想
パシャン、と、尾鰭で海面を蹴る。水泡は空を翔け、小瑪の足元で砕けた。
「デゼロは言っていました。
小瑪は、何も知らない女が近付いてくると、旅行に託けて逃げ出す、と。そして、最低一ヶ月は帰ってこない、と」
「あいつ、誰にでもそういう事を言っていたのだろうか」
小瑪は目を眇め、口を尖らせる。
「それはないと思います」
クスクスと笑声を立て、エミールは風に靡く白金の髪を押さえた。
「あと、誰でもいいから早く身を固めてしまえばいいのに…とも。そうすれば、他の女を気にしなくていいそうです」
「人がいない所で好き勝手に…ひとりの女に決めても、そのひとりを構ってやらないといけないじゃないか。何故、俺が、そんな面倒臭い事をしないといけないんだ。
それに、デゼロだって誰もいなかったじゃないか」
小瑪は“席”の端に座り、海面すれすれに足を垂らしている。
「もしかすると、内緒で誰かいたのかもしれません」
エミールはソファ形の“椅子”に座り、小瑪との時間を愉しんだ。
小瑪は毎日、厭きずに訪ねに来てくれる。
「それはない。もし居たなら、ここに来るはずだろう」
「あ、そうですね…」
「デゼロも、俺に黙ってはいないだろう。隠し事をするような性格じゃなかったから」
小瑪の声音には、親友への信頼が感じられた。
「貴男を心配していたんですよ」
「他人の心配より、自分の心配をすべきだ。俺を心配しても、意味がない」
ツーンと背を伸ばし、腕を組む。
「……小瑪は、他人が嫌いですか?」
「何故?」
「デゼロが言っていました。
小瑪は他人と一線を引き、自分がその一線を越えられたことが不思議なくらい、冷めている…と」
小瑪は、顔を半ば伏せ、靴の爪先を海面にくっつけた。小さな波紋が円々と広がり、消えていく。
「…失うことが、怖いからですか?」
瑠璃の瞳を上げると、エミールが切なげに眉を寄せていた。
「…私は、怖いです。それも、とても大切なヒトを失うことが…
関わらなければ、失わない。なら、見守ろう…
この想いを、一生眠らせておこう…
私には、この――」
エミールは、スと喉元に触れる。
「声が…歌声がありますから、必ず失うと判っているんです」
それでも、離れられない…と、息と共に吐き出した。
「他人が嫌いなら、デゼロを親友とは呼ばない」
小瑪は頭を擡げ、右肩に預ける。
「…そう、失うことが怖いから、なのかな…
誰かを失うことで、心が傷ついてしまうのを避けているのかもしれない。
…デゼロのような別れ方は、二度と味わいたくないな。
だから、他人を近寄らせない、近寄らない」
「でも、それは、あまりに極端です」
胸の前で、両手を握るエミール。
「デゼロから、貴男の話を聞いて、淋しい人…だと思いました。
…私も独り…けど、私とは違う小瑪…」
月長石を瞼の奥に隠し、握り締めた手を口許へ持っていく。
「…逢いたい」
愛らしい唇で、甘い言葉を奏でた。
「逢ってみたい…
どんな人なんだろう、デゼロが親友と呼ぶその人は…
淋しい人…けれど、優しい人」
顔を上げると、空は夜衣を纏い、まあるい月枕を抱いていた。
「…俺は、優しくなんかない」
「いいえ。貴男は優しいです」
エミールは、ゆるりと微笑し、
「デゼロの口からは、貴男の名前がよく出ていました。
私は、逢いたい…と思うようになり、それは日々募り、胸を焦がします」
涙ぐむ。
「…ごめんなさい。私は誰かを想ってはならないのに…私には、禍しかないのに…」
苺を思わせる甘酸っぱそうな唇が、翳った。
「まだ、逢ったこともない人を、私は…好きに…
そして、禍を…」
小瑪は目を瞠り、ただエミールの音色に聞き入る。
「ごめんなさい。
…でも、好きです……」
想いを口にし、エミールは身体を前へ傾けた。
小瑪が止めに入る間もなく、エミールは海中へ姿を消す。
呆然と、小瑪はエミールの残像を追った。
「……逃げるか、ここで…」
くしゃっと前髪を掻き、唇を弛める。