体育祭(中編)
一週間後。佐藤のクラスはややマイルドになった春子が中心となり、纏まっていった。記録もだんだん伸びてくる。
一方、佐竹のクラスは中心になる生徒もおらず、やる気もなく、佐竹が呼び掛けた朝練も来ない生徒がいる始末。佐竹は、夜の職員室で頭を抱えていた。
「これ、間違って買ってしまったからどうぞ。」
佐藤はそんな彼女の机に、紅茶ラテの小さなアルミボトルと、可愛いラメピンクの包装紙に包まれたチョコレート三粒をそっと置く。
「……ありがとうございます。」
会釈する佐竹に佐藤は問う。
「体育祭のことですか?」 佐竹は力無く頷く。
「うちのクラスはやる気がない生徒が多くて……。いくら私が呼び掛けても朝練に来ない生徒もいるんです。……佐藤先生のクラスはどうやってまとまったのですか?」
「私が生徒達の共通の敵になったので纏まりました。」
「え!? 大丈夫ですか?」
思わず飛び上がり、大きな目を更に見開いて佐藤を見つめる佐竹に、佐藤は淡白に続ける。
「大丈夫です。授業もボイコットされるわけではありませんし。あまり愉快ではありませんが、自業自得なので、仕方ありません。……ただ、誰かを槍玉にあげることで纏まるのは、教育上良くない気がするのですがね。
まぁ、少なくとも二人の生徒はよい方向へ行きましたし、今回はこの調子で行って見ようかなと。」
「ま、まさか先生はご自身を犠牲に……。」
佐藤は笑い袋のスイッチを押したかのようにゲラゲラ笑う。
「そんな人間ではありません。『悪役も叱り役もやってくれる鬼みたいな生徒がいて楽だ』と本音を言ったら嫌われたんですよ!
その子は女の子だったから、鬼扱いはちょっと可哀想でしたが。」
「酷い!」
顔をしかめる佐竹に、佐藤は淀み無く言葉を続けた。
「酷い私は置いといて。
佐竹先生は佐竹先生のやり方でやればよいのですよ。体育教師の貴方が朝から練習に付き合っているということは、必ず生徒にプラスになっています。長縄の跳び方を準専門家に見てもらえる機会なんて今しかないですから。」
少しだけ佐竹の顔に光がさすが、まだ声は暗い。
「そう言って下さるのはありがたいのですが……こない生徒はどうしたら……。」
「体が弱い生徒は仕方ないとして。それ以外の来ない奴はほっとけと言いたい所ですが。
どうして体育祭で勝つことが大切か。朝練をすることが生徒の人生にどのようにいい経験を与えるのか、それを生徒に伝えることが大切です。まぁ伝えてもダメなことはありますが。
今時の生徒の多くは根性論では説得できません。損得勘定で動くケースが多い。朝早起きすると、お肌の調子がよくなるよ! とかそんな感じのデータを集めて説得したらどうですか?
それでもダメなら、今朝練に来ている生徒だけでも大切にすればよいのです。」
「はい! ありがとうございます!」
目の前のノートPCを立ち上げた彼女に微笑むと、佐藤は職員室を後にした。
佐竹は朝のホームルームで、生徒達に力説した。
若い内に運動をしておかないと年を取ってから体調不良で苦労すること、さらに年齢のわりには若々しい人々は運動をする習慣があることを。
……しかし、なかなか生徒達の反応は芳しくない。元々若い生徒には老化という ものがピンとこないのだ。そして、黒板一杯に図や絵を書いて朝の運動の重要性を訴える佐竹自身もまだ23歳。老化を実感することのない年齢なので、自分で話している内容にいまいち実感がこもらない。
佐竹はため息をつくと、明日の練習の臨時コーチの話をした。
「明日は呉大学の皆さん、明後日は黄河大学の皆さんが指導をしてくださります。様々な大会で優勝経験のある優秀なひとび……」
「こないだテレビに出てた! あの縄跳びの女神の神木さんもくるんすか!」
「縄跳び貴公子の伊周さんは!?」
目を輝かせてにじり寄る生徒達。佐竹は彼らに気圧されつつも頷く。
「う、うん。お二人とも来て下さるよ。お二人にも皆様にもくれぐれも失礼のないようにね。」
「はい!」
佐竹のクラスの生徒達は、今までで一番素直に元気に返事した。
佐藤が佐竹に役に立たないアドバイスをしてから一週間後。来週は体育祭。
佐竹のクラスも、助っ人のお陰で長縄の練習はスムーズに行えるようになった。職員室の自分の机で、佐竹は鼻歌を歌いながら体育祭プログラムを見つめる。そんな佐竹へ、佐藤はにこやかに話しかけた。
「個人的にはライバルが増えて困りますが。良かったですね。」
「佐藤先生のお陰です。ありがとうございます。」
頭を下げた佐竹に佐藤は手を振った。
「いいえ。佐竹先生の人望と人脈の勝利です。日頃の行いの良さが吉と出ましたね。生徒にもよい思い出になるでしょう。」
「えっ、私はたまたま優しい方々に巡り逢えたからというだけで……日頃の行いも人望も普通ですよ!」
心から謙遜する彼女に、佐藤は複雑な顔で舌打ちした。
「色々な意味で完璧過ぎて、嫉妬してしまいますよ。全く。
……そう言えば、中村さんは昨日お休みでしたね。また体調を崩してしまったのですか?」
「……はい。体育祭の朝練を頑張りすぎて無理が祟って……。来る生徒がまばらだった時から、縄の準備も、練習も頑張ってたのに。昨日の夜電話したら、まだ熱があるみたいで……。かわいそうに。」
黒い影が顔にかかり、うつむく佐竹。佐藤も頷く。「本当に運の無い子ですね。受験もインフルエンザのせいで、二次募集していたうちの高校しか受けられなかったというではありませんか。内申点がずば抜けて良すぎたのでどうもおかしいと思っていました。
それにしても中学受験の時にも予防接種をしたのにかかったと言うし、呪われているとしか思えません。」
「呪いですか……私は御守りをあげたんですが……効果はありませんでしたね……。」
「先生はお優しいですね。どこの御守りですか?」
佐竹は、可愛らしいピンク色の御守りを机の引き出しから出した。
「これです。可愛い物好きな中村さんにピッタリかと思って。」
恋愛成就、の文字を見た佐藤は唸った。
「縄と恋に落ちるのは難しいでしょうね。」
青い朝。体育祭を間近に控え、練習する生徒の声で活気溢れる校庭。
陽子の担任・大奥は。『風林火山』と書かれたハチマキをきつく締め。風を鼻から吹かし、林のように緑のジャージを見に纏い、火のような眼差しで生徒を見つめ、山のようにどっしりと腰を据えて仁王立ち。
「絶対優勝するぞォ!」
「ちぇすとー!」
小柄で細身の中年女性に似つかわしくない野太い雄叫びをあげる大奥。それに答える生徒。大奥は満足気に頷いた。
「さあ、最初から! 全員リレーは点数配分が高いから、一位を取るわよ!」
「ちぇすとー!」
大奥のクラスの生徒は体育会系の生徒が多い。したがって、体育祭は彼らにとって自分の誕生日並みの大イベント。最初からやる気十分。
陽子はため息を吐いた。運動神経の悪い彼女にとってはどの種目もしんどいのだが。リレーは数ある種目の中でも一番厄介に感じているからだ。晒し物になって恥ずかしい上、団体競技なのでクラスメイトに迷惑をかけてしまうのを彼女は恐れていた。
悩んだ陽子は佐藤達との週二回の朝ランニングに加え、美術部の活動終了後にも走りはじめたのだが。イマイチ成果が出ない。
……練習終了後。ため息をつきながら友人と校舎へ向かう陽子に、やや小柄な少年はつかつかと近寄る。そして、陽子をにらんで怒鳴り付けた。
「今田、ちゃんと走れよ! お前がクラスで一番おせーんだからな!」
「わかった。頑張る。」
素直に返事する陽子だが。少年はねちねち絡む。
「だいたい! そんなに手足が大王イカみたいに長いくせに何でそんなに遅いんだよ!」
「えっ……。」
身長が高いことがコンプレックスな陽子は思わず目が潤む。
「ちょっと!!」
陽子の友人・上野日夏は彼を睨むが、少年は怯まないで暴言を連ねた。
「本当のことだろ! 女のくせに不気味なくらい図体デカイし、猫背で気持ち悪いんだよ!」
「全然気持ち悪くない! ……陽ちゃん!」
陽子は静かに涙をこぼす。そんな彼女の背中を擦りながら、日夏が少年を睨んでいた時。
一部始終を見ていた和泉は、少年に自分の靴下を投げつけた。
「げぼっ!」
思わず咳き込み涙ぐむ少年。駆けつけた少年の友人達は苦しげにあえぐ彼を心配そうに見つめる。
「だ、大丈夫か? ……ウッ!」
靴下のバイオでデンジャラスでスパイシーな香りは直撃した少年だけでなく、周りの少年達も苦しめた。
唖然とする陽子と日夏を他所に和泉は少年を罵る。
「オメーは男のくせにミジンコみてーにちっちゃいだろ! 死ね!」
陽子を罵った少年がいまだに咳き込む中、他の少年達は和泉を集中放火した。
「黙れブス!」
「お前はホモの本ばかり読んでてキモいんだよ! 身体中に鉛筆刺されて死ね!」
和泉はそんなにブスではない。しかし地味な顔で暗い雰囲気の上、男色の本やマイナーなマンガばかり読んでいる痛いオタクである。制服の着こなしも上に夏服、下に冬服という謎ファッション。
おまけに口を開けば、死ね! とよく暴言を吐くため、男女問わず嫌われていた。
「くそ弱いサッカー部のくそ弱い球拾いのくそバカにくそ言葉を投げつけられて身体が汚れた! お前らに呪いをかけてやりた……っ!」
握り拳半分程の石を頭に投げつけられた和泉は。そっとおでこに触れた。彼女の指は、人差し指の第三関節まで赤く染まる。赤く生暖かいその絵の具を見つめると和泉は金切り声で叫んだ。
「ギャアぁー!」
「和泉ちゃん!」
口から泡を吹いて倒れそうになった和泉を陽子と日夏は支えた。さらに陽子はジャージの上着を脱いで、そっと和泉を横たえる。
「保健室の先生呼んできて!」
和泉の頭にハンカチを当てつつ、陽子は少年達に叫ぶ。しかし。
「ウワァァ!」
少年達は混乱して校舎へ走り去ってしまった。
「ど、どうしよう……。動かさない方がいいよね……。」
目をぐるぐる回す日夏を他所に、陽子は携帯で昭子に電話した。
「突然で悪いんだけど、保健室の先生を第三校庭に連れてきて。そう。奥にある方の校庭。和泉ちゃんが頭から血を流して倒れたの。」
……数分後。若い養護教諭の女性は、昭子の自転車に乗ってやってきた。
この高校はやたら敷地が広い。校舎よりかなり離れた第三校庭に行くには、駐輪場に行くのに時間がかかるとしても自転車の方が速いのだ。
「この石を投げつけられたんです。不幸中の幸いで頭は打たなかったんですが……。息はあります。脈はよくわからないんですが、耳を心臓にくっつけたら音はしました。」
養護教諭は血が付いた石を見て、顔をしかめた。
「……ひどいわね……。」 養護教諭は自転車の籠に積んでいた救急箱を出すと、手当てを始めた。
「傷は浅いから、気絶したのは精神的なショックだったんだと思う。頭も打たなかったというし。一応、病院には連れて行くけど。」
養護教諭の見立てに二人が胸を撫で下ろしていると。けたたましく車のクラクションが鳴り出した。
「く、車だ!」
人差し指をつきだして固まる日夏。その指の先には真っ赤な車。土にシュプールを描き、陽子達の前に乗り付ける。
「山田さん!」
血相を変えて車から降り立った大奥は、頭に包帯を巻かれた和泉を見て絶叫した。
「まだ若いのに死んじゃダメェぇー!」
耳をつんざく超音波を放つ大奥先生。あとから降りてきた昭子も、陽子も養護教諭も日夏も耳を押さえる。その間に大奥は目にも止まらぬ速さで和泉に近付き、彼女を揺らす。
「『高坂愛に死す』の最新刊を貸してあげるから!」
陽子達は大奥を和泉からひっぺがす。さらに陽子は大奥を羽交い締めにしながら言った。
「速く病院へ! 石田先生! お願いします!」
石田と日夏と昭子は、和泉を大奥の車へ入れた。
「……先生、車をお借りします!」
石田は思いっきりアクセスを踏みこんだ。
大奥は車の中の石田に敬礼すると、陽子達に向き直った。
「……一体、何があったの?」
――放課後。
「今から裁判を始めます。」
大奥はドスの聞いた声で陽子達にそう宣言すると。垂れ桜の鞭をパーン! と机に叩き付けた。茶色の革の枝に咲く、ピンクゴールドの桜は冷たく光り、生徒達は身を震わせる。大奥は鋭い目付きで一枚の紙を読み上げた。
「事件内容。
まず田中君が今田さんを侮辱した。
で、それに憤慨した山田さんは、田中君に自分の臭い靴下を投げた上、田中君を侮辱した。
その酷い匂いに腹を立てた佐藤君、高橋君は山田さんに暴言を吐いた。そして田中君は山田さんに握りこぶし半分程の石を投げ、山田さんは額から出血。額を触った手に付いた血を見てびっくりして気絶。
近くに居た今田さんは田中君、佐藤君、高橋君に助けを呼ぶように要請したが、気が動転した田中君、佐藤君、高橋君は逃げた。」
大奥は紙をパサっと置く。そして、死線をくぐり抜けたヤクザのような眼差しで田中、佐藤、高橋に冷たく言い放った。
「田中と佐藤と高橋は朝か放課後にトイレ掃除一週間。
それから田中、あんたは今田さんに謝ること。人をイカ扱いするわ、気持ち悪いとかは言い過ぎ。で、それに加えて頭を坊主にしなさい。……今日は山田さんの家に菓子折り持って謝りに行きな。私もついて行ってやるから。」
「ま、まって下さい! 今田さんに謝るのは百歩譲って仕方ないですけど!
何で山田に謝らないといけないんですか! 確かに俺が石を投げたのは悪かったですが! 直ぐにはいかなかったけど、落ち着いてからは田中や佐藤と保健室に行ったんです! ……誰もいなかったですが。
とにかく俺達は出来ることはしました!
そもそも山田の靴下は毒ガス並みに臭かったからむしろ僕達は被害者です! 先に手を出したのも山田です!」
「事件の発端も、口を先に出したのもお前だけどな。それに靴下で死ぬ奴はいないが、石が当たって死ぬ奴はいる。戦国時代には投石で戦うやつもいた。」
大奥の刺すような眼差しに黙る田中。そっと周りを見回すが、クラスメイトの皆は白い目で彼を見ていた。
「山田はむかつくが、怪我させちまったから謝ったほうがいいだろ。」
「お前が悪いとは思わないけど、空気的に謝ったほうがいいんじゃね?」
田中はため息を吐くと立ち上がった。
「今田さん、すみませんでした! 山田……さんの家にも謝りに行きます。」
――その後、大奥は田中、田中の母と山田家に行った。
山田家はごく普通のマンションで、チャイムを押すとこれまたどこにでもいる雰囲気の中年女性がドアを開けた。彼女に促され、ダイニングに通された三人は、深々と頭を下げた。
「監督不行き届きで申し訳ありません。」
「うちの子が本当に申し訳ありません! 勿論医療費はこちらがお支払いさせて下さい! 傷が残らないようによい外科医も探します! 本当に申し訳ありません!」
「……すみませんでした。」
穏やかな雰囲気の中年女性は、隣の不機嫌な顔の少女を見て言った。
「……和泉ちゃん。外科の先生は額に傷は残らないっておっしゃったし、今回は許して上げたら?」
和泉は不機嫌な顔のまま腕組みし、無言で田中を睨んだ。下を向いたままの田中は顔を歪ませ、小さく舌打ちした。それに気が付いた大奥は田中を睨み、どうすべきか考えたが……それより速く田中の母は動いた。
「……お前…舌打ちしたね!」
「え! 見てたの!」
母親の剣幕に驚いて目をギョロギョロさせる田中。 田中の母はそんな彼を担ぐと山田家を出た。
「すみません。30分、お待ち頂けますか。」
三人は素直に待つ。少し時間が経ったとき。はっとした和泉は家を出た。
「おやつ買ってくる。」
「ちょ、和泉ちゃん!」
「走っちゃだめよ!」
息を切らせた和泉、それを追いかけた二人が辿りついたのは。近くのスピードカット理容室だった。口と手足をハンカチで縛られ、涙目の田中。理容師が戸惑いながらもハサミを構えた時。和泉は叫んだ。
「もういい! やめて!」
「いえ、けじめとして切ります!」
「不細工の坊主なんてみたくないからいいです! けじめなら、私が一発ぶん殴って終わりでいいです! お願い!」
和泉の真剣な眼差しを見た田中の母は、渋々田中の手足をほどいた。
そして逃げ出そうとした田中を持ち上げて肩に担ぐと。理容師に頭を下げ、五千円札を渡して店を出た。……数分後。夜の色に染まった公園で。
「どぉおおおりゃー!」
和泉は本当に思いっきり田中をぶん殴った。尻餅をついた田中を満足毛に見下ろすと、彼女はスキップをして家に帰ったのだった。 翌朝。和泉が殴ったのと反対側の頬に絆創膏をつけた田中は。下駄箱で和泉に声をかけた。
「おはよう。」
「……おはよ。」
直ぐにくるりと踵を返した和泉の背中へ、田中はさらに言葉を続ける。
「お前は俺が嫌いで、俺もお前が嫌いだ。でもいちいちケンカしてもお互いに損だよな。」
額の四角い布を押さえた和泉は素直に返事した。
「うん。」
「だから、お互い話さないのが一番だけど。席替えで運悪く同じ班になっちまうこともあるよな。そういう時は必要最低限協力しないか。俺はもうお前に怪我をさせないから。」
どこか悟った感じの田中。和泉はまた素直に返事した。
「わかった。アタシも靴下投げるのやめる。いきなり投げたのはごめん。
アタシはもういいけど……陽ちゃ…今田さんには謝ったの?」
「お前は本当に今田が好きだな。昨日謝ったぜ。あっさり許してくれた。」
「やっぱり寛大だね。」
「客観的に考えるとそうなんだけどなんかムカつくんだよ! 掃除の時も俺がジャンプしながら拭いてる横で、普通の姿勢で拭いてやがる!」
「絶対わざとじゃないよ。」
「知ってる!」
和泉は、ポン、と手を叩く。
「嫉妬してるんだ。陽ちゃんがクラスで一番背が高くて、人間もできてるから。」
一瞬顔を真っ赤にした田中だが。ため息をつくとポツリと言った。
「……今はもう見慣れたから不気味とかは正直思ってないのにぐちぐち言いたくなるのは……そうなんだろうな。俺はお前の言う通り、ちっちゃい奴だ。ミジンコだ。」
和泉は無表情で首を振った。
「いや、三口あんパンくらい。」
そう言うと、彼女はスタスタと教室へ歩いて行った。
――ホームルーム前の女子トイレ。
和泉は、陽子と日夏に昨日のお礼を言うと、田中との下駄箱での会話内容を話した。
「本当は不気味とか思ってないって。要するに陽ちゃんが羨ましかったんだよ。」
「……私は田中君の方が羨ましいけどな。運動神経がすごくいいし。」
「えっ!! 田中って運動神経いいの? 本当に?」
和泉の脳裏に、母親にボコボコにされていた田中の無様な姿が浮かぶ。
目が疑問符の海と化した和泉に、陽子は田中の話を続ける。
「うん。田中君、佐藤君、高橋君の三人は学年でもトップクラスの運動神経だから、大奥先生が自分のクラスにいれたがったって佐藤先生から聞いた。」
日夏はあどけない顔立ちに映えるツインテールの髪型を直し終わると、口を開いた。
「そう言えば田中君のお母さんは元女子プロレスラーって聞いたなぁ。疾風の土嚢担ぎガールって言われてたらしいよ。そう言う異名ってかっこいいね!」
「日夏はそういうキャッチフレーズ好きだよね。」
「うん! 和泉ちゃんのも考えたよ!」
「何?」
プレゼントの包み紙を開ける瞬間のような表情の和泉に、日夏は笑顔で振り返った。
「寂しがりやのカプチーノ! 口から泡を吹いて気絶してたし、和泉ちゃんコーヒー好きでしょ! それにぱっと見変なオーラや異物にまみれているけど、中身は普通に素直な女の子だから。」
「変なのは否定しないけど! 生き物がいい!」
頬を膨らませる和泉に、陽子は苦笑した。
「いつも不思議なあだ名を考えるんだよ。私なんかフォーチューン筆箱、梨々香ちゃんはキラキラ根性ハープだし……。」
「……キラキラ根性ハープはなんとなくわかる。梨々香ちゃんって、ダルいランニングも一生懸命やるし、鼻歌の声がキレイだもんな。陽ちゃんのフォーチューン筆箱もわかるよ。」
「えっ?」
目をパチパチさせる陽子を真っ直ぐ見て、和泉は続ける。
「筆箱みたいに、尖った固い定規も、小さくて丸くなった消しゴムも、セロテープも、何でも受け入れてくれる感じなんだよね。懐がふかいっつうか。嫌われもののアタシに、一番最初に声をかけてくれたのも陽ちゃんと日夏ちゃんだし。
あと、スリムで、でしゃばらないから。
フォーチューンは……一緒にいる人を助けてくれるからかな? 日夏ちゃんから、陽子ちゃんがテキパキ動いて助けてくれたこと、聞いたよ。」
日夏は笑顔で頷いた。
「和泉ちゃん正解! ……そうそう。あの時の陽ちゃんすごかった! 元忍者の大奥先生を羽交い締めにしたんだよ!」
「に、忍者!?」
鶏の卵がすっぽり入るほど口を開いた二人。日夏は目をパチクリさせて続ける
「派遣らしいけどね。」 和泉の頭の中に、忍び装束を着て会社の天井に張り付いたり、手裏剣を投げて戦う大奥が浮かぶ。
一方、同じようなことを想像しつつも先に現実に帰ってきた陽子は日夏に問う。
「ちなみに峰子ちゃんは? ほら、こないだ図書室で話した、頭が良くて色が白くてスリムな子。」
日夏は頭をメトロノームのように揺らしてから目をぱちっと開いて答えた。
「……脳みそ光ファイバーかな。透明感があって賢いから。」
「透明感を越えすぎじゃねー!
じゃあ昭ちゃんは? 石田先生や大奥先生を呼んでくれた子!」
和泉の問いに日夏は顎に人差し指を付けて、首を傾げた。
「昭ちゃんは……いつも自信なさげで影も薄いけど……悪い子じゃないし、頭の回転はわりと速いよね。
たまたま保健室近くの駐輪場にいたとはいえ、自分の自転車で石田先生を校庭に向かわせるとか、私だった瞬時には思いつかないな。大奥先生を呼んだのはちょっとアレだけど、担任だからねー。あとでめんどくさいから私も呼ぶかな。それに車で来てくれたからいっか。うーん……『三編みは見た』かな。」
「何を見たんだよ!」
――その日の放課後。三編みは見た。
「ごめんなさい。私、付き合っている人がいるの。」 クラス一……いや学年一の美少女・高橋真理奈が、学年二番の美少年桜井をふる光景を。
そして、その光景を見た日から、昭子の人生は動き出す。