瞳
白く細かな砂を蹴散らし、ヨタヨタしながら汀を目指す。
…海は、もうそこ、そこにある。あと少し。
慣れない足を動かし、一歩、また一歩、海へ近付く。
帰れるのだと思うと、頬が弛んだ。何度も何度も流した泪は涸れることなく、溢れ出す。
…戻ったら、謝ろう。お父様やお母様、みんなに。
夜に向かう空の下で、乙女は故郷だけを見ていた。瞳の奥に、両親や姉たち、みんなが微笑んでいる姿が浮かぶ。
…早く、あそこへ。
もう一歩踏み出せば、波に触れるところまで来た。
刹那──
「待ちなさい」
「!!」
肩を掴まれ、乙女はビクッと息を呑む。咽喉がピリッと痛み、全身が恐怖で張り詰めた。
「どこに行くんです? 先には、海しかありませんよ?」
後ろからかけられる、試すような忠告の声に、唇を噛み締める。あと少しだったのに……
「それとも、海に用があるんですか?」
すべてを知っている風情の口振りに、乙女は瞠目し、慄えた。
…ばれて、しまっているの?
海はそこに在るのに、背後の人を振り切って潜ったとしても、元の姿を見られ、確実に正体がばれる…泡となって消えてしまう。
…今は、戻れない。
瞼を半ばまで落とし、気力を失って身体の力を抜いた。
「──っと。どうしたんです、急に? 大丈夫ですか?」
背後の人が支えてくれる。肩を抱いてくれている手が、ひどく冷たかった。
…この人の手、どうしてこんなに冷たいのかしら。心まで凍えてしまいそう。
乙女はボンヤリと思う。と、背後の人が大きな溜息を吐いた。
「…まったく、目が覚めたのはいいが、あんたには羞恥心ってものがないのか? 裸で外を歩くんじゃない…もっとも、見せたかったのなら止めはしない。それは他人の趣味であって、俺が口出しするような事じゃないからな」
「!」
冗談にも聞こえない言葉。
…なんという侮辱!
一気に怒りが沸き上がった。
バッと身を翻し、肩にある手を乱暴に払う。同時にその人の頬をひっぱたいた。渇いた音が谺する。
「───」
そして、その人を視界に収めた瞬間、乙女は時間の流れの永眠を肌身に感じた。
ひとつに結わえた長く艶やかな黒髪…薔薇のような凛凛しさと華やかさを持つ、薄く形のよい唇…肌は一点の穢れもなく、平手で打った左頬が仄かな朱に染まっている。恐ろしく整った美貌だ。
「…僕の言葉が理解できるようで良かった。脳に損傷はないね」
「?」
叩かれ顔を逸らしたまま、その人は呟いた。乙女は訝り、眉を寄せる。
「………」
ゆっくりと滑らかな動作で、その人の顔が正面に向いた。視線が合わさる。
…ラピスラズリの瞳。
長い睫毛に飾られた双眸に嵌まっているのは、青い宝石…まさしく瑠璃だ。引き込まれてしまいそうなほど、深みのある色をしている。
乙女がその瞳をじっと見つめていると、その人は着ていたカーディガンを脱ぎ、肩にかけてくれた。
「……」
乙女はカーディガンの感触を確かめるように、表面を撫でる。
「…昨日の夜、君は林の中に倒れていた。憶えているか?」
問われて、記憶を手繰った。あの夜…昨日の夜、謎の人と取り引きし、館の外まで案内してもらったが、その後は謎の人と別れ、独りだ。大雨の中、脇目も振らず逃げた。それから、記憶は途切れている。
乙女は、首を横に振った。
「…そう。とりあえず、僕の家に来てもらおうか…君の服は用意してある」
優しく背を押され、歩くよう促される。触れてきた手に、乙女はひとつ震えた。
今しがた、作ったばかりの足跡を辿る。
「…一応、自己紹介しておく。僕は端樹小瑪…小さな瑪瑙、と書く。そして、あの館の所有者」
小瑪は、岬にある古びた館を示して、傍らを歩く乙女に視線を落とした。
「…君の名は?」
乙女は答えるために口を開いて、惑う。声は出ないのだ。
辛苦に堪えるように表情を翳らせた乙女を見て、小瑪は双眸を細く光らせた。
「…喋らないのか、喋れないのか」
乙女は怯えた様子で、小瑪を見上げる。小瑪は唇を弛めた。
「…君は後者か。とにかく、口を動かしてごらん。普段しているように」
言われた通りに、自分の名を乗せて口を動かしてみる。
「…ルーシャン」
「──」
思わず足を止め、目を丸くした。小瑪が振り返る。
「…違った?」
乙女はブンブンと頭を振り、コクコクと頷いた。
…どうして、判ったのかしら?
まじまじ見ていると、小瑪が苦笑を洩らす。
「…何の事はない。ただの読唇術だ。唇の動きで判断した」
簡単なことのように言うが、“ルーシャン”の唇の動きだけでは判らないと思う。“ムーラン”とも“スーザン”とも、いろいろ読めるだろうから。
「…とにかく、声が出なくても、口を動かしてくれればいい。ちゃんと判るから」
そうして、歩き出した小瑪。
信じ難い。が、小瑪なら理解してくれる気がする。
ルーシャンは一度だけ海を顧みた。
…ごめんなさい。すぐ戻るから、もう少し待って。
亜麻色の髪を波打たせ、小瑪に連いて歩き出す。