遇
生命の源である、海。
世界は蒼く、清清しい……
大陸が見当たらない海の真ん中で、波が跳ねた。
橙色がかった金髪は太陽光に輝き、海面にたゆたう。
艶やかな美貌の海の住民――海と共に在る者。
彼女は、不安げな表情を巡らせていた。
「…あの子、どこへ行ったのかしら」
深海にある人魚の国の姫君。六人姉妹のひとり、ルーシャンの姉である。ルーシャンとは、十も歳が離れている。
名は、セシル。いつまでも帰らない末の妹を心配し、海上まで出てきたのだ。
城の者たちに拘らず、皆が総出になって探しているが、未だ良い知らせはない。
長姉である彼女は、居ても立ってもいられず、四人の妹を残して城を飛び出したのであった。年長であるということにも、責任を感じている。
しかし、最愛の妹を見出すには至らず、途方に暮れた。
「…まさか、人間に……」
そんな不吉な想像ばかりが、脳裏を過ぎる。
「いいえ、まさか…どこかに迷い込んでいるだけよ…」
セシルは、不吉な考えを頭から追い出すために呟いたが、自信がなかった。
ただ迷っているだけ…そう信じたいのだが、どうしても欲深い人間の像がクルクルクルクル駆け回る。付かず離れず、セシルの精神を擂り削った。
「とにかく、もう一度見回ってみましょう。どこかで、淋しがっているかもしれない」
言葉にしていないと、やるせない気持ちになってくる。
瞬間―――
「何をしているんですか?」
涼やかな、美しい声がセシルの耳を打った。
ずっと親しんできた、忘れようもない…
「――ルーシャン!」
久し振りの妹の声に、セシルは嬉々とした表情を見せる。
突然行方知れずになり、皆に心配をかけて…その身勝手さを叱ってやろうと思っていた。
けれど、声を聞くと安堵が胸を衝き、言葉にもならない。
今は、すべてがどうでも良かった。妹は、無事だった…!
「ああ、ルーシャン! 私たちがどれほど心ぱ―――」
クルリと振り返って、セシルは固まった。
視線の先にあるのは、人間の足。
あると思っていた妹の顔がそこになく、思考が停止する。裏切られた現実に、ただ釣られるがまま、瞳を、顔を、上へ動かした。
足から腰、腰から胸へ…
「――ダ、レ…?」
真黒のジャケットで身を包み、黒のキャスケットで貌の七割を隠した、謎の人間。
だが、人間が海の上に立てるのだろうか? …人魚でも、余程力のある者でない限り、そんなことはできない。
しかも、“声”がまるっきり妹のモノだなんて…
セシルは、恐れを抱き、海の中を後退した。
「…どうして、妹の声を…?」
「これですか?」
謎の人は唇を半月に歪め、己の喉元に触れる。
「これは、貴女の妹君を逃がしてあげた時に出した条件です」
「――あの子から、声を奪ったの…?」
唄を歌うのが大好きなルーシャンから…
妹の身に降り懸った不幸に、声が掠れてしまっているセシル。
「…そうなりますね」
不気味な微笑みに、鳥肌が立つ。
「…待って…逃がしたって、言ったわね?」
不幸は、それだけではないらしい。
「はい」
「人間に、捕らえられたの?!」
「ですから、それを私が逃がしてあげたんです。彼女が望んだ通り、人間の姿を与えて…」
「人間の、姿…?」
「はい」
謎の人は、コクリと首肯した。
「ですが、これは気をつけないといけません。正体が人魚だとばれてしまうと、泡となって消えてしまいます」
「何ですって!?」
あまりの事実に、セシルは眩暈を覚える。
新たな不幸だ――人間に捕まった…声を奪われた…逃げ出したのはいいが、正体がばれてしまうと泡となり消えてしまう…
「そんなに驚くことはないでしょう。夜でしたし、人目にはつきません。それに、海に入れば、そういったことはなくなりますから」
謎の人は、ルーシャンが国に戻っていると思っているようだった。
「…いいえ」
セシルはぎゅっと目を瞑り、唇を震わせる。
「妹は…ルーシャンは、戻っていないわ」
「…はい?」
謎の人は首を傾いだ。
「国には、戻っていない! だから、こうして地上を見に来ているのよ!」
セシルの必死さを見ても、まだ信じられないのか、唇から表情を消し、間を置く。
「………本当に、言っているのですか?」
「こんな嘘をつくと思うの?」
「…そうですね」
柳眉を寄せたセシルは、眼光を鋭くした。
「ルーシャンを逃がしてくれたのなら、海まで連れて行ってくれたの?」
「……いいえ」
「どうして最後まで助けてくれなかったの? 逃がしてくれるのなら、安全な場所まで案内するのが筋でしょう!?」
セシルの剣幕に圧された様子はないが、謎の人は肩を落としていた。
「…そうですね。私の落ち度でした。海はすぐ側にあったので、大丈夫だと思っていました」
「ルーシャンは…ルーシャンだけではない…人魚は、地上を知らないわ!」
「はい、そうでした。忘れていました…今は全く交流がないことを…」
謎の人は、キャスケットの鍔部分を抓む。
「…もし、交流があったとしても、人魚は陸に上がれない」
「判りました。妹君を捜してきましょう」
フゥ、と、息を吐いた。
「条件はありません」
「当たり前よ!!」
ぴしゃりと言い切られ、謎の人は肩を竦める。
「ひとつだけ言わせていただきますが、妹君の“声”は戻りません」
「どうして!?」
意表を衝かれて目を丸くしたセシルに、ニコリと微笑む謎の人。
「これは、どうにもならない条件ですから。
むしろ、彼女はこの“声”を持たない方が良いんです」
「……貴方は、一体何者なの?」
「…そうですね…代々国を治める者なら、知っているでしょう」
「………お父様が?」
真意が理解できず、セシルは眉を顰めた。
「では、国で待っていて下さい。妹君は必ず貴女の元へ帰しましょう」
そう一礼して、海の上を歩き出す。
後には波紋が続いた。