年
館への道は途中から舗装がなくなり、茶色の土が剥き出していた。裸足には、少々どころでなく、荒い。
紫紺の空を背に佇む古びた館を前にして、ルーシャンは呆然とした。目も口もあんぐりと開いている。目が覚めてここを出た時は、ただひたすら海を追い、振り向きもしなかったのだ。改めて、館を見直す。
今にも崩壊してしまうのではないかと危惧を抱かせる館の古さにも驚いたが、もっと凄いのは門から玄関までの空間である。まったく手入れされていないそこは雑草が茂り放題。しかも、人の背丈ほどは優にある。辛うじて、玄関までの道は残っているが、あとは何とも言い様がない。ただただ、呆れるばかりだ。
…凄い場所。本当にここで住んでいるのかしら?
ルーシャンは、小瑪の背に不審の眼差しを送った。彼は手慣れた様子で雑草を掻き分け、サクサク進んでいく。
…やっぱり、ここに住んでいるのね。
げんなりしながら、ルーシャンも小瑪を真似て前進し、置いて行かれないように気をつけた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、独りだときっと玄関に着くまでに迷っているだろう。
夢中だったとは言え、よくここから出られたものだ。ルーシャンは自分に感心してしまった。
「…本当に頑張ったな、少年」
小瑪は、玄関前でへたっている少年を見つけて、苦笑する。荷物を固め置いた横で、少年が疲れ気味の笑顔を作った。
「荷物は? 中まで運ぶ?」
まだ息が弾んでいる。
「…いや、充分だ。駄賃を取ってこよう…少し待て」
小瑪は口許に苦笑を刻んだまま、中へ入った。鍵はしていなかったようだ。
「…なんだ、開いてたのか」
額に浮かぶ汗を拭い、少年はポツンと零す。と、荷物の量に見入っているルーシャンに気付いた。
…これ全部、あの人が買ったのかしら?
眉を潜め、小瑪が買物する姿を想像してみたが、人間の世界を詳しく知らないルーシャンにはしいかねる。そこで、たぶんそんなに違いはないだろうから、人魚の世界風に想像してみた。
…似合わない、かも。
なんだか滑稽に思え、噴き出しそうになる。
「ねえちゃん」
不意に声をかけられ、ルーシャンは慌てた。視線を移すと、少年がじぃっとこちらを見ている。
「そんなので、寒くない?」
言葉に釣られて、自分の身体を見下ろした。
ルーシャンはカーディガン一枚しか着ていない。両足は冷たい外気に晒されていた。前はボタンをしていても開き、手で押さえていなければならない。見るからに寒そうだが、今はこれだけしか服はないのだ。
説明しようにも“声”がないため、曖昧に微笑み返すルーシャン。
「…ねえちゃん、さっきのにいちゃんがどんな人か知ってる?」
「?」
ルーシャンは、少年に判るよう首を傾げて応えた。
「おれはばあちゃんに聞いたんだけど…ばあちゃんは、ばあちゃんのばあちゃんに聞いたんだって…えっと、だから、ばあちゃんのお母さんのお母さん、でいいのかな?」
少年はうーんと悩み、まぁいっかと頭を振る。
「…でね、にいちゃんはそん時からずっといるんだって。ホントかどうか知らないけど」
ルーシャンはどう反応すればいいのか判らず、少年が言うのを聞いた。
「んで、これはあまり知られてない話。街の人でも、若い人は知らない。知ってるのは年寄りぐらいなもんで、おれみたいにばあちゃんから聞いたりしてないとわからないんだよ」
少年は焦らすように間を置く。
「…あのにいちゃん、人魚を殺したらしいよ」
ルーシャンは、まさかと笑った。そんな話は誰からも聞いたことがない。人魚の話なら、故郷にいても耳にするはずだ。
少年は、ルーシャンの反応が気に入らなかったようで、口調を尖らせた。
「それで、その人魚の呪いを受けて死ねないカラダになったんだとか、言ってた!」
ルーシャンは人間の卑劣さを聞いたことがある。戦後の人間は、人魚を商売道具にしていた、と。
しかし、人魚の呪いは聞いていない。