醒
太陽が中天に差し掛かる頃、簡素なベッドに横たわる乙女が目を覚ました。
乙女はすぐに身体を起こさず、首だけを動かして周囲を確認する。ベッドの右脇には四角な窓があり、厚いカーテンに陽光が阻まれていた。色褪せたカーテンは、もう何年も取り替えられていないようである。
窓の傍らには、机と椅子が無造作に置かれ、すぐ横に本棚があった。並んでいる本は、とてつもなく時間を要しそうな厚い物だったり、暇つぶしに読むような薄い物だったり。
さらに首をずらしていくと、右隅に扉があった。ベッドの足下の壁には、大小のチェストが配されている。
部屋にある物はこれだけ。なんとも侘しい…寂寥感を与える空間だ。
乙女は半身を起こした。シーツが、白妙の肌を滑り落ちる。
…また、捕まってしまったのか。逃げ切れなかったのだろうか。
虚しく視線を落とすと、白い足が目に入った。
…ああ、そう、尾鰭はない。人間の姿だ。だから、きっと誰かが助けてくれたのだろう。
そう考え、ほっとしたのも束の間、重大な事を思い出し、苦悶の表情を浮かべた。
…もう声は出ない!
下唇を噛み、乙女は小さく蹲る。泣く瞬間でさえ、微かな音も出ない。
…助けて、助けて!
声が出ないことが、こんなに辛いとは。いや、解っていたはずだ…覚悟を決めたはずだ。
陽光が遮られた部屋は暗く澱み、静寂の霧を孕んでいた。
だから、あの懐かしい音がよく聞こえる。
「───!」
乙女はパッと顔を上げ、耳を澄ました。
──ザアァァン……ザアァァン…
紛れもない、故郷の歌声。波の音。
…帰りたい。
海に戻っても、声は戻らないだろう。謎の人は、“声”を持って行ってしまったのだから。
…それでも。
翡翠の瞳に故郷の面影を映し、ベッドから離れた。
一糸も纏わぬ姿で、ただ故郷を想う。
扉に手を掛け、ゆっくりと押し開いた。扉が低く低く鳴き立てる。
太陽が家路を急ぎ、朱い足跡を残す頃、小瑪は両手にいっぱいの荷物を持ち、歩いていた。
「…買い過ぎた」
小瑪の後を、同じように荷物をいっぱい抱えた少年が連いていく。小瑪が荷物を持ち切れずに、やむなく雇った地元の子である。心なしかびくついているのは、親か誰かに小瑪の噂を聞いたからだろう。
それでも荷物持ちを承諾したのは、小遣い欲しさからか…怖いもの見たさからか…
「…まぁ、どうでもいいんだけれど」
フゥと、吐息する小瑪。
滅多にない機会で、あれもこれもと手にとり続けた結果がコレだ。腕に通した幾つもの紙袋は肌に食い込んでくるし、積み上げて抱えている箱は視界を遮って鬱陶しいし…しかも、荷物のほとんどは女物の衣類や履物。
「…阿呆だな」
小瑪は微苦笑を洩らす。
店の人も呆気に取られていた。もうひとつの人魚の物語に関わっているであろう得体の知れない青年が、どれこれ構わず買物する姿は、さぞ奇怪であったろう。
「やっぱり、変わり者か…。あ…でも、あの女がいつまでも家にいる訳ではないんだ……本当に、買い過ぎた」
小瑪は困ったように呟く。
人々が集う街を出てしばらく、左手に人魚浜が見えてきた。小瑪と少年は、人魚浜沿いの舗装された道を行き、岬にある古びた館を目指す。
ふと、視界の端に動くモノを捉え、左に瞳を移した。
「! ………」
“動くモノ”を見つけた小瑪は目を丸くし、そして細くする。
突然、小瑪が歩を止めたので、少年は小瑪にぶつかりそうになった。
「わっ、とと…」
少年は荷物を落とさないようにフラフラする。
「…少年。この荷物全部を運んでくれ」
「ぇえーっ!? 無理だよ!」
「何度かに分けて運べばいい。駄賃を倍にしてやる」
「…倍?」
少年は上目遣いに、小瑪を見つめた。その熱い視線に気付き、小瑪は唇を歪める。
「三倍だ」
その言葉に、少年は顔をパッと輝かせた。
「わかった!」
勢いよく駆け出した少年の後ろ姿を見送り、小瑪は人魚浜に下りる。