営業の甲斐あって収入が安定しているもんだから、依頼の間に出来た暇を喫茶店のバイトで埋めることもなく完全な休日にあてることが出来ている。本当ならショッピングとかしたい。でもそろそろ身体的に限界だったの。
「クーラーも扇風機も無いのに薄着になれないんだもん。女性恐怖症に退化した今のアーサーに女だってバレたら追い出されるかもしれないし、そうならなくてもこんな格好でいたら目に毒というか発狂しそうだから仕方ないじゃない」
「そんなの僕だっ……」
言いかけでユアンが咳き込む。
「死んじゃう」
ジャックはパンツ一丁になって団扇で満足。アーサーは平然として窓開けてくんない。こっちに避難しても窓はやっぱり閉めきってる上に普段通りの仮面にローブときたよ。もうこいつらの引き篭もり具合ときたら玄人というか、頭おかしいとしか思えない領域だ。
せっかくの休日も夏に突入してからは気力が何も湧いてこない。私は元々毎年夏バテするわけね。それでもクーラーがあれば元気になれたのに電化製品が恋し過ぎる。
「おい、ロッカ」
床が軋んでユアンの近づいてくる気配がする。
寝て昼間の時間をすっ飛ばしたい。でも寝れそうで寝苦しくって意識が落ちない。目を瞑って大きく呼吸を繰り返す。
そこで生温い風が顔に当たった。薄目を開けると横に座ってユアンが薄っぺらい本で私に風を送っていた。窓が少し開けられて外の音が聞こえてくる。風に刺激されて汗がお腹を滑っていくこそばゆい感覚がする。うつらうつらとしてきた私は、そこからいつの間にか意識が沈んでいった。
『六花! もう、良い年頃の娘がお腹なんか出して止めてちょうだい』
扇風機に当たりながらグッタリ寝ている私の横をフローリングを軋ませて母さんが通り過ぎる。台所に行ったのを床を通じて感じながら狸寝入りをしていると、母さんの意識が別に向いた。
『ちょっとお! 樹、あんたまた裸族なんかして。服を着なさい、服をっ』
『暑いんだから良いじゃん。休みくらいはスーツを脱ぎさり、何物にも縛られることなく緩やかに生きたいんだよ、俺は。それに親父だってパンツ一丁じゃん。そんな親父と結婚したお袋はそういう俺もきっと愛せるはずだ』
『樹よ、父はパンツでお前は丸出し。これは犯罪者と一般人くらいの差があるのだ。考えてもみろ、玄関先で急に六花の友達が訪ねてきた時に対応出来るのがどちらかということを』
父さんの言葉に母さんが冷たく言い放つ。
『二人共、その姿で玄関から先に出たら切り落としますからね』
『何を!? もしかしてナニを!? そんなことしたら可愛い孫の顔が永久に見れなくなりますけどお!?』
『孫を作りたかったらまず彼女作ってきなさい。休日にそんな格好で嘆かわしい』
階段から騒がしく駆けおりてくる音がして今度は弟が飛び込んでくる。
『母ちゃん、俺の部屋勝手に掃除すんの止めてって言ったじゃん! 勘弁してよおおお!!』
『知らないわよ。六花が二階掃除してたからついでにやったんじゃないの? 草司が部屋にお菓子持ち込んで片付けないからゴキブリなんか出して昨日喧嘩してたじゃない』
『姉ちゃん!』
煩いなぁ。
でもなんだかほっとするなぁ。
何処か懐かしくて、胸が苦しくなる。
起きたい。
起きて、顔を見たい。
寂しいのは嫌。
目が覚めた瞬間に天井に向けて伸ばした手が空を切る。
「夢、か」
大きな溜息をついて顔を拭う。横を見ると仮面が横で床に転がって寝ていた。さすがに暑苦しそうなローブを脱いではいるが仮面は蒸れるだろうにつけたまんま。
ユアンを急に訪ねると時々仮面をつけていなくて、慌てて奥に引っ込むことがある。つまり家にいる時はアレ外してるのよね。こんなに暑いのに頑なに仮面を外さないということは、つまり私に顔を見せたくないということだ。
一番苦しい昼間を通り越してだいぶ過ごしやすい気温まで落ちてきた。体は怠いけど動く気力は戻ってきた。腹這いになって肘をついてユアンを起こさないように仮面をはずして横に置く。
近くに寄って覗き込むと瞼の無い右目がギョロギョロと泳ぐけど私のことは見えてない。反対の目は油断しきって閉じられたままだ。引き攣れた肌にも汗は浮かぶけどそれも左だけ。右側は溶けて鼻も半分は崩れている。
「こっちから、何か浴びせかけられた、ってことなのかな」
アーサーからはごく稀に家族の話を聞く。少し離れた町にいて、ストーカーが怖くて故郷を離れただけで仲は悪くないんだって。ジャックは怖がられてたし町にいられなくなったからしか言わない。ユアンは、まったく喋らないから何も分からない。どうしてこんな顔になったのかとか、家族はいるのかとか、私のことが疎ましかったりするのかな、とか。
しばらく眺めてたけど起きそうになくて、目元のホクロをつついてやると「うー」と呻いて神経質そうに顔を歪めてそっぽを向かれた。起きそうにない。
仮面をユアンの顔に戻す。それで、なんとなく周りを見回した時、不意に良いことを思いついた。
「ふっふっふ」
立ち上がって私は服に手をかける。
「おーい。そろそろ起きろー。夜寝れなくなっちゃうぞー」
「んんーっ」
不機嫌な声でモゾモゾ起き上がるユアンは寝惚けたまま俯いて首を撫でさする。床で寝たせいで体が痛いんだろう。私は座布団生活で慣れてるけど。
「起きたあ?」
仮面にデコピンを連続で打ち込むとカツンカツンカツンと木の軽快な音が鳴る。
「あー、くそ……いつの間にか寝てた。作業出来てないのに」
顔を上げたユアンが私を見た。目の前で待ってた私はワクワクしながら笑顔で反応を待つ。ユアンが無言のまま首を撫でる手も含めて静止している。
「ふふふー、どうよ? へそ出しで巻きスカートの南国ルック。上のシャツは結んで下はそこらの布を拝借しましたー。今限定ロッカちゃんの貴重な大胆セクシー生足だぞー? ほれほれぇ」
立って目の前でクルリと回ってみせる。ここに来た当時よりは少し伸びた髪を木製の洗濯ばさみで留めてみたんだけど、この家には鏡が無いから出来具合がいまいち分からない。
「少しはドキッとしたでしょ! こんな格好数カ月ぶりでテンション上がって調子に乗っちゃった。ま、胸が無いのはご愛嬌だけどクビレとお腹は日頃分厚く布で補整してる副作用でグッと引き締まって」
バサッと頭から布が降ってきた。膝辺りまで包まれた突然の暗闇の外で「モザイク」とユアンに言われた。
「……なんでよっ」
布を床に叩き付けたら、掛けられたのはユアンのローブだった。
「どうしていきなり全身モザイク!? 気の利いた言葉なんかまったく期待してなかったけど、せめてちょっとは褒めなさいよっ。女らしくとかいつも言ってくるのあんたでしょうが!」
「奇襲は卑怯だし、露出し過ぎだし、何考えてるし」
顔を背けて半腰のままユアンが後退する。こっちを見ようともしない反応に一気に気分が下降する。
そこまで拒否しなくたってよくない!?
「大体コンピュータも無いのにモザイクっていい加減にしなさいよっ。寺は辛うじて地表から落ちてきたんだろうなってことにしてもいいけど、たまに出てくるそういう近代用語はどう考えてもおかしいでしょうが。あんたら意味分かって使ってんの!?」
「途中から話が逸れて意味不明だがモザイクなんてエロ本でちょっとアレな部分をハッキリ描かないぼかしで多用されてるんだから意味なんて誰でも」
「エロ本?」
「あっ!? って、別にこれは僕が買ってるとかじゃなく男なら知ってて当然なアレであって」
「ほぉ……エロ本は見るのに、私の女装は、見るに、堪えないと」
「いやだから、ちょっとエロ本のこと忘れてくんない!?」
「ああそう、乳ね。これだからおっぱい星人は、どうせ私は寄せて上げてもちっぱいですよ。男に間違われるような女のこんな格好なんて視界の暴力ですか、ああそうですか!」
「わあああ!! その恰好で僕に近づくなあああああああ!?」
ユアンが後ろにひっくり返り背中をテーブルにぶつけて両手をついた瞬間、テーブルが傾いて乗っている物がこちらに向かって滑り落ちる。上に乗っていた物が軒並みボトボトと落ちる中、割れ物が無かったものだから油断していた。
テーブルに乗っていたヒョウタンみたいな物が床に落ちた時、蓋が軽快な音を立てて外れ床をコロコロと転がっていった。中に水が入っているわけでもなくて外れた瞬間には何も出てこなかったんだ。でも一泊置いて入れ物の口から大量の黒くて細長い物が蜘蛛の子を散らすように床に広がりだした。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?」
鳥肌が足の指先から頭のてっぺんまで駆け抜ける。暗い部屋でこの視力、ハッキリと分からないけど黒い点が床や壁を凄い速さで移動し始めた。凄い数の粘着質な音が台所に出現するあの害虫みたいな速度で何かが、何かが、何か分からないけど「いやあああああああああ!? いやあああああああああああああああああああああ!?」足元に寄ってくるうううう!!
「あ、ああ。やばい、蛭が逃げたな」
足で威嚇するけど完全に囲まれている。蠢く黒い何か、何かっていうか昼? ヒル? 蛭!?
「なんで蛭がいるのよお!?」
ユアンに飛びついて腕にしがみつく。
「うわああああああああ!! ロッカッ、君、あた、当たって」
「やだあっ、いや、いやああああああ!! なんで蛭があんなに素早いのよお、あっち行ってよお!」
「ちょ、落ち着いてくれ! あれは別にそこまで危なくないって! 内職しようと思って受けた依頼で預かってる医療用のやつで薬になるやつだから病気も持ってないから心配ないよ!」
「でもでもこっち狙ってるみたいな動きしてない? ねえ、なんかジャンプしてるのいない?」
「それはまあ、あれ吸血動物だから……チクッと噛んだりは」
「噛む?」
涙が目からボロボロ落ちる。
見たくない、けど、目だけを動かして蠢く黒い点を確認する。
いる。いっぱいいる。けど、動いた時にそれが蛭だと分かるだけで、それこそモザイクだらけで何かがいるってことしか分からない。腕も、お腹も、足も心もとなくてユアンに張り付く。震えが止まらない。
「うー、ヒック、うえ、ヒック、うええっ、ヒック、ふうぇぇっ、やだぁ」
「分かった! 分かったから、ちゃんと僕が誘き寄せて捕まえるから、とにかくロッカは目でも瞑って我慢してればいいから、頼むから、そんなにっ」
距離を縮めてくる黒い点が、這いずる音が、一匹跳んだ!
「や、ユアン!?」
叫びながら片手が空を掻いた。体が引っ張られて背中から左肩が圧迫されて前に押し付けられたせいで顔が押し潰された。
泥が叩きつけられた音がなる。
「なんだ、これ」
呆気にとられたユアンの声に、怖くて顔を上げられずに胸中に顔を埋めたまま「何? どうなったの?」と聞く。
「ロッカ、君の手からなんか、出たぞ」
意味がわからずに恐る恐る顔を上げる。ユアンが見ている方向、空中を掻いた方向に顔を向ける。極至近距離に赤茶けた物が床にへばり付いていた。それに包まれるようにして黒い何かがうねっている。
「ひうっ! 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」
視線を更に壁に向けて辿っていくと赤茶けた何か泥の様なものがペンキを撒いたようになっていた。即刻乾いて固まったようで蛭はその場で頭を振っている。
「あれは、泥だな。地術ってやつか? 君こんなもん使えたのか」
「ちじゅつ?」
意味が分からなくてユアンを見上げる。
「…………いや、下向いててくれる」
頭を上から押さえつけられる。
押さえつけられる。
グイグイ、グイグイと。
下を向いたら自分の素足に付いた黒いものが目に入った。黒くてぬめりを帯びた細長い蛭が静かに密かに肌を這い登っているのが。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「げふあっ!?」
頭の片隅に、しっちゃかめっちゃかに振り回した手が弾力のある顎を打ち抜く手応えがあったな、ということだけ辛うじて記憶に残っていた。
元の入れ物にピンセットで蛭を戻しながらユアンが「五十四、五十五、五十六、えーっと」と数えながらテーブルに戻ってきて、ようやく椅子に腰かけた。土で床に固められた分も生きていたらしく最後に丁寧に汚れをはがして回収していた。その割に作業は案外早かったように思う。
隣の椅子の上で三角座りをしながら私はユアンの背中を力いっぱい叩く。気が済まないから叩く。それにユアンはこっちも見ずに「痛い、痛いって、痛いから」と言いながら視線も向けずに道具を片付ける。
「言っとくけどこれしばらく飼うんだぞ。薬関連は実入りが良いんだからな」
「怒ってる」
「そう思うなら何故叩く」
「私のせいじゃないもん。ユアンがテーブル倒して逃がしたんだもん」
「分かってるし怒ってないけど何故叩く」
「虫がいっぱい気持ち悪い」
「仕事だからな。叩くのやめろ」
攻撃の手を引っ込めて膝の間に顔を埋めて縮こまる。
「なんで平然としてるのか分からない。変質者だから?」
「誰が変質者だ! むしろ男の部屋で露出度の高い服で挑発してくる君の方が痴女だろうが」
「ムッツリスケベのくせに」
「何を根拠に」
「今日のことなんだから胸に手をおいてよく考えたらすぐ分かるでしょ」
「は? え…………え!? き、きき、き、き君まさか、あの時まだ、起きて」
「エロ本購読者のくせに。おかしいと思ってたのよね。掃除の時にやたらベッド周辺で妨害してくるし。最近はそうでもなかったからどうせ隠し場所でも変えたんでしょ」
「違うんだあれは魔が差し、なんだそっちか」
「どうせユアンもオッパイ星人なんでしょ。けっ、男ってやつはどいつもこいつもちっぱいだのロリコン向けだのと」
「あー、蛭の話はどこにいったんだ」
掌に腹立ちを全て込めてユアンの背中に叩き付ける。
「その単語出さないでよ!!」
「あ、いったああああああああ!?」
ユアンが反り返って背中に両腕を伸ばす。ヒョウタンが横に倒れたものの蓋は開かなかった。
「帰る。晩御飯作る時間だし」
「今日は夕飯何作んの?」
「決めてない」
結んであったシャツを解いて元に戻して、椅子から降りて端に寄せてあったズボンを拾いに行く。
「おい、ここで着替えるな。あっちの部屋でやれよ」
「別にスカートの下からズボン履いて終わりだからお構いなく」
「僕が構うんだよっ」
お金をやり繰りして早く夏服手に入れなきゃな。でも、どうせ可愛いのなんて買えっこないんだから男共から借りて着回しときゃいいのか。でもジャックも手持ちの服はほとんど放火で焼けちゃってるから、どっちにしろ服は買い足さなきゃいけないよね。
暑苦しい長ズボンに足を通すと足の裏に冷たい感触が触れて裾口からボトボトっと何かが落下した。床に視線を落とすと、黒いぬめりを帯びた何かが動き出した。
グッタリしたユアンの袖をつかんでベソをかきながら帰宅すると、ジャックとアーサーに出迎えられた。
「ヒック、ヒック、うー」
「……何があった?」
「ユアンに苛められた」
「悪質な嘘は止めろ」
鼻をすすりながら目をこする。
「今日ご飯作りたくない」
「いやまあ、なんかロッカ遅いからもう俺が作っといたけど」
この日、私は久しぶりに他人の作った晩御飯を食べた。
「男飯」
「ベソかきながら文句言うんじゃありません」
美味しかった。