哀
『それよりも、聞いてくれ! とうとう歌声が聴けた! 言葉にしようがない、素晴らしい…!』
デゼロのあまりに熱狂的な姿に、僕は不審を抱いた。
『デゼロ。あの人魚が現れたのは、一ヶ月前だと言ったな?』
『ああ』
『死者が出始めたのも、一ヶ月前だな?』
デゼロの表情が一瞬で硬くなり、視線がテーブルの上へ動く。
『…記事を信じるのか?』
『事実だろう?』
『…それが、あの人魚のせいだと思っているのか?』
デゼロが、きつく僕を睨んだ。そんな眼をしたのは、初めてだった。
『違うのか?』
『違う! あの人魚は、エミールは何も悪くない!』
『…だが、人魚が現れた頃と死者が出始めた頃は一致している』
『そんなもの、何の証拠にもならない!』
『デゼロ…』
『小瑪、真実はその目で確かめろ』
それ以上、デゼロは口を開かず、僕に背を向けた。
彼を止める言葉を、僕は知らなくて…彼の背を目に焼きつけた。
こんな口論をしたのは、初めてだった。
彼と会ったのは、その三日後…
人魚浜で、氷のように冷たくなっている彼を、見つけた。
彼は二度と、笑わなかった。
「…最初で最後の喧嘩…」
小瑪は、窓の外を見つめた。カーテンで閉ざされた窓…外は見えない、それでも……
(…デゼロは、僕の謝罪も聞かず…仲違いしたまま、逝ってしまった)
彼の笑顔は、今でも、鮮明に、脳裏に弾けるのに…
(…君は、僕の声が届かない場所へ……そして、エミールを……デゼロ、君は怒っているだろうね…)
くと袖を引かれ、ルーシャンの存在を思い出す。視線を移すと、ルーシャンが目にいっぱいの泪を溜め、微かに瞳を輝かせていた。
『理由が、あった…その人魚のせいで、友達が死んでしまったのでしょう?』
唇を歪める小瑪に、ルーシャンは怯む。
「…理由があって、よかったね?」
『――――』
目を瞠り、表情を凍らせた。
「…けれど、友の仇ではないよ。僕は、そんな事はしないからね」
銀の額縁が、小瑪の肩先に触れる。
(…そんな事をすれば、デゼロは僕を許さない。化けて出る程、僕を恨むだろう…)
小瑪は腕組みし、壁に凭れた。
「…憶えておくといい。人間は汚い…僕は、そんな理由がなくても、この人魚を殺していた」
そっと、服の上から鎖骨の中心を押さえる。
「…この人魚と会って、生まれた想い。消えることのない闇……」
ルーシャンは、小瑪から目が離せなかった。小瑪も、半目を伏せ、ルーシャンから視線を外さない。
「…誰にも見せたくない。触らせたくない。その声も、瞳も、何もかも、僕だけのモノ。誰にも渡さない」
小瑪の細面からは、一切の感情が消え失せていた。
「…そのためには、どうすればいい?」
ルーシャンの咽喉がヒクリと動く。
「…僕だけの側に置くためには――殺すしかない」
『違う…そんな方法、間違ってる!』
「…そうだね。ちゃんと判っていたさ」
小瑪は腕を伸ばし、ルーシャンの頭の上に手を置いた。
「…けれど、止められない。これだけの強い想いを、僕は止められない――デゼロを、止められなかったように…」
『…どうして…? 他に、方法はあったはず…どうして?』
「…判らない? 人間と人魚が、結ばれると思っているのか?」
『でも…でも……!』
亜麻色の柔らかい髪を、その感触を楽しむように撫でる。
「…君は、幸せ者だね。本当に何も知らない…可哀想に…」
『私、が…?』
「可哀想…」
『―――違う…』
涙が頬を伝い、とめどなく流れた。
『違うわ。可哀想なのは、貴男…。私ではないわ』
翡翠の瞳が、小瑪を映す。
『…貴男は、自分の手で殺したと言うのに、ずっと待っている…その、愛する人を…』
「…そう思う?」
『誤魔化さないで、小瑪』
ルーシャンは瞳を強くした。
「………」
その強い光を、知っている。
「…彼と同じ目をするんだね」
小瑪は、唇を弛めた。
「…もう、お休み。こうして起きていても、辛いばかりだろう」
『それは、貴男でしょう? …逃げるの? そうやって逃げてきたの?』
「……」
『小瑪!』
「…ルーシャン、部屋に戻れ。独りになりたいんだ」
『小瑪!』
腕を引かれて立たされたルーシャン。背中を押される。
『お願い、小瑪! 過去ばかりを見ないで! 生きているのだから…未来を見て!』
ルーシャンは振り向き振り向き、懸命に口を動かした。
『私は……私は!』
押し出されて、よろめく。
『小瑪!』
パッと身体を返した瞬間、扉が世界を区切った。
生まれた風が、ルーシャンの泣き濡れた頬を撫ぜる。
『小瑪…』
出かかった想いは潰え、ルーシャンは悲しく項垂れた。