天使と鬼畜(前編)
「ごめんなさい。私、隣の高校の先輩と付き合っているから……。でも気持ちは嬉しいよ。これからもクラスメートとして仲良くしてね」
濃い琥珀色の大きな瞳でそう微笑み。ペコリと頭を下げて歩き出す、学校一の美少女麻里奈。
『隣の高校』は麻里奈達の通っている偏差値四十のこの高校と違い、偏差値七十以上のエリート高校である。告白した少年も学校で二番目の美形で、サッカー部レギュラー、成績も高校の中では優秀なのだが。 賢い人が好きな麻里奈にとっては、同じ高校というだけで恋愛対象外であった。がくっと膝をついていた少年の耳へ。さらに心を害する音が響いた。
「あ……」
彼が見たのは。細く無気力な瞳、微妙に小太りな体型の少女が慌ててパスケースを拾う光景だった。歪んだ軌道で猫背を向ける少女へ、少年は声をかけた。
「……聞いてたのかよ」
麻里奈に告白したのとはまるで違う、負の感情の滓がまとわりつく濁った声。それを吐き捨てる様に発しながら、美少年はその小太りの少女を睨む。少女は背を向けたまま、肩を震わせてしどろもどろに答えた。
「だ、だれにもいわない……」
「……お前…今、ざまあみろって思ったろ……」
「そ、そんなことない……」
獲物をじっと見つめる蛇のように。どす黒く攻撃的な眼差し。それを背中に感じた小太りの三つ編み少女は、慌ててその場を走り去った。
……教室に入った少女は、自分の引き出しから宿題の出ている教科書を取り出し。顔を教科書で隠して一瞬だけ微笑んだ。少年の勘は当たっていたのだ。
三つ編みの少女・田中昭子と、麻里奈にふられた少年・桜井は中学三年時に同じクラスであり。受験のストレスに蝕まれた桜井は、隣の席だった昭子に様々な嫌がらせをしたのである。
嫌がらせのローテーションは。昭子の引き出しにゴミを入れる(毎週月曜日)、体操着袋の中に粘土を入れる(火曜日)、ペットボトルに消しゴムカスを入れる(水曜日)、同じく温泉入浴剤を入れる(木曜)、昭子の机にひっかき傷をつける(金曜日)である。几帳面な桜井は完全犯罪を達成し。元々無気力で暗い顔がさらに暗くなっていく昭子を見ては、心でせせら笑っていた。
一方昭子は、一見優しげな彼が犯人だとはすぐに気付かなかったのだが。入っていたゴミ(消しゴムのカス)が桜井が使っている蛍光ブルーだったこと。そして嫌がらせのローテーションが非常に規則的だったこと(昭子が最初に疑っていた生徒はずぼらな性格なので容疑者から外れた)。そしてトドメに彼が落としたペンを拾ってあげた時に汚物を見つめるような目で一瞬見られたことから、段々桜井が怪しいと思い始めていた。そして。彼が犯行に使われた入浴剤の香りを纏って登校した日に、その疑惑は確信となった。その入浴剤は非常に珍しい香りであったし、いい香りだね、と昭子が思い切って話しかけたときに、顔色がかすかに変わったからである。その瞬間に昭子は担任に訴えたいと思ったのだが。思考を巡らせた結果、担任への直訴は断念することにした。消しゴムのカスも他のゴミも捨ててしまったし、桜井の香りがペットボトルと同じというだけでは、人当たりのよい桜井を糾弾できるほどの証拠にならないからである。
こうして状況の不利を悟った彼女は嫌がらせに無言で耐え。ひたすら三月を待つことにした。桜井は昭子と志望校が違ったからである。桜井の受験する高校は難関ではあったが、彼は成績が良かったので合格は確定、と言われていた。
しかし。桜井は昭子の部活(通称ブス部)の部員仲間・峰子と同じくインフルエンザに罹ったり、交通事故にあったりと散々な目に遭い。なんと昭子と同じ高校を受験するはめになってしまったのだ。そして昭子は知らないが。桜井はそれを昭子の呪いだと思い込んでいた。当時昭子は、不気味な魔女のキャラクターのブレスレットをカバンに着けていたからである。
「急がなきゃ……。お兄ちゃんを迎える時間になっちゃう……」
昭子は教科書を色あせたリュックにしまい。思い出し笑いを一変させて暗い顔になると。深いため息を吐いて教室を出た。
俯いたままの彼女は気付かなかった。ずっと桜井が自分を見張っていたことを。
彼女がそれに気が付くのは。体が階段の遥か上で舞った時だった。
――――白いベッドの上で彼女は目を覚ました。人工的で澄んだ香り。白い天井。
そして一番先に目に入ったのは、母親でもなく父親でもなく。スーツを纏った、きつく纏められたまとめ髪に細眼鏡の地味な中年女性の姿であった。
「目を覚ましましたか。よかった。大丈夫ですか?」
はい、と小さく呟いた昭子。佐藤は一瞬俯いたあと、顔を上げて彼女に尋ねた。
「……単刀直入に聞きます。あなたは虐待を受けていませんか?」
その中年女性・佐藤アリスの眼差しは、いつもの慇懃無礼な上から目線では無く。どこか憐れみと気遣いを秘めたものだった。そう言えば一昨日大繩の練習で珍しく和田さんがこけた時、通りかかった先生は和田さんを気遣って水道まで付いて行ってあげてたっけ……和田さんはすごく嫌がってたけど……もしかしたら悪い人でもないのかもしれない。そう思った昭子がすがるような眼差しで口を開いたときだった。
「実は……」
「あきこちゃん。帰りましょ!」
昭子とは全く似ていない、かわいらしい顔立ちの中年女性は。佐藤と昭子の居る病室の扉をあけ、ゆっくりと優雅に部屋へ入って来た。そして顔をしかめて頭を押さえる昭子の腕を強く引っ張り、ベッドから引きずり出す。
「ちょっ……」
「看護士さんからお聞きしました、佐藤先生、昭子ちゃんについていてくれてありがとうございます」
女性は、思わず声を上げた佐藤へ『元』アイドルのように華やかに微笑み。昭子に再び向き直った。彼女は昭子の顔が引きつるほど腕をさらにぎゅっと強く掴み、子供のように無邪気に笑う。
「あはは、もう昭子ちゃんののんびりやさん! あんまりベッドの中にいると、ベッドと体がくっついちゃうぞぉ。さあ、おうちに帰りましょ。しょうたちゃんも待ってるよ」
昭子の顔は白くなり、元々覇気のない目もさらに光を失った。女性はそんな彼女を相変わらずニコニコ見つめている。何かおかしい……と違和感を感じた佐藤へ、女性は深々と頭を下げ、動きの鈍い昭子を強引に引っ張る。助けてくれ、と背中が言っているような気がした佐藤は、思わず走ってドアの前に立った。
「頭を打っていますから、念のために今日は病院に居たほうがよいかと。外科の先生も……」
「あら? 私にはそんなことおっしゃっていませんでしたよ。CT検査は異常なしと聞いたのですが。」
中年女性は大きく愛らしい目をぱちっとさせて首を傾げ。年の割に舌足らずで甘ったるい声で昭子に言った。
「あきこちゃんも、おうちの方が安心するよね!」
「ですが、念のため」
食い下がる佐藤。しかし中年女性はおやおや、と鷹揚に手を振り。年のわりに甘ったるくて舌足らずな声で答えた。
「佐藤先生の仰ることもわかりますが、あきこちゃんが帰りたいって言っているんです。ね?」
「……はい。」
少し間をあけて返事する昭子。佐藤はどこか胸騒ぎを感じつつも、腕をがっちりつかまれて去っていく昭子を見守るしかなかった。
次の日。昭子は学校に来なかった。
胸騒ぎがした佐藤だが。昨日の中年女性……母親から欠席の電話が来た以上、いかんともしがたい。
「念のため……ということなのでしょうか……」
職員室の自分の椅子に座り、腕をくんだまま小さく呟く佐藤へ。通りがかったロリオ先生は声を掛けた。
「おやぁ、いつも不敵で不遜な佐藤先生らしくありませんねぇ。どうかなさったんですかぁ」
ブルーのフリルのシャツを纏ったロリコンでショタコンでオイリーな彼は。ピンクのレース付ハンカチで汗をぬぐいながら唸る佐藤を見つめる。佐藤は座っている可動式の椅子ごと後退りし、ロリオから距離を取って答えた。
「鈴木先生は毒親をご存知ですか?」
「ああ、今よく聞きますよね。」
近くにいたロリオじゃない方の鈴木先生(よい意味で普通の中年男性教師)まで召喚してしまった佐藤だが。まぁいいか、と話を続けた。
「この間読んだ本の話なのですが……我が子が大怪我をして病院に運ばれたのに、子を目にしても大丈夫かの一言もなく、心配そうな表情も見せず、家に引きずって帰った親の話がございまして。 表情等は特に異常でもなく、化粧が濃いとか服が派手というわけでもなく、一見すると普通の女性で……。鈴木先生はそのような保護者に出会ったことはございますか?」
「そうですね……今のところはありません。もしかしたら気付くことが出来なかったのかもしれませんが……これからはそういうケースも念頭に入れて生徒を見守らないといけませんね。」
真剣な目でそう言う鈴木先生。ロリオ先生も茶色い巻き毛の頭ごと大きく頷いた。
「外ズラのいい保護者なんてゴロゴロいますよぉ。気になるようなら、家庭訪問したほうがいいですよ。生徒に何かあってはいけないですしぃ」
「仰る通りです。その先生も家庭訪問すべきでしたね」
佐藤はそう言うと。カバーをしたままの本を本棚から取り出して、カバンにしまった。
――放課後になると。佐藤は急いで校門へ向かった。朝よりもさらに胸騒ぎが大きくなったからである。だがそんな彼女の目に看過できない光景が映った。
「だから! お前は何しにここへ来たんだよ!」
屈強な運動部の生徒の輪は、その輪の中にいる人物へ野太く威圧的な声を浴びせる。佐藤はため息を吐くと、その輪につかつかと近寄った。
「どうかしましたか。」
振り向いた生徒達は、口々に言った。
「なんかこいつが校内に入ろうとしていたから捕まえました!」
「言ってることがよくわかんねーし! めっちゃ怪しい! スパイかもしれない!!」
興奮状態の生徒達。佐藤は落ち着いた声で彼らに尋ねた。
「誰かが殴られたとか、暴言を吐かれたとか、何かを盗まれたとか、そういう被害はありましたか?」
「ないです。でもじっと校門の外からこっちを見張ってて、話しかけても黙ってるだけだし!!!」
「ではまだ侵入もしていないし、被害も出ていないけど、囲んで尋問してみた、ということですね」
「まぁ……そうですけど」
少し落ち着いてきた生徒の輪の切れ目から、奥を覗き見た佐藤は。地面にペタンと座って震える小柄な青年を見て唸った。二十代前半~半ばくらいに見えるその青年は、体格は小柄で細く、手ぶらである。彼が身に着けているエプロンのポケットは四角く膨らんでいたが。あの形状は古代の遺物と揶揄される二つ折りのダーウィン携帯(ダー携)だろう、と佐藤は予測し。十五秒で決断した。屈強な生徒達に取り囲ませたまま、取り調べをしよう、と。あの形状なら武器や毒ガス発生装置の可能性は低いだろうから生徒に危険はないだろうし、もしカメラ付きダーウィン携帯による盗撮ならこの陣形は有利だからだ。
「ごめんなさい。ポケットの中をみせてくれませんか?」
しゃがみこんで自分を見つめる佐藤に青年はこくっと頷き。ポケットから四角い塊を取り出すと、両手で佐藤にそっと差し出した。
「どうぞなかをぜんぶみてください。ここへくるのにやくそくのでんわをしなかたことはすみません。いきなりやってきてうろうろもすみません。でも、ぼくはそれいがいにわるいことはしてなです」
少したどたどしく発声する青年。成人男性の外見と少々ミスマッチな、あどけない喋り方だ……それに言葉遣いも……と思った佐藤だが。そんな小さな疑問は青年の腕を見てどうでもよくなった。ダー携を差し出す彼の腕には、人の歯型がくっきりあったのである。それも、真新しい。
「この傷とアザは……」
佐藤は受け取ったダー携を自分の鞄に放り込むと。それと入れ替わりに市販の消毒薬と大きなばんそうこうを取り出し、彼の手当をした。この傷は誰にやられたのか、まさかうちの生徒だろうか……佐藤が少し強張った顔で後ろを振り返ろうとした直前。青年ははっきりと答えた。
「みなさんにはやられていません。ちがうところのひととけんかしました」
「その人はとんでも人ですね。きちんと病院で診断書をもらって訴えるべきです」
「……」
頭をもたげて、砂粒のように小さくなにかを呟く青年。それが気になった佐藤だが、さっさとこの件を片付けて昭子の元へ行きたい……と珍しく焦り。青年の傷に関してはとりあえず心の隅に追いやった。彼女は失礼します、と会釈してから青年の二つ折りのダー携を開き、中の写真フォルダーすべてに目を通した。人物どころか建物すら映っていない。すべて花の写真である。佐藤は近くにいた数人……リーダー格の少年にもその画像を見せた。目が泳ぎ出した彼らはもじもじしながら、青年、そして佐藤を見る。彼らの視線の先の佐藤は、青年に深々と頭を下げた。
「失礼なことをして申し訳ありませんでした。皆さんもきちんと謝罪しましょう」
背が低くなった囲いの中で、青年は一瞬ふう、と息を吐いて安心した表情になったが。すぐに暗く深刻な顔になった。
「キズのてあて、ありがとうございます。ぼくは、あやしいこうどうをしてすみませんでした。……あなたは、しんじられるひとですか」
たどたどしくそう言うと、青年は真っ直ぐに佐藤を見た。昨日の昭子のように助けを求める目。早く昭子の様子を見に行きたいが、この青年の目は緊急事態を告げている。しかたない…佐藤は溜息を吐くと、深く頷いた。
「ぼくがここへおじゃましたのは……」
青年の口から続いて発せられた言葉に。佐藤だけでなく周りの生徒達も言葉を失った。