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佐藤の罪・後編

 職員室での話し合いの後。今日は電車で学校へ来た佐藤は、自分と最寄り駅が近い佐藤絵梨花先生に頼み、車に乗せてもらうことにした。佐竹や大奥が送ると申し出てくれたのにも関わらず、である。佐藤先生がここまで積極的に佐藤先生に話しかけるなんて珍しい……と目を合わせた佐竹と大奥の前で、絵梨花先生は笑顔で引き受けてくれたのだが。車を走らせてすぐに、彼女の彩度は二段階下がった。

「佐藤先生とこうしてふたりっきりで話す機会は、中々ないので光栄です」

 いつもより少し無表情な顔で、セリフを抑揚なく読み上げる絵梨花先生。佐藤はそんな彼女にアイドルを取材するリポーターのような口調で尋ねる。

「本当ですね。ところで、絵梨花先生の学生時代はどうでしたか? さぞや人気者だったでしょう」

「そうですね、楽しい学校生活でしたよ」

佐藤はあの脅迫状が、何となく本物ではないかと感じていた。全く根拠はないのだが。そのため、自分の次に疑わしい『佐藤』に話をふっかけてみたのだが。 本当に楽しそうに屈託なく答える彼女を見た佐藤は、心で小さく唸った。彼女はこういう人だから本人に聞いても意味が無かった、と。だが佐藤は絵梨花先生の無邪気さの裏返しの無神経さにも気が付いていた。梨々香がからかわれているのを見て小馬鹿にした笑みを浮かべながら通り過ぎていったのを、佐藤も目撃したからである。そして、峰子が骨子とかガリガリお化けとかゾンビ女と影で言われている時、一緒になっていつもの綺麗な笑い声をたてていたのも。そして数学の答案も和田春子や陽子と和泉のクラスメイトの田中などの体育会系のうるさい生徒や高橋麻里奈など華やかで目立つ生徒にはひとことアドバイスを書くのに、ブス部の皆や大人しく地味な生徒に点数問わず何も書かなかったことも、和泉から聞いていた。本人に悪気は無くてもそういう態度でずっと生きてきたのなら、知らないうちに恨みを買っているはず、と、信号待ちで立てかけたスマホを見ていた絵梨花を後ろから見つめて思考を巡らせる佐藤。それから少しして。絵梨花先生はあっ、と声を上げた。

「あ、LEINが着てる。……ごめんなさい佐藤先生、ここで降りていただけますか? 友達が大事な相談ごとがあるらしいので、すぐに会わないと」

佐藤が返事をする前に絵梨花先生は車を止め、ニッコリと微笑んだ。

「佐藤先生、また明日よろしくお願いします」

 ありがとうございました、と佐藤が言い終えるより早く、絵梨花先生は車を走らせ。LEINではなく待ち受け画面が映るスマホを横目に、車内でまた綺麗な笑い声をたてていた。一方、家の最寄り駅よりも三つ前の駅と二つ前の駅のちょうどど真ん中で降ろされた佐藤は、道路をキョロキョロと見回した。よりによって一番タクシーもバスも通らない駅間である。お金に困っていない佐藤にとって、学校からタクシーに乗った方がマシと思える場所である。佐藤は最初にあった時から警戒されていたから仕方ない、と呟くと駅への道を急いだ。

                    2

翌々日の早朝。体育祭二日前。ブス部美人ランニングの日。佐藤はそれを中止して、学校近くの一番人通りの少ない、裏通りのポスト前付近に大奥と隠れていた。シャッターの掛かったスーパーの前にダンボールを置き、その裏に立つ二人。ポスト上には元忍者大奥の置いた赤い小さなカメラ。そこに映った画像をみながら二人はヒソヒソ会話中。

「まったく、佐藤佐藤うるさいよ。たまにはスズキとかタナカとかタカハシにしたらどうだい」

昨日もまた佐藤がどうこうという脅迫状が来たのである。いつもと全く変わらない表情の絵梨花先生を見た佐藤は、段々彼女は関係ない気がしてきたのだが。もうこの際だから犯人を究明しようと思っていた。 「あっちの佐藤先生は佐藤先生と違ってそこまで恨みを買うとは思えないけどね。私はあんまり好きじゃないよ。女性としての必死の努力とかは尊敬するけどさ。まぁ佐藤先生宛てにしろそうでないにしろ昨日も脅迫状が来たからね。事件を起こすとか威勢のいいことを言っていた前回と違って、今回はなぜか『前回の発言は取り消す。体育祭で事件は起こさない。でも佐藤は教師を辞めろ』だの『反省しろ』だけでトーンダウンしてたけどさ、いたずらだとしてもとっちめないと。」

「私も段々彼女が関係ない気がしてきました。ところでその恰好は何ですか? 付け髭もしているし郵便局員さんが着そうなジャンパーまで着ておられて。わざわざ日本郵正とか書いてありますし。そこまでするなら郵政と書いたらどうなのです」

「気分の問題だよ。……あれ?」

ぼさぼさ頭にパーカーの少し太った女性が辺りをキョロキョロ見回して、ポストに近寄っているのをみた大奥は。飛び出した。

「怪しい!」

なぜなのか。と問う間もなく彼女は走り。ポストに手を伸ばした女性の腕を掴んだ。そのビニール手袋をはめた手から落ちたのは、差出人のかかれていない底辺高校宛の封筒だった。コンパスを使って書いたのかと見まごう程のわざとらしい丸文字。校長が職員たちに見せた脅迫状とおんなじである。

「最近、差出人を書き忘れる手紙が多いので、確認していただくことになっているんですよ。あれ? 底辺高校宛てですか?」

近くを通りかかった振りをした佐藤はにこやかに微笑んで言った。

「まぁ! 私は底辺高校の教員です。お預かりしますよ」

大奥は逃げようとした女性をガッチリ掴む。一方、佐藤は優しい声で少し太った女性に話しかけた。

「何かあったんですか?良かったら相談にのりますよ」

女性の目は潤み。小さく声を発した。

「アイツのせいで私は人生をめちゃくちゃにされ……た…」

                   3  

「……お弁当やジャージをゴミ箱に捨てられたり、ノートを破かれたり、上履きや机の中に画鋲を入れられたり、スマホを男子トイレに投げ込まれたり……廊下で足を引っかけられたり……あれ以来人間不審になって……人が怖くて……全部全部あいつのせいだ…!」

女性の荒野のような肌には涙の道が何本も走る。女性は良く言えば素朴な、ストレートに言うと田舎くさく垢抜けない地味顔を歪めて泣いていた。……ここは女性の自宅。中々立派な一軒家で、家具も照明も大奥が言うには『企業で言うと中小企業社長か大企業役員クラスの金持ちの家にあるようなもの』ということであった。佐藤は女性を警察につき出そうとしていた大奥を宥め、自宅に乗り込んで話を聞くことにしたのである。彼女は伊藤が別れ際に言った、脅迫犯の気持ちもわからないではない、という言葉が心に残っていたからだ。自宅に居た母親に了解を得た彼女と大奥は、入ってすぐ女性のPCの検索履歴を調べ、本棚等をガサ入れ。さらに。女性が書いた日記も速読して彼女の愚痴を一通り聞いたりした。そして、出してもらった豚汁や朝御飯を早食いしながら時計を見た。あと五十分でここを出ないとまずい。急がないと。そう思った彼女は少し早口で言った。

「確かにそいつが悪いです。でも、世の中には貴方より辛い目にあっていても立ち上がる人がいるんです。貴方は親が何年も引きこもっていてもきちんとおいしいご飯を作ってくれて、養ってもらえているだけマシですよ。話を聞いている限りではご両親もお優しいし、本当にありがたいことなんです。だから貴方も頑張らないと行けません。幾らソイツのせいで貴方がニートになったとしても、ニートには発言権が一切ありません。何でもいいから働いて社会的信頼を得てから批判しないと」

確かにスマホの件や画鋲まで行くと何もかも怖くなるのはわかる。しかし、怒ったり恨んだり脅迫状を作って朝早く投函する元気があるならこれくらいい言ってもいいだろう、両親の太陽方式がダメなら北風方式しかない。そう思ってとりあえず彼女へ説教をしてみる佐藤。だが。

「あんだになにがわがんおおおおおーくぞばばあああああ」

顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしてまた泣き叫ぶ女性、大奥はトントン肩を叩き、テーブルのティッシュペーパーでごしごし鼻水を拭いてやる。だが。

「いだいいだいいみんなひどいみんなきらいあああああああ! おまえもぎらいいいいい!」

「貴方、この状況がわからないんですか!」

佐藤はピアノの一番低い音を数回ゆっくり鳴らしたような声でテーブルをバン! と叩く。びくっと泣き止む彼女に佐藤は鋭く据わった目でつづけた。借金取り立てに来たヤクザのような声色が、おそるおそる見上げた女性に染み入る。

「じょうきょう って」

「本当は警察に突き出していいんですよ? それなのにこうやって話を聞いているのは、苦しんでいる貴方を助けたいと思ったからなんです。ソイツが嫌いで心が歪むのは仕方ないですが、恨むのはソイツだけにしてください。関係ない私達や学校関係者にまで八つ当たりしないでいただけますか? 脅迫状で怖がっている生徒達の気持ちも考えてください。貴方はソイツの件に関しては被害者ですが、今やっている行為は紛れもない加害者で犯罪です。それにもう24歳ならきちんと法的に責任をとらされますよ? 刑務所でのいじめはもっと壮絶でしょうね……」

昔読んだ刑務所生活の本の話を『知り合いの話』としておどろおどろしい眼差しで語る佐藤。彼女の纏うどす黒い雰囲気と混ざり、女性は息を呑む。だが、刑務所の話が知り合いから聞いたというのも嘘ならば脅迫状に怯えている生徒がいると言う話もまた嘘であった。底辺高校のオバカな生徒達はイベント程度にしか考えておらず、むしろ犯人探しを楽しんでいるのだ。しかし佐藤は、生徒達が震えているだの、貴方がいじめに怯えていたのと同じくらい怖がっているんだだの、とても真剣な顔で嘘を垂れ流し続ける。やっぱこんないけいけしゃあしゃあと嘘をつくコイツは教師辞めたほうがいいわ……と、ちょっと冷たい瞳で見つめる大奥に気づかず。いかにあの脅迫状がとんでもない犯罪か、怯える生徒がかわいそうだと身振り手振りでおどろおどろしく訴え続ける佐藤。女性はだんだん自分のしでかしたことの重さに気が付いて血の気が引いていき。クッションをぎゅっと逃げって震えだした。よし、フィナーレ。佐藤はわざとらしい長いため息を吐いて、言葉を続ける。

「もしあなたが警察に捕まって犯罪者になったら、ソイツ……高橋を批判してもあなたの逆恨みだってことで終わりですよ。犯罪者と教師だったら教師の言葉のほうが信じられてしまうからです。いいですか? 貴方はひどい目にあったのに、それを誰にも信じてもらえなくなるんですよ? 今よりも」

「はい……」 

「もう二度と、こんなことはしないって誓ってくれますか? 恨みは忘れなくてもいいから、犯罪に手を染めないと誓ってくれますか? これはあなたのためだけではなく、見逃してあげた私達と、貴方を見守ってくれているお母様お父様のためでもあるんですよ」

「はい。二度と犯罪もしないと誓います」

悪い憑き物が浄化されたかのように、すっきりした眼差しの彼女を見て、佐藤、大奥、そして後ろから様子を見守っていた母親はほっ、と安らかな長い息を吐いた。

「それなら貴方を警察には突き出しません。自首もしなくていいですから、これからは全うに生きてください。一応住所氏名電話番号等は控えさせいただきます。こちらとしてもいきなり信用するわけには行きませんので」

 ぼさぼさ頭をぶんぶん上下に動かして、佐藤の手帳に連絡先を書き込む女性。大奥は目を丸くした。

「まーた隠蔽するのかい! 警察に自首させるべきじゃないのかい?」

「こんなに気が弱い彼女が出来るのはせいぜいいたずら手紙を出すだけです。事件を本当に起こしたいなら、三回目の手紙なんていちいち出そうとしません。お笑い番組の前フリしか彼女はできないのです。それに……彼女は本当に謝ってほしかっただけですよ。今回の手紙にも名前をフルネームで書いてありませんし、むしろ二回目では体育祭で事件を起こすというのは取り消すと書いてあるし、三回目の今回も体育祭で事件を起こすという一文が消えています。彼女なりに最初の手紙はまずかったと思っているのでしょうし、加害者に自ら名乗り出て謝ってほしかったからなんでしょう」

こくっ、こくっと頷く女性を見た佐藤は、PCの検索履歴を表示して続けた。

「それにもともと彼女は文系で科学的知識が無い上にPCの検索履歴には爆弾だとか凶器に関わるものはありませんでした。部屋の本棚もね。通知表の体育の成績もスポーツテストの成績も悪いし引きこもりですから、仮に暴れてもすぐに捕まえられます。おまけに彼女の思っていた佐藤先生は今年から違う名字です。婿養子に入りましたから。そんなことも知らないのは彼女が高校へ調査に来ていない証拠です。……その先生のことは、さりげなーく私がさぐりを入れてあげますから。期待はしないでほしいですけど。とにかくあなたはさっさと就職活動……か資格取得の勉強…は、してるんですね」

女性の『お気に入り』には就職サイトやPC学校や語学学校のサイトも一応入っていた。俯いた彼女はちいさな声で呟いた。

「ニートの期間が長くて……それに…こんな調子の私だから…どこも…」

「まずリハビリを兼ねて、資格の学校に通ってからの方がいいかもしれませんね。金銭的な余裕はあるようですし……ん?」

佐藤の目は一つの水色の箱に釘付けになった。これは今クソ高値で取引されている乙女ゲーではないか。

そろばんをパチパチ叩いた彼女はそれを見つめながら説教を続ける。

「それからこの乙女ゲーもやめなさい。攻略サイトの梯子どころか、自らサイトを立ち上げてしまうなんて……何がプリンセス一乗谷ですか。同じひきこもりでも理由があった朝倉氏をもじるなんておこがましい。いい加減もっと外に出なさい。まだ貴方は24歳なんですし、これから本物の彼氏なんて服装に気を付けて死ぬ気で頑張ればできます。頑張れば。これは高値がついているからさっさと売り飛ばして服とか化粧品を買った方がよいですよ」

「……佐藤先生、なんでこのソフトが高いってわかったんだい? もしかしてその年で乙女ゲーなんかやってるのかい?」

「殿方の心を理解するために購入いたしました。ギャルゲーと一緒に」

そう言って眼鏡をきゅっと持ち上げた彼女に、大奥は白い目を向けた。

「私がジョニーズ事務所のライブに行くって言ったらアンタ馬鹿にしたじゃないか!」

「私が買った乙女ゲーは、攻略対象が全員30代~50代の会社員と地方公務員ですよ? 10代の子供に  キャーキャー騒ぐ貴方とは一緒にしないでいただきたい。私は自分の年齢を理解していますよ。貴方とは違うんです」

「そういう用法は元総理に失礼だよ! それに攻略対象が会社員とか地方公務員とかやけに具体的だし年齢も近い分アンタの方が生々しくて気持ち悪いじゃないか! 佐藤先生こそそんなクソゲー売っちまいな!」

「私が気持ち悪いのは否定しませんが、このゲームは美少女アイドルのニーソックスとスカートの距離のようにバランスがよい名作です! クソゲー呼ばわりは辞めていただきたい!」

ギャーギャー騒いで大ゲンカする二人。あっけにとられた女性はひきつった顔で眉を不快気によせ、佐藤と大奥の醜い言い争いを見つめた。これが、未来の私かもしれないのか。息を飲んだ彼女は無言でヤブオクの出品画面を作成し始めた。それを暖かい眼差しで見つめる二人だが。大奥は時計を見て顔色を変えた。

「さ、佐藤先生! 職員会議が始まるよ!」

「タ、タクシーを呼びますか! ずっと愚痴とか聞いてもらったし…ごめんなさい!」

 くるりと振り返り、キーボードから手を放してスマホに手をかけた女性に佐藤は首を振った。

「この家から出てすぐタクシーに乗ったら、後で追及された時に困ります。走って大通りに出て、そこでタクシーを拾いますから大丈夫です。ありがとう」

 佐藤は珍しく、優しい笑顔を見せた。


          7

脅迫手紙犯の女性宅から急いで飛び出し、職員会議終了間際になだれ込んだ佐藤と大奥は。手紙脅迫犯の女性が指した佐藤教諭……旧姓が佐藤で現在は高橋先生の話を、彼のクラスの生徒や顧問をしているサッカー部の部員達に聞いたのだが。皆は口をそろえてとても厳しいとは言ったものの、特に悪い話は聞かなかった。それでも佐藤はなんとなく引っかかっていた。高橋にはどこか自分と同じ匂いがするからである。

昼休みになり。お互いに持ち寄った情報を話し合おうと大奥と待ち合わせした佐藤だが。今は誰も来ていない視聴覚室で溜息を吐き。一つの机に触れる。

「これ以上人間不審にならないで欲しいんですけどね……」

 佐藤はそっと、瞳を閉じて昨日のことを思い出した。……昨日、昼休みにブス部の部員を集めた佐藤は、陽子に手紙を渡し。皆の前で読み上げさせた。

『佐藤先生はとても頼りになる方です。信じてついて行けばきっと皆さんを素晴らしい未来に導いてくれるはずです。元クラスメイトより』

『そ、それだけですか!』

拍子抜けしてずっこけた佐藤。それを見て訝しがる皆。佐藤はアッサリ過去の悪行を話した。

『ひどい……蒸しパンを顔にぶつけてやりたいです!』

『最低です! キャンパスがどうこうって話を聞いて、私なりに頑張ろうって思ったのに!』

『腹黒ババア! あなうたて!』

『生物としては死んで欲しくないですが、教師としては死んでほしいですね……』

梨々香、陽子、和泉、峰子は厳しい目で佐藤を見つめ、その眼差しを受けた佐藤は太陽に照らされた雪達磨のようにシューっと小さくなっていった。伊藤の時ほどではないが視線が刺すように痛い、というのはこういうものか、と彼女は感じた。

『もう先生なんかしらない! バーカ!』 

鞄から出した罵詈雑言辞典を思いっきり床に叩きつけて走り出る和泉。それを追いかける皆。一方、昭子は茫然としてその場から動けなかった。微かに動く唇から声は出ていない。でも、佐藤にはなぜ…と尋ねているように聞こえた。

『昭ちゃん行こう! 先生なんかほっとこ!』

潤んだ目で哀しそうに自分を見つめた昭子の顔が、梨々香に引っ張られて彼女が去った後もずっと佐藤の心からは消えなかった。今日も目をあわせてくれなかった。せっかく心を開いてくれたのに……いや、いけない、自分にはやることがあるのだ……と首を振った佐藤を、威勢の良い女性が呼ぶ。予定の時間より少し遅い。

「佐藤先生元気がないねぇ。まぁ自業自得だから仕方ないか。で、高橋先生の事だけど、上野さんから聞いたんだけどさ……」

大奥のクラスの生徒で陽子と和泉の友人・上野日夏は、人通りの少ない進路指導室に大学のパンフレットを見に行ったのだが。その時に、高橋先生とサッカー部員の会話が聞こえてしまったのだという。

「上野さんは『サッカー部の鈴木先輩達にいじめられてるE組の山本君がかわいそう。本当に困って相談しているのに高橋先生もなんか冷たいし、大奥先生が相談にのってあげてほしい』って言うんだよ。それで山本くんから事情を聞こうとしたけど、佐藤先生のクラスの加藤君と二人で学食に行ったと言われてねぇ。まぁ加藤君もいい子だから大丈夫だと思うけどさ。で、これから話すことも上野さんの証言なんだけど」

大奥が日夏から聞いたところによると。山本は部活が終わった後は特訓と称されてボールを投げつけられ。休日もサッカー部の先輩達にしょっちゅう呼び出され、食事をおごらされたり、プレゼントを強要されたり、つれまわされたりして困っているという。

「山本君のご両親は大企業でバリバリ働いておられて、家を空けることが多いんだよ。それに金銭的に余裕があるっていうのもあって目をつけられてしまったみたいでさ。サイフを忘れた先輩にアイスをおごってしまって、それからみたいだよ。あと、サッカー部のポジションの事でも揉めてるみたいでねぇ。そんな山本君に高橋先生は、警察や両親に頼らず、嫌なものは嫌だと言えるように頑張れと言ったらしいんだよ」

「は? たまにからかわれてるってレベルじゃないんですよ。金銭絡みですしもう犯罪レベルです。犯罪者相手にどう頑張れと。確かに山本君は背が高くてそこそこ強そうに見えますが、相手は複数、しかも自分の先輩なんですよ。内申書に書いてあった『真面目で礼儀正しく、優しい』彼に反撃なんて難しいです」

脅迫状も犯罪じゃないか、と思った大奥だが。わんわん泣いて後悔する女性を見て同情し、自分も彼女を見逃した共犯になってしまっていたことを思い出し。歯ぎしりしながら話を続けた。

「山本君はやめてくれって何回か拒否したけど、そのたびに先輩に殴られた、ってお腹のアザを見せたらしいんだよ。おまけに昨日は家までやってきたと」

「家までですか?」

思わず声が裏返った佐藤に、大奥はそうだ、と頷く。

「何とか居留守をつかったらしいけど、何度もチャイムを鳴らされたりドアをバンバン叩かれたってさ。高橋先生はそれでも、『男なら親や権力を頼るな、ガンバレ! 負けるな!』って連呼して……。一応高橋先生もその生徒達に注意するって言ったらしいんだけど」

「注意して言う事を聞くような奴等なら、山本君が拒否した時点でやめるでしょうに……。山本君の担任は……高橋先生でしたね」

「やっぱりあの子の言う通りだったのかね……。一見明るくて快活だけど、大人しくて自分の意志を主張出来ない人間や、甘えた怠け者が嫌いで排除するって……」

 ……佐藤は朝の出来事を思い出した。高橋先生(旧姓佐藤先生)宛の脅迫状を書いた女性は日記を書いており。高橋に破られたノート(高橋が画鋲でケガした血付き)もなぜか取ってあった。だらしない服装や少し精神的に不安定な雰囲気の彼女の話を、佐藤と大奥が全面的に信じるに至ったのは。生々しく破られた教科書を見たのと、あまりにも詳細なその日記を読んだからである。そこまで証拠もそろっているなら訴えればよかったのに、と指摘した佐藤だが。女性は鼻をすすりながら答えた。

『先生には言いました…でも……あなたも悪いって……提出物とかしょっちゅう遅れてだらしなくて…勉強もできなくて、すぐ感情的になって泣くような私は先生にも嫌われていて……まぁそりゃそうですよね……先生は完全に高橋君の味方でした…高橋君はご両親に暴力を振るわれて、今施設から高校に通っている、そんな頑張ってる高橋君の指定校推薦と奨学金が掛かっているから黙ってなさい、と言われました……その後一応いじめはなくなったんです…陰口は言われましたけど……それは今考えたら私も悪い所があったから……でも……見ていたクラスメイトはいたはずなのに……上履きで私はケガをしたのにだれも味方になってくれなかったことが一番つらかったです…みんなが敵に見えて、いじめはなくなったはずなのにもういやになりました…』

 あれほど描写が丁寧な『被害者日記』を根気強く毎日書けるのに、何故勉強は頑張れなかったのか。乙女ゲーに関しては攻略サイトまで作っていたし、方向がズレているだけの人なのだろうか……つくづく惜しい……そう思いつつ佐藤は苦いため息を吐いた。

「まぁ弱い人間や甘ったれな人間ばかりになったら世の中回りませんからね。彼女は優しいご両親も健在な上に家も裕福で恵まれているのに努力を怠っていたから、苦労している高橋先生はイライラしたんでしょう。授業に集中したいのに、度々教科書を忘れる彼女に見せてあげる羽目になったこともあったそうですし。でも物事には限度がありますからね。何度も教科書を見せるはめになったことに文句を言ったり、あいつはだらしないという愚痴をこぼすなら事実ですしよいのですが。さすがに彼女の私物を捨てるのはやりすぎですし、上履きの件も犯罪です。怪我をするだけでなく、画鋲が錆びていたらもっと危ないことになっていましたよ。頭が狂っているとしか」

大奥は天井を仰いでため息を吐いた。

「まぁその子にも悪い点はあったけど、高橋先生はおかしいよねえ。食い意地はってるあの子の大事な弁当やスマホを捨てたり怪我までさせちゃったんだから。……でも山本君は本当にいい子なんだよ。授業態度も真面目だし、礼儀正しいし、掃除も一生懸命やるし、休んだ友達にはノートをコピーして持ってきてあげているのも見たよ。それにお弁当とサイフを忘れた友達には、自分のお弁当をわけているのを見たって上野さんは言っていた」

「弁当は……」

「自分で作ってるらしいよ」

『落ち度がないのにいじめられている人を見た』そう伊藤が言っていたことを佐藤は思い出し、ため息を吐いた。何とか助けてあげたい……そう思った二人が視聴覚室を出て、廊下を歩いていた時だった。

「あれは山本君と、加藤君?」

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