機
柱のような形態をした海の一部に深海の王は立ち、淡々と言葉を奏でる。
≪彼の者を殺めてほしい≫
「───」
ハッと目を開き、小瑪は王を見上げた。
≪彼の者が愛したそなたの手で、逝かせてやってほしい≫
「……何故…?」
≪彼の者もまた、やり過ぎたのだ≫
小瑪は半ば顔を伏せる。予想通りの言葉だな、と思った。
≪人間属…全てと言う訳ではないが、人間は我等を物の如く扱った。心臓を奪われた者や商品として売られた者は数え切れぬ。
そして、彼の者もまた、命を殺め過ぎた…≫
ここで初めて、王の表情が揺れる。この世から希望を見失い、まるで彷徨い続けている者のようだ。
≪彼の者の声は、闇に属しておる。我等の望んではならぬ想いが、彼の者にチカラを与えてしまった。
我等は己の過ちを認め、決めねばならぬ≫
確かに、人間もエミールも命を殺し過ぎた。だが、だからと言って、個人の命を他者がどうこうしてもいいものか。
「…エミールを殺すことで、すべてが解決する…?」
≪左様…
しかし、我は彼の者を殺められぬ≫
「…それは、同属を殺すという嫌悪から?」
王は首を左右に振った。長い髪がユラユラと神秘的に舞い揺れる。
≪出来るなら、我の手で終わらせたい…
だが、出来ぬ…≫
「俺なら、出来るとでも?」
小瑪は大胆にも王に対し、突慳貪な態度をとった。
そうしても、王は怒らない。
≪己が心に問うてみよ。そなたの中には強い想いが宿っておる≫
それに口を噤んだ小瑪は、じっと王を見つめる。
≪彼の者は…≫
小瑪の視線を真っ直ぐ捉え、王は続けた。
≪彼の者はもう、“生きる”ことを望んではおらぬ≫
…ホラネ…
暗闇の世界から、もう一人の自分が蘇る。
(うるさい! 今は消えていろ!!)
強く想い放ったが、衝撃は大きかった。
出逢ってからの日々は楽しかったはずなのに、エミールの心はこの世から離れようとしていたのだ。
「…何故…?」
小瑪は咽喉を詰まらせ、思考を巡らせる。
答えは簡単だ。
≪そなたを死なせたくないからだ≫
歌声を聞いた者は、甘美か苦痛かどちらかの死が訪れる。小瑪も危うく死んでしまうところだった。
≪必ず失うと判っておるから、失ってしまう前に…失った痛みで彼の者が暴走してしまわぬように…
そなたの手で…≫
「──…俺は、居たいだけなのに…」
両手で両眼を覆い、絶望した。
「二人だけで、居たいだけなのに…!」
エミールは、死にたいと思っている?
≪案ずるな。彼の者も、そなたと共に在りたいと思っておる≫
「なら、何故、死にたいと思う? …何故、確信を持って言えるんだ…!」
≪故に、身を引こうとしておる≫
王の声音が、少し強まる。
≪そなたが殺らねば、彼の者は、己で己が命を絶つ!≫
小瑪は薄く口を開いた。
≪彼の者を救ってやってくれ。そなたの手で、彼の者の望むままに…≫
静かに、静かに、王は音を紡ぐ。
≪短剣を。我の鱗を使うておる…≫
「…まだ、頼みを聞くとは言っていない」
≪ここに、置いておく…≫
カチンと、金属音が手摺の上に生まれた。
「…勝手だ…」
ひどく掠れた声で、小瑪は呻く。
「…あんたも、エミールも…デゼロも…この世界も…」
王は何も言わず、小瑪の言葉を待った。
「…誰も存在を認めないと言うなら、この世界が消えてしまえばいい…」
無意味な、願い。
「ただ共に在ることも許されない世界なら、必要ない。
在るのは、お互いだけでいい…」
…ケレド、エミールハ望ンデイナイ…
「違う。エミールも望んでいる…だから死を求めるんだ」
エミールも共に在ることを望んでいて…仲を認められなくても、世界は消せなくて…だから愛する人を傷つけてしまう前に、自ら死を選ぶ。
手の下から、泪が溢れることはなかった。泣き出しそうな声だけれども、雫とならない。
≪…理解しておっても、望む。
彼の者に罪はない。それを罰しようというなら、罰する者が滅べばよい…
無意味で、どちらを選択しても、彼の者は傷つき、嘆く…≫
王は、哀しく洩らした。
≪我は、彼の者に幸福を与えられなかった…もう、そなたしかおらぬ。彼の者に幸福を…≫
小瑪は両腕を下ろし、霧のかかった瑠璃の瞳に短剣を映す。月の輝きを反射させ、硬質な哀惜を宿していた。
≪…我が、子を、頼む…≫
形のよい指は、短剣の柄を握る。
海の一部は形態を失くし、王は深海へ消えていった。
短剣の重さが、命の重さを語る。
…行コウ…
…夜ガ明ケタラ…
…俺達ガ愛シ合ウ結果ガ…
…ソコニアルナラ…
…行カナケレバナラナイ…
声は蜿蜒と諭した。
「…行くさ」
短剣を胸の高さに戴き、ポツリポツリと雨滴のように呟く。
「誰のためでもない…」
持ち上げた双眸から、
「自分のために…!」
霧が晴れ、瑠璃の光線が閃いた。
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