明
「さ、小瑪!」
蒼白になり、“椅子”から身を乗り出したエミール。
その下の海が盛り上がり、
「!?」
ザバァと小瑪が現れた。
驚き、呆然としているエミールの唇を、すくい上げるようにして奪う。
「───」
小瑪は幽玄な微笑を口許に閃かせ、吐息もかかる近さに留まった。
「なら、キスはできる?」
悪戯っぽく小首を傾げる。
エミールは丸くしていた目を細め、潤ませ、閉じた。緩く巻いている睫毛が濡れている。
「……訊かないで、下さい…」
「今度は、逃げないのか?」
「小瑪…」
月長石の瞳を上げ、小瑪の頬に手を添えた。小麦色の滑らかな肌だ。
「…逃げられると、思いますか?」
小瑪は微笑を湛えたまま、再度エミールの唇を攫った。
『愛している』
口中へ囁き、深く…深く交わる。
空では真昼の月が、笑っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
僥倖がカーテンの隙から忍ぶ時分、ルーシャンはベッドに蹲り、“声”のない咽喉で叫んでいた。
矛盾と後悔が、彼女を苛む。
(覚悟を、したはずなのに…!)
こういう時にこそ、“声”が必要なのだ。
(小瑪には届かない!! 私の叫びが、届かないっ!!)
ぐぅ…と拳を握った。爪が、皮膚を裂いてしまうくらいに、強く…
(声を、渡さなければ…よかった…!)
泪が溢れ、シーツに染みをつくった。
(…でも、あの人に助けてもらわなければ、小瑪には…逢えなかった
愚かなルーシャン!!
どうして、他の条件にしてもらえないか、訊かなかったの!?)
下唇を噛み、息だけで呻く。
『───小瑪…』
全身から力を抜き、虚ろな瞳を現した。
『…小瑪……』
部屋の隅の暗闇が、謎の人を模る。
ルーシャンは、その幻想に手を伸ばした。
『返、して…』
さくらんぼのような唇を震わせる。
幻は嗤った。生者の立ち入りを拒む、昏い場所に属するモノ…
それは、言った。
―――“声”は二度と、貴女には戻りません…
ルーシャンの声で。
『返し、て…』
クスクス、くすくす…囁かな笑声が谺する。
『…助けて…』
フラッと、伸ばした腕が落ちた。
幻の背後に、数々の影像が流れる。
父、母、五人の姉たち、城仕えの者たち、国の人々……
『…ごめんなさい…』
ルーシャンはただ謝罪した。
(私は、してはならない恋をしてしまった…人間を、愛してしまった…
この想いは、決して消えない。いつまでも、私の心に在り続ける…)
ならば、故郷に戻ってしまったら、もっと辛くなってしまうのではないか?
今でさえ、これ程近くにいるというのに、満たされないのだから…小瑪を見ることもできなくなってしまったら、きっと…
(──心は永遠にひとりを恋い焦がれたまま…)
僅かに瞠目した。
(そんな、苦しいのは…イヤ…)
そして、それは永久に叶わぬ恋だから…
幻の隣りに、小瑪が現れる。
(想いが、叶わないのなら…)
失くした声…
偽りの姿…
泡となり消えてしまう危うさを秘めた身体…
(正体を、明かしてしまおうか…)
想いだけでも、せめて…小瑪の胸に残って…
のっそりと上半身を起こしたルーシャン。ベッドが低く軋む。
裸足のままで、床に立った。
頭を傾ぐと、亜麻色の髪が頬にかかる。
──…ごめんなさい…
王宮の一室で、セシルは窓辺に腰掛けていた。
窓からは、人魚たちが暮らす家々や魚たちが木の葉のように揺らぐ珊瑚の森が見える。
国は穏やかで、寂漠とした流れに包まれていた。
ふと、末妹の、ルーシャンの声が聞こえた気がして、顔を上げる。ルーシャンと同じ翡翠の瞳を、苦く微笑ませた。
「…あの子の声は、もうないのだったわね…」
痛ましく眉を寄せ、小さく首を振った。
(一体、あれは何者なのだろう…)
ルーシャンを必ず帰すと言った、あの謎の人。
(人魚の事…について、随分と詳しいようだったけど…)
海の上を歩く、奇怪な力を持った者。
──…代々国を治める者なら、知っているでしょう
確かに、そう言った。
(…お父様が、何を知っていらっしゃると言うの…?)
セシルは背を伸ばし、父王を探しに部屋を出る。
広く長い回廊を行くと、すれ違う城仕えの者たちが笑顔で頭を下げてくれた。
やがて回廊が開け、目の前に巨大な扉が現る。青磁色の堅牢な扉は、謁見の間に続いていた。赤色の珊瑚で織られた絨毯が、扉から玉座までを繋いでいる。絨毯の両側には、円い柱が三本ずつ立ち並んでいた。
ここに、父王の姿はない。
「…どこにいらっしゃるのかしら…」
ふぅ、と、顎に指を当て、周囲に首を巡らせた。
「セシルお姉様? 何をしていらっしゃるのですか?」
少々沈んだ声音に振り返ると、葵色の真っ直ぐな髪をした長妹・アレイスが、百合のような美貌に哀愁を漂わせていた。
アレイスの横には、紫色の波打つ髪を持った次妹・ミスティが。
「お父様がどこにいらっしゃるか、知らない?」
「お父様、ですか? …私は、存じません。ミスティは?」
アレイスは、左隣りのミスティを見る。目尻が下がり、天然の優しさと妖艶さを秘めた容貌をしていた。
「わたくしも、存じませんわ…」
ミスティは鼻にかかった、癖のある喋り方をする。
「そう…
ありがとう」
セシルは小さく微笑み、身体を返した。