話
「もうひとつの人魚の物語、なんだって」
ザワッと風が通り、雑草が擦れ合い踊る。亜麻色の髪を儘に遊ばせるルーシャンは、凍りついていた。
…聞いていないのではなく、聞かされなかった?
その一点に思い至り、愕然とする。
考えてみれば、おかしいのだ。真偽のほどは判らないが、人間の世界では細く細く伝えられている。もうひとつの人魚の物語として、忘れられることなく……
人魚の世界はというと、物語は確かに存在する。ただし、人間と交流していた時代の美しい物語と、戦後の人間の卑劣さに嘆く物語…その二種類だけ──人魚が人間を呪う物語は、ひとつもない。
…何か、隠している?
人間の世界にはあり、人魚の世界にはない。単なる偶然で、済ませられるのか。
表情を暗転させたルーシャンを余所に、少年は続ける。
「…昨日、人魚が逃げたって騒いでたけど、にいちゃんが連れ出して、殺したんじゃないかって言われてる」
腕を組み、思案げな顔つきをした。
「噂だけどね。みんな言うんだ…そのうち、人間も殺すんじゃないかって。それか、もう殺してるかもしれないって」
そんな事を口にしながら、少年はへらっと笑う。
「たしかに、にいちゃんは変わってるけど、おれはヒトを殺すような怖い奴には思えない。もし人魚殺しが本当だったとしても、きっと理由があったんじゃないかと思うよ」
少年がそう締め括った時、小瑪が戻ってきた。左手には革製の袋を下げて。
「…ほら。金貨二百十枚入っている」
目の前に出された袋に、少年が飛びつく。
「…子どもが持つような大金じゃないから、ちゃんと管理はしろ」
「うん!」
小瑪はまだ袋を放さない。少年は袋を手の中に包み、ぶら下がるような恰好になっている。
「…親に問い詰められたくなければ、一度に遣ってしまわないように」
「わかった!」
少年が明快に返事し、小瑪は袋から手を引いた。
袋を大事に抱え、くるりと駆け出した少年の背に、小瑪が呼びかける。
「…もう遅いが、独りで戻れるか?」
「平気! バイバイ、ねえちゃん!」
少年は半身を捻り、ルーシャンにブンブン手を振った。少年の姿は雑草の中に消え、足音も遠ざかっていく。
「…何か話していたのか?」
静かな声で訊かれ、ルーシャンは首を振った。
…本当なのかしら。
ルーシャンは胸元で両手を握り締める。小瑪を見つめていると、視線が重なった。
「…顔色が悪い。早く中へ。ついでに、荷物を少し持ってくれると助かる」
コクリと頷くルーシャン。小瑪は両腕に通せるだけの紙袋を通し、箱も持てるだけ積み上げ持った。開け放しておいた玄関を潜って行く。
──だけど、少年の言葉通りだとも思った。
…この人は、理由もなく殺さない。殺したくなかったはず。
そう思いたかったのかもしれない。
やがて、頭を振り、荷物に手を伸ばした。
…どちらにしても、ただの噂。物語でしかない。深く囚われることはない。
紙袋四つと箱二つが、今のルーシャンには限界だった。