王
◇◇◆◆◆◇◇
月明かりの下、小瑪は露台に佇み、たくさんの星を映した海を眺めていた。
日が暮れ、月が世界の舞台へ向かい始めた頃、エミールと別れた。
不安げな表情を見せるエミールには、安全のため海底に隠れていろと言っておいた。
「…海の底は、あまり好きではありませんけど、小瑪が言うならそうします」
と、エミールは小さく笑んだ。
明日の夜明けにまた会おう…小瑪は約束した。
「できるだけ、独りにはさせない」
そう言ったら、エミールははにかみ、
「…小瑪は優しいですね。ありがとう…」
何度目かの言葉を唇に乗せた。
潮風が、肌に沁みる。
…この想いをどうすればいいのだろう。
エミールを愛し、独占欲が胸をかき立てる。
…誰ニモ見セタクナイ…
孤独を知り、怖れるエミールの、時に見せる心の底からの微笑みは幸福感に満ちている。真っ暗闇に灯るささやかな光のよう。
…誰ニモ聞カセタクナイ…
耳を撫ぜるあの清涼感に溢れる音楽的な声。その歌声は危険に満ち、甘く切ない。
…誰ニモ触ラセタクナイ…
柔らかな唇は吸うごとに熟れ、艶かしく、可愛らしい。
…自分ダケノモノニスルニハ…
小瑪は手摺に寄りかかり、頭を抱えた。
エミールと共に生きたい…誰の手にも渡らないようにしたい。月長石の瞳には、自分だけを映したい。他のナニモノも、エミールには必要ない。
(違う…そうじゃない。ただ二人だけで、平穏に居たいだけ…邪魔しないでほしいだけだ…)
生きたい…殺シタイ…
(殺したくなんかない!)
暗闇の世界から、声が囁く。紛れもない、小瑪の声で。
…デモ、イツカ、誰カガ攫ッテイク…
…エミールハ、自分以外ノモノデモ喜ブ…
…愛デルノハ、自分ダケデイイ…
…自分ダケノ側ニ…
…逃ゲラレナイヨウニ…
声は止むことなく響く。すべて、否定できない自分の心。けれど、
「やめろ!」
それでも小瑪は目を背けようとする。背ケラレナイノニ…
(違う。生きたい。俺たちは…二人だけで…!)
唇を噛み締め、もう一人の自分を殺そうとした。殺セナイノニ…
…エミールモ、ソレヲ願ッテイル?…
「当たり前だ!」
…本当ニ?…
「───」
小瑪は瞠目し、息を詰めた。
(エミール、は…?)
エミールも、自分と同じように願っているのだろうか?
小瑪には、答えが出せない。そうであってほしいと願うのに、エミールが遠い。
≪人間よ≫
夜闇に谺する声が、立ち昇る海の音と共に注ぐ。
小瑪は驚いた様子もなく、丸めていた背を伸ばした。心の乱れを、一瞬で呑み込んだ。
「…一国の王が直々(じきじき)に、何の用です?」
涼やかな唇の片端を上げ、皮肉に言う。
海上に現れたのは、まさしく海の王であった。神秘なる月光を孕んだ長い髪は、寄せては退く波のよう。自然の叡智が窺える容貌に、形容し難い双眸。すべてを見透かしているような、千里眼の力を感じさせる、水晶の眼だ。
≪王だと思うか?≫
くすりと鼻を鳴らした小瑪は、自らの額を指差すことで、相手の額を示した。
「人魚の世界では、藍玉は王の証」
小瑪の示す通り、拳大の藍玉が額に輝いている。
≪…いかにも。我は十一代目国王を冠せられておる≫
表情という表情もなく、王は頷いた。
≪先の質問だが、察しがついておるのではないか?≫
「…さあね」
≪瑞樹の末裔。東の果てより来し一族。
我ら人魚属と人間属を繋ぐ者よ≫
ハァ、と、吐息する小瑪。
「その役目は、もう担っていません」
≪そうであろうな≫
特に嘆くわけでもなく、王は首肯した。
≪瑞樹の者よ。
…これが、人魚属と人間属の最後の交流となるであろう…
我の望みを聞いてはもらえぬか?≫
「……」
≪しかし、そなたは拒めぬであろう。
彼の者については、そなたは誰にも譲りたくないであろうからな≫
小瑪は瞼を下ろし、手摺の冷たさを手の内に感じる。
(…エミール…)
銀の煌きが、眼裏をかすめた。