体育祭(前編)
春の早朝。青い空に乾いた風が横切る天気。
赤、黄色、緑、紫。この世の色彩すべてを独り占めするかのような、鮮やかに花が咲き誇る公園で。
とある集団はランニングをしていた。
「1、2、キレイ!」
「微妙に! キレイ!」
やけくそ気味に掛け声を掛けながら走るジャージの女性集団。すれ違う早朝ランナー達は目を見開き、思わず後退りする。
「おはようございます。」
目が合った中年女性に、ジャージ集団の先頭の女性は軽く会釈して挨拶した。後ろの学校ジャージを着た少女達もそれに続く。
「あ、お、おはようございます……。」
後退りする丸い背中を見て、先頭の女性はニヤリと笑った。
「白い肌に見惚れたのでしょうね。」
まん丸の顔の少女は、光を受けた水面のようにキラキラ光る声で言った。
「先生! いくら空気が乾燥してるからって顔パックして走るのはどうかと思います!」
彼女の隣の電柱のように背が高い少女も頷く。
「不審者通報されちゃいます!」
後ろの三編みの少女もぼそっと言った。
「学校指定ジャージだし、背中に名前が書いてあるからバレバレですよ……。」 三編みの少女の隣の、魚の骨の髪飾りの少女も頷く。
「ジェイソンとか死神みたい!」
其を聞いた最後部の少女は、けたたましい声で笑いだした。
「礼儀正しいジェイソン……。ジャージのジェイソン、地味なジェイソン……。」
彼女は地面を笑い転がる。心配した皆に囲まれた少女は、体からコキコキ音を立てて立ち上がった。彼女はクリスタルスカルのように透明に微笑む。
「ありがとう和泉ちゃん。私……一日一回笑わないと、免疫がニートして体調を崩すの。」
――その後六人はランニングを終えると学校へ向かった。
サラサラ黒髪ショートの若く愛らしい美女は、職員室の自分の席でため息をついた。彼女は佐竹雪。峰子の担任である。
ベイビーピンクのジャージに身を包んだ彼女は、黒目がちな美しい目で、体育祭の種目表を凝視して頭を抱えた。
「佐竹先生、どうかしましたか?」
脂ぎった中年の男性教諭は、佐竹の顔を覗きこむ。生ゴミのような彼の吐息からそっと距離を置くと、佐竹は明るく答えた。
「あ、いや体育祭が楽しみだなって思いました。この機会にクラスのみんなが団結するといいな……あっ。」
男性教諭はこってりした笑みを浮かべ彼女の肩を揉む。
「佐竹先生は頑張りすぎなんですよ。もっとこうリラックスして。」
「大丈夫です。本当に。肩から手を離して下さい。」
「遠慮しなくていいんですよ。」
顔がひきつる佐竹。そんな佐竹の肩に振動が走った。佐竹の肩に置かれた枯れた落ち葉が、紅葉になる。
中年教諭は思わず佐竹の肩から手を離し、ぶらぶら振った。
「佐藤先生! 痛いじゃないですか!」
佐藤は眉をハの字にして言った。
「大変申し訳ありません……。私はババアで老眼なのです。蚊がいると思ったんですが……。」
その後も眉間にしわをよせ、空気をパチパチ叩く佐藤。中年男性教諭は佐藤を睨むと退散した。佐藤を見上げて軽く会釈をする佐竹。 そんな佐竹に佐藤は暗い表情の理由を問う。
「優勝出来なくても、よい思い出を作れるように善戦する方法を考えてるんですが……。」
俯く佐竹。佐藤は腕をくんで口を開いた。
「クラス決めの時、A組の大奥先生が運動神経のよい生徒をかっさらいましたからね。
本当に同年代女性であの必死さアグレッシブさは薄ら寒くも見習いたいものです。
クラス決めで、学年一美少年の名古屋君をライバルのロリオ先生と取り合って口論していたのは壮絶でしたね。二人とも口内カプチーノ状態でもう……。」
佐藤は、手を涙目でぶらぶら振っていた中年男性教諭・ロリオ先生の顔を思いだし、ニヤリと笑う。その渾名は、彼が嫌いな佐藤が命名したものだ。なぜロリオなのかと言うと。ロリコンかつショタコンでオイリーだからである。
「運動神経の悪い私達のクラスが勝つ方法は一つ。長縄飛びと二人三脚リレーの得点を二倍にすること。あれなら運動神経が悪くても練習次第で他クラスと互角に戦えます。
『今年の体育祭のテーマは“絆”。チームワークを必要とする種目に重点をおくべき。』
とクッソ真面目な顔で訴えれば、他の先生は反対など出来ません。
体育担当の佐竹先生が賛同してくださるのなら、私が提案しましょう。」
佐竹は黒い宝石のような目をさらに輝かせる。
「なるほど! その種目なら練習で運動神経の悪い子も何とかなりますね。
「はい。それからもう一つ。一人当たりの出られる種目数は限られていますから、得点配分の低い100Mリレーは捨てます。」
佐竹は眉を潜めた。
「捨てる……って?」
佐藤は、氷漬けにされた魚のような表情で言う。
「戦力をそこへ割かないということですよ。例年通りに足の速い子でなく、運動神経の悪い子に走らせるのです。一人たった100Mだけですから、晒し者になるのは一瞬です。」
「そんな! その子たちの気持ちはどうなるんですか!」
机を叩いて激昂する佐竹。佐藤は表情を変えずに淡々と答えた。
「……リレーなどの純粋に速さが問われる競技は、付け焼き刃が通用しません。それに、晒しものになる経験は、早い内がいいですからね。その他にもメリットはありますよ。……おっと。二分前なので失礼します。」
体育祭についての職員会議が始まった。
「では来月の体育祭ですが……。」
佐藤は美しい姿勢で手を上げる。
「種目について、提案したいことがございます。」
「どうぞ。意見は多いほうがいいですからね。」
司会を勤める初老の体育教師は、佐藤に続きを促した。佐藤は真っ直ぐに立ち、選挙演説のように朗々と訴える。
「今年は、長縄飛びと二人三脚リレーの得点を二倍にしていただきたいと思います。」
ざわめく職員達。佐藤はそれに構わず続ける。
「今年のテーマは絆! クラス全員が参加する競技に重点を置くべきです。長縄飛びは皆の心を一つにしないと飛べません。 きっと練習をしているうちにお互いを理解し、思いやるはず。きっとクラスの絆が深まると思いますよ。二人三脚も然り。他人と心と歩調を合わせるよい経験となるはずです。」
珍しく拳を握って熱弁する佐藤。他の教師達は、コイツが言うと嘘くさい……と思いつつも、ある意味正論なので表向き反論はしない。
佐竹は迷った。邪悪で冷酷な佐藤には賛同したくない。しかし佐藤の言う通り、長縄飛びの練習をすることでクラスが団結するかもしれない。彼女の心は今、運動音痴が平均台を歩くが如く揺れている。
「佐竹先生! どうしましたか?」
「いっいえ! 失礼しました!」
無意識に平均台のポーズを取っていた佐竹は、頬をジャージと同じピンク色に染めると俯いた。
一方、ロリオ先生はフリルのついたシャツをシャラシャラさせながら異を唱えた。
「佐藤先生のお考えもごもっともですが、生徒は戸惑うのではないですかネェ? それに得点配分をいじったとしても、生徒のやる気には関係がないと思います。頑張る子は頑張るけど、頑張らない子は何があっても頑張りません。」
「そうですよ。私は例年のままでよいと思います。」 運動神経のよい生徒をかき集めたクラスの担任・大奥も深く頷く。
空気は変わった。例年のままでよいという意見に職員達は染まっていく。去年と違って戸惑うのは生徒ではなく、教師なのだ。この学校では体育祭の得点の計算は教師がやる。長縄飛びと二人三脚の得点が二倍となると、感覚が少し狂う。おまけにそこまで重点を置くとなると、教師も朝練を監督するべきという空気になるのだ。
佐藤が敗北を悟った時だった。俯いていた佐竹が顔を上げて立ち上がった。
「私は佐藤先生に賛成です。運動神経を練習である程度フォローできる長縄飛びや二人三脚で、運動神経が悪い子にも活躍の場や自信を与えたいと思います。頑張れば道が開けるということを生徒に教えてあげたいです。」
佐竹は素直で真っ直ぐな目で他の教師を見回しながら思いを述べた。それに他の中年教師も頷く。
「確かにそうですね。私も佐藤先生と佐竹先生の意見賛成です。」
彼は真面目で穏やかな性格なので人望があった。おまけに学年主任。
「八木先生がおっしゃるなら……。」
彼を慕う若い教師達も佐藤の意見に賛同。結局、佐藤の意見は通った。
「今ひっかかったの誰?」
太陽が遠慮がちに輝く朝八時半の校庭で。和田春子は鬼軍曹のような厳しい声を発して後ろのクラスメイト達を見た。運動神経のよい彼女は、一番前の内側という飛び辛いポジションで長縄を飛んでいた。しかもバスケ部の朝練後の疲労も手伝い、イライラ最高潮である。彼女は縄の線を目で辿り、犯人を割り出した。
「また田中さんか……。真面目にやってよ!」
「ご、ごめんなさい……。」
もごもごへこへこする昭子。春子は昭子を睨むと、縄回し係に向き直って言った。
「もう一回。」
男子の一部は口を尖らせる。
「えっ! 今日はここまででいいだろ!」
「疲れた……。」
春子は彼らをギロリと睨み、スピーカーのような声で怒鳴る。
「このままじゃ優勝出来ない! 鈴木君早く!」
縄回し係の男子は仕方なく縄を回し始めた。
……和田春子主導による長縄飛び朝練三日目。担任の佐藤は、それをアウトドア用折り畳み椅子に座って見つめていた。
「四十、四十一……あっ! 誰よ今ひっかかったの! また田中さん?」
「えっ……あ……。」
皆からの針のような視線に俯く昭子。
「春子、もうやめなよ。」「そうだよ」
見かねた春子の友人の白井道子、春子とは疎遠な麻里奈まで口をだすが、春子は地面を強く踏みしめて声を荒げた。
「だって、二組は四十五回飛べたんだよ! このままじゃ優勝できない!」
「そうですね。和田さんのいう通りです。ですが、貴方のやり方は感心できません。」
佐藤は立ち上がり、春子を見た。
「貴方と白井さんが一番最初に来て、縄の準備をしているのも、跳びにくいポジションで頑張っているのも、朝練で疲れているのにそれを見せずに頑張っているのもわかります。
ですが、皆が貴方達程の体力も根性もあるわけではないのです。真面目にやっても出来ない人もいる。貴方が国語と英語と数学と化学と家庭科の成績が悪いように、人には向き不向きがあります。
それに怒鳴れば怒鳴る程萎縮して、集中力を欠く人もいる。犯人探しは逆効果です。時間の無駄でもありますし。」
唇を噛んで下を向く春子。一方、佐藤の話を聞いて春子への眼差しの色を変える昭子。佐藤はそんな昭子に目線を移す。
「……あと今ひっかかったのは田中さんではないですよ。佐竹君です。田中さんも黙っていないで、きちんと主張しなさい。……それにしても。」
俯く春子に、佐藤は微笑んだ。
「和田さんみたいな鬼がいると、教師は楽です。悪役にならなくてすみますからね。注意も悪役もみんなやって貰えてありがたいです。」
「なんですかそれ!」
「春子やめなよ!」
思わず掴みかかろうとする春子だったが、友人の白井道子に押さえつけられる。佐藤はその間に悠々と校舎へ消えていった。
「長縄飛び、佐藤先生のクラスは大変そうですねぇ〜。」
ロリオ先生は、自作教材の可愛らしい世界史絵本を本棚から取りだすと、佐藤の顔を覗き混む。佐藤は自分の机に肘を起き、頭を抱えてポツリと言った。
「もう……学校に行きたくないほど大変です……。」
「えっ、えっ、ええっ!」 ロリオ先生はヒラヒラしたシャツのように手をヒラヒラ、口を出目金のようにパクパクさせながら言った。
「きょ、きょうしはとうこうきょひしちゃだめですよぉ〜!」
「そうですよ! ロリオのおっしゃる通りぃ!」
佐藤と同年代の大奥は靴を脱ぐと、年甲斐もなく佐藤の机に立って叫んだ。
「体育祭は血の祭りぃ! 強制参加の春祭り! どうせ休むなら祭りの後にしなァ!」
「ロリオ?」
顎に指を当てて首をかしげる中年男性ロリオ先生。大奥は八艘飛びで自席に戻る。佐藤は国語の教科書を抱き締めると頭を下げた。
「ロ……先生、うぜぇ励ましありがとうございました。失礼します。」
教室に戻った春子は自分の机を蹴飛ばして叫んだ。
「あのクソババア! 私を利用しやがって!」
道子はそんな彼女へクールに言った。
「利用されない為には、春子が悪役にならないように、暴言を吐くのをやめるしかないね。特に田中さんにアンタはきっついよ。
『田中さんのせいでまた中断した!』とか騒いだり。」
「私は本当のことしか言ってない!」
机をバンッ! と叩く彼女に道子は淡々と言う。
「『春子は私よりブスだね。私よりもてないね。私より頭悪いね』って言われたらどう思うよ。」
道子はそこそこ整った顔立ちである。大人びた佇まいも合わさって、雰囲気美人と言える風貌。成績もそこそこよい。一方、春子はブスではないが、背が高い以外は特にセールスポイントのない風貌。成績も良くない。
シャーペンをバキッと折り、目をひんむいて睨む春子に道子は欠伸しながら続ける。
「アンタの怒りはリーサルウエポンの破壊力があるからさ。出すのはたまにでいいよ。」
――次の日の朝。
「田中さん?」
「お……おはよ……。」
春子と道子が長縄を体育館の倉庫に取りに行った時、すでに昭子の手には長縄が握られていた。
「あつかましいんだけど……みんなが来るまで……一緒に練習してくれるとありがたいな……。」
春子と道子は微笑んだ。
「いいよ。」