触
不安定な意識は簡単に揺らぐ。エミールはじわりと、けれど一瞬にして闇に呑まれてしまったのだった。
「まるで…幽霊みたいだ……」
死してもなおこの世に留まる魂……それはふとしたことで闇に縛られ、悪霊と化す。生前、どんなに善良な人であったとしても、だ。
いま目の前に存在するエミールは、幽霊なのか……だが、触れることができる。
幽霊とは、触れることができるのか?
「…違うのか…?」
小瑪は独りごちた。
もしかすると、“声”と“玉”を取り戻したことで実体化したのかもしれない。
「んー…?」
ただ、〈幽霊みたい〉なのであって〈幽霊〉ではないのだろう。実体があってもおかしくないということか。
そこまでで壁に衝突し、小瑪は腑に落ちないとばかりに小さく唸った。
つらつらと思考する小瑪の傍ら、エミールは半ば瞼を伏せ、睫毛を濡らしている。
「……私は海を歩き、ようやく人魚浜に戻ってきました……」
過去を、ポツポツと続けた。
「けれど……小瑪のところに戻ってくれば、“声”も“玉”も取り戻せると思っていました。でも、小瑪は“声”を持っていませんでした」
与えた“玉”の力により、小瑪は姿が変わっている。その姿で、小瑪は静かに暮らしていた。嘆く姿は見られず、淡白な日々を送っている。
「……私は、先に“声”を見つけようと思いました」
エミールは嗚咽を詰まらせた。
「その時は、憎かったんです…小瑪が。私なしで生きている小瑪が──泪を見せない小瑪がっ!」
沸き立つ感情は憎悪に満ち、曇った瞳には小瑪の表面だけしか映さない。
ここに“声”がないなら、見つけてやろう……殺シテヤロウ。
………………
……私ノ声デ……
…貴男ダケノタメニ歌ッテアゲル…
………………
闇に背を押され、再び歩き出した。
「けれど、“声”は見つからず……世界中探しても判らず……永い年月を費やしてしまいました」
そうして、“声”を宿した者を見出す。
エミールは、両手に顔を埋めて噎ぶルーシャンに視線を向けた。
「地上にない“声”を深海に求めた時、ルーシャン、私は貴女の産声を聞きました」
自分の名に反応し、泪でくしゃくしゃになった顔を上げるルーシャン。
「正しく、私の“声”でした」
茫洋と、口を半開きにしていた。
「すぐにでも返してもらおうかと思いましたが…」
眉宇を寄せ苦笑いを零す恋敵を、翡翠の瞳に映す。
「できませんでした……どれだけの苦しみがあるのか、思い知ればいいと思ったのです」
『──…私が“声”を持ったのは、偶然…?』
「おそらく……ひとつだけ言えるとすれば、王家の者であるということ…」
地上のどこにもない“声”……どんなに歩き続けても見つからない。
…どこにあるのか?
思い詰めた先に現れたのは、誰かの中に潜り込んだという可能性。そして、〈誰か〉はきっと人魚であろう。人魚属の、願ってはならない願いをしてしまった、その代表として……王族の〈誰か〉。
「そう、確信が……説明しようのない思いが、胸の内に疼きました」
運命は、エミールを待ち構えていたかのように、“声”の宿した子を現した。
エミールの到着と同時に、だ。
もちろん、エミールは“声”の発見に嬉々とした。
…ようやく終わらせられる。
………………
…貴男ダケノタメニ…
………………
しかし、見てしまった…ルーシャンの誕生を祝福する者達の顔を。すべてが幸福に満ちており、エミールは震えた。
「──ッ、どうして!? 同じ、私の“声”を持つのに──どうして、貴女はっ!!!」
口からは過去の憎悪が迸る……いや、現在でも冷めやらぬか。
風がビシリと歪む。ルーシャンは恐怖し、禍禍しくも美々しい人魚を凝視した。見えるはずがないけれど、黒い玄い憎悪が目に見えた気がする。