雨
真夜中になる頃、空には厚く昏い雲が込み合い、ひとつの星も見えなかった。豪雨が降り注ぐ様子は、天が激しく嘆いているよう。雷公までも、怒り轟いている。
「今日は、外が騒がしいな…」
小瑪は、暗い部屋から外を眺めていた。
暗い部屋の中で、白い顔だけがまるで生首のようにボンヤリ浮かんでいる。それもそのはず…小瑪は黒のタートルネックシャツとズボンで身を包んでいるのだから、黒い部分は闇に融けてしまう。
「少し、散歩しよう…」
唐突に独りごち、ユラリと屋外へ出る。一歩出た瞬間に雨が容赦なく打ち、あっという間に身体の芯まで濡れた。結わえていない黒髪は腰まであり、すべて身体にくっつてしまう。が、小瑪はそれらを意に介さない。
やはり、普通ではない。思いつくことが、他者と異なっている。第一、この土砂降りに、しかも真夜中に、散歩をしようなどと思う者はそうそう居るまい。このあたりが、街の人たちから変わり者扱いされる原因のひとつだろう。
しばらく、小瑪は道なりに林道を歩いていた。ここを真っ直ぐ登れば、人魚が捕らえられている館に出る。しかし、小瑪には関心がない。この散歩は、人魚が目的ではない…目的などない。
そうして、フラリと道を外れ、林に入っていく。
ただ足の向くまま、林の中、木々の合間を縫い続けた。
と、小瑪は足を止める。
前方の木立ちの中に、一条の真珠の輝きが見えた。
「……」
気のせいかとも思ったが、無視する理由もないので、木立ちを覗いてみる。
「あ…」
なんと、輝きの正体は真白な乙女の裸体であった。
亜麻色の波打つ髪を濡れそぼる大地に乱し、ぐったりしている。
「…こんな時間に、こんな場所で、一体……?」
細い顎に、繊細な指を添え、考えた。
何にしても、見つけたからには放ってはおけないだろう。
「…仕方ない」
小瑪は、乙女を抱き上げる。その細腕で、軽々と持ち上げた。
人魚浜の傍に、そこを臨むようにして建っている館がある。館は古めかしく、今にも崩れてしまいそうで、壁には蔦が複雑に絡み合っている。広い庭も草が茂り放題だった。もともと、明るさのない館だから、雨闇の中に佇む風景は、吐き気がするほど薄気味悪い。この館を訪問するには、容易ならざる勇気が必要だ。できるなら、近付きたくもない。
その館の前に、雨具で身を包んだ男が二人いる。一人はまだ若く、もうすぐ三十に届きそうな面立ちをしており、いま一人は壮年の男だった。
「……ここも、確認を?」
若い男が館を仰ぎ、肩を震わせた。雨が冷たいうえ、ここの空気はひどく重たく冷たい。
「仕方がない。旦那様の命令だ」
壮年の男は何気なく言ったが、胸の内ではこの館に近付くことを拒んでいた。だが、雇われの身である以上、主人の命令は絶対なのだ。
それでも、館の敷地に踏み入るのを躊躇していた。そこへ―――
「一体、何の騒ぎです?」
「うわっ!!」
突然、暗闇に浮かぶ白い顔。若い男は飛び上がり、壮年の男は僅かに瞠目した。
よく見ると、この館の主である。まだ若いのに、病に侵された人のように青白い顔をしている。この雨の中、雨具も持たず、濡れるがままになっていた。
「…脅かすなよ」
若い男は悪態をつきながら、胸を撫で下ろした。
「迷惑ですよ」
間髪入れず、館の主が唇を不快に歪ませて言う。
若い男はムッとして思った。好きでこんなことをしてるんじゃない、と。
「失礼ですが…」
若い男の怒りを遮るように、壮年の男は一歩前に出た。
「瑞樹さん。人魚を見ませんでしたか?」
壮年の男の丁寧な口調に、小瑪は目を細める。
「物語の人魚ですか?」
壮年の男は、若い館の主の瞳がぎらつくのを見た。
「人魚は、物語の世界に飽きたのですか?」
小瑪は鼻で笑い、重く水を含んだ髪をかきあげる。
「人魚は存在している!」
若い男が声を荒げた。壮年の男は、顎を引く。
「ふーん」
興味が失せたように、小瑪は腕を組んだ。
「…ご存知ではないようですから、失礼します」
礼をし、踵を返した壮年の男に、若い男は慌てて追いかける。