眼鏡なしで異世界!
視力0.01。
これは眼鏡がなければすれ違う人皆のっぺらぼうに見えるレベルのド近眼だ。コンタクトレンズは目に合わないので起きている時に必ず眼鏡が必須になる。眼鏡はオシャレの邪魔物であると人は言うが、私は眼鏡を顔の一部だと思っている。その眼鏡が壊れた。
この眼鏡が存在しない異世界で。
割った男が「ああ、悪い。そんな所にいるとは思ってなかったから。なんだその、弁償するから許してくれ」と言っている。もちろん顔なんぞ見えん。歪んだ空間から捻り出されるように投げ出されて着地したら怪物がいて、この男が手からなんか出してファンタジックに倒してしまった。目の前に倒れてきた怪物にトドメを刺そうと派手なアクションで飛び上がり、腕を振りかぶったら竜巻が生まれて透明なドリルよろしく怪物の頭に穴をあけた。その風圧を近くで受けた私は勢いよく跳ね飛ばされた。スローモーションに感じた視界で遥か上空に太陽じゃなくて逆さまの町が浮かんでいる様が見えた。直後に地面へ叩き付けられるが慌てて上体を起こし、でも目が回って座り込んでいると怪物を乗り越えて魔法使いが私の前で着地したんだ。その時に不吉な音が鳴った。バリバリとかガチャンとかのガラスが駄目になる音がだ。
心臓が凍る思いで目の前を見た時には世界が滲んで輪郭のハッキリしない視界だった。焦って眼鏡がないのを両手で確かめた。そして音がした所を見下ろした。よく見えないから大きな足が踏んでいる黒縁の眼鏡らしき残骸に顔を慌てて近づけたよ。眼鏡を踏んでいた足が驚いて後退するとガラスが靴の裏から零れ落ちて散乱する。ああ、なんてことだ。眼鏡のフレームさえも折れていて原状復帰はもはや絶望的、悲鳴を上げた。
「眼鏡屋は何処なの!?」
無情にものっぺら男はのたまった。
「メガネって……なんだ?」
逆上した私が腕を振りかぶって殴った拳が男の顔面にヒットした。
のっぺら男の声は苛立ちに満ちていたが親切にも町まで連れてきてくれた。倒した怪物のグロテスクな死体を運ばされはしたが、広い心で気にしないことにしよう。怪物は換金所に持って行くと一袋の財産へ変わった。生臭い店内を後にして、立ち止まったのっぺら男が何処かを指す。
「おい坊主、とりあえず荷運び代として奢ってやるから飯にしようぜ」
「この恨み晴らさでおくべきか」
「怖いこと言うなよ。食った後にメガネの情報はちゃんと探してみるから」
香ばしい匂いのする建物へ入っていく男の後を目をすがめながら見失わないように追いかける。案内もなく空席に腰掛けるシステムらしく男に倣って席へつく。改まって向かい合うと男は上体をそらせて引きつった声で抗議してきた。
「そう睨むなって。とりあえず飯を食う仲なんだ、楽しくいこうぜ。俺はアーサー・カーペンターってんだ、よろしくな」
手を出してきたので握り返す。
「御手洗六花だよ。別に睨んでない。眼鏡がないせいでよく見えないから自然と目を眇めてしまうだけさ。目が悪いと目つきが悪くなる。昔よくガンつけてると思われてガラの悪い連中に絡まれた……良い思い出じゃない」
「そりゃ悪いことを思い出させたな、ロッカ」
「名乗り方を間違えた。ロッカ・ミタライだから」
「ああ名前が後につく国柄なんだろ。そういう文化くらい知ってる。名前がロッカだな、響きがそうだ」
「いきなり名前で呼ぶなんてなれなれしいんだが、カーペンターさん」
「堅苦しいのは好きじゃなくてね、ロッカさん。警戒心の強い子供って損しやすいからここは折れておくことをお勧めするね」
道中に坊主、坊主と連呼していた男は年上ぶって偉そうに言うのだ。今度こそ疑いようなくへの字口をつけて睨めつける。無精な背格好や日本人らしい貧相な体系も相まって男だと思われている。そして実年齢より下に見られている。わりと最初から気づいてはいたんだけど、子供だと思われていた方が何かと甘く事が運ぶだろうと認識間違いは追及していない。ここは我慢して譲るべきところ。
「それでロッカは小さなカバン一つでどっから来たんだ? 隣町か?」
「急にぬかるみにはまったような感覚がして体が霞むから何事だと思ったら、洗濯機で回される衣類の気分を味わってブリッと放り出されたのさ。簡潔に言うと空に星が浮かぶ異世界からじゃないの?」
肘をついてカーペンターは呆れた気持ちを隠さず溜息をつく。
「はあ、空にホシが浮かぶ異世界ねえ。俺はここで採取屋やってんの。三泊程度の距離範囲で仕入れやってんだ。西は港から東は山脈まで手狭にね。でもまあ今回は馴染みの人夫と解体屋が別件に取られてたんで久々に一人で小遣い稼ぎしてたわけよ」
「カーペンターさんって魔法使いなんだよね。異世界に帰る手段とか心当たりないの? この際手伝ってくれるなら眼鏡の件は不問にするんだけど」
「賃金稼いで港から船にでも乗ればいいんじゃないか? んでもって俺は風使いな。見てただろ? 俺のよく修練されている技能を」
「至近距離で見せつけられたからこそ今があるのさ。直後に眼鏡を踏みにじらなければ称賛したかもね、それこそ目を見張ってさ」
沈黙が落ちた。夢の世界と同様に私の世界はフワフワと滲んで形を持たない。あやふやな輪郭と周りの雑多が生み出すBGMを背景に、のっぺら男のカーペンターは首を落とす。
「だからゴメンって」
眼鏡は近眼の目玉だ。それをわざとじゃなくともグチャッと潰されたのだ、想像して欲しい。
…………無茶苦茶痛いだろうな、嫌なものを想像してしまった。
呻いたカーペンターの声を遠くに聞きながら意識は元の世界へ向けていた。外国に拉致誘拐されたって自宅に帰れないエピソードが溢れているっていうのに、世界を超えた落とし穴に落ちた場合は何万倍確率が下がるのだろうか? 意図的に世界を移動させた犯人がいれば帰る道筋を問い詰めることも出来るだろうが、よく分からない偶発的な理由で世界を超えてしまったかもしれない。どんな出来事にも誰かの意思が介在しているわけじゃない。後者なら世の科学者が解き明かしていないものを私の知能指数で調べられるわけがない。
ならば…………嫌だ、まだ考えたくない。
ほとんど出ている結論を追いやって無理やり蓋を閉めた。いつか来る悲しみだとしても、今感情に流されてうずくまったりしたら、きっとこの身一つすら保てない。
「仕事、こんな目じゃ仕事できない。食べていくには働くしかない。なんということだろう、異世界に来て左団扇の貴族様なんて都合の良い環境設定選べるわけない。なのに最初から私の目玉が半分削ぎ落とされたのだ。なんて酷いことをするんだろう、こいつ」
「おいおいおい、黙って聞いてりゃ人聞きの悪いこと言うな!」
「眼鏡を失ったということはそういうこと」
「そ、そうなのか」
よし、この男そこそこお人好しで押しに弱いぞ? 罪悪感を煽っていく作戦でいこう。
「目が見えない私が働ける職が必要だよね。でもそれってきっとまともな仕事じゃないんだろうね。絶望で胸が潰れそう」
「お前……嫌な奴だな」
「人生最大の最悪な転換期に眼鏡を失った私に手段が選べるか」
子供のフリをすることにしたにしろ、中身まで誰かの助けを待つ子供では助かるものも助からないじゃないさ。