声
人魚姫は、深海にある人魚の国の末姫でした。王様や王妃様、五人の姉君や城仕えの者たち、たくさんの人魚に愛され、大切に育てられたお姫様です。
彼女は地上に興味がありました。特に、空に架かるという七色の橋に。
けれど、地上に行くことは危ないのだと、皆が口をそろえて言います。
面白くありません。人魚姫は、少し見るくらいなら大丈夫だろうと、高をくくりました。
そして、皆の目を盗み地上に出た人魚姫は、爽快な蒼い空に心奪われました。
深海も綺麗な場所ではあるが、これほど清かではありません。少なくとも、彼女はそう感じていました。
この陽気な空の下で心踊った彼女は、唄を歌わずにはおれませんでした。
人魚姫は夢中になって、美しい声で歌い続けました。
忍び寄る魔の手に気づかぬほど、魅入られていました。
人間に捕らえられ、一体幾日が過ぎたのだろうか。
もう永い間、本物の海を見ていないような気がする。
「出して…」
人魚姫は、小さく小さく零した。あとは、すすり泣く声ばかり。
人魚とは、本当に美しい生き物だ。この囚われの乙女もまた、最高の輝きを宿した宝石のよう。
朝の木漏れ日を縒り集めたような黄金の髪はゆらゆらと波打ち、蒼天を映した海のような翡翠の瞳は哀しみを溢れさせている。白妙の肌は柔らかい曲線を描き、その腰からは桜の舞い散る尾鰭が続く。
誰もが、この人魚姫に魅了された。魅了されないほうが、おかしい。
「ごめんなさい…お父様、お母様…みんな…ごめんなさい…言うことを、聞かなかったから…」
人魚姫は、自分の愚かさを嘆いた。誰もかも口を酸っぱくして、地上は危険だと言っていたのに。
人魚姫は毎夜泣き続けた。
「ここから逃がしてあげましょうか?」
そんな折、人魚姫の前に謎の人が現れた。
性別の判断は不可。黒いキャスケットを目深に被り、真黒のジャケットを着ている。均整のとれた体躯を闇で包んでいた。
「私が貴女を助けて差し上げます」
謎の人は、ひどく嗄れた声で言う。
「…本当に?」
人魚姫は泣きながら、美しい声で聞き返した。
謎の人は、薄い唇を歪める。
「ただし、条件があります」
「なに?」
得体の知れない相手だ…まともな条件を出すとは思わない。人魚姫はコクッと唾を飲み、構えた。
「貴女の、その美しい声を頂きます」
瞬間、この世の終わりを見た気がした。
人魚姫はいっぱいまで目を瞠り、妖しげな微笑を口許に湛える謎の人を凝視する。
声を奪われてしまったら、もう大好きな唄も歌えない。両親や姉たち、大好きな人たちを呼ぶこともできない。
しかし―――
人魚姫は瞼を落とした。
しかし、ここには居たくない。
絶えることのない卑しい視線。言葉。
あんなものを一生浴びていたくない。
「…解りました。ここで見世物になるよりは、マシです」
人魚姫は瞼を上げた。翡翠の瞳を、くっと強める。
「条件は呑みます…が、ひとつだけ頼みがあります」
「何でしょう」
謎の人は一歩踏み出し、人魚姫が囚われている巨大な水槽に左手を触れた。
「人間の姿をください」
人魚姫は胸の前で両手を握る。身体を丸めて、顔を伏せた。
「きっと…この姿では、海に出るまでは不自由です…」
謎の人は、人魚姫の申し出が判っていたらしく、先よりも不気味に口許を歪める。
「いいですよ」
すぅっと右手を真上へ掲げた。
すると、水槽の中の海水が渦を巻き始めた。渦は、人魚姫を包み込む。
謎の人は二歩三歩と後退した。
水槽と謎の人との間に、渦巻く海水が立つ。
謎の人が掲げていた腕を下ろすと、渦巻く海水はザァッと水泡を四方に散らした。
そして、そこに白妙の裸体を晒す乙女が現れる。
亜麻色の髪と翡翠の瞳を持つこの乙女は、先程の人魚姫である。
「ですが、お気をつけて。正体が人魚だとばれてしまった時、貴女は泡となり、消えてしまいます」
人間の姿になった人魚姫は、コクリと頷いた。
「ありがとうございます…」
謎の人は、礼を言う乙女の喉元へ右手の指先を翳す。
ほんのりと淡い光が灯り、それを握り締めた。
「では、確かに頂きました」
と、左手を乙女の方へ差し伸べる。
「それでは、姫様。館の外まで案内いたします」
人魚姫は、謎の人の手をとり、館から脱出した。