拒
小瑪は居間にあるソファで、静かに横たわっていた。左の腕で、顔を覆っている。
「…お腹が空いたのなら、勝手に探して食べてくれ。パンぐらいならあるはずだ」
目で確認せずとも気配を悟り、冷たく突き放した。空気がピリピリしている。
(自分の家でさえ、独りにはさせてくれないのか…)
だが、ルーシャンを招き、少年を雇ったのは、すべて小瑪自身の判断だ。誰にも文句は言えない。
唇に自嘲の微笑みを浮かべ、側に寄ってくるルーシャンの気配を感じた。
ルーシャンが服の袖を引く。このままでは、会話が成り立たないからだ。
(不便だ…)
仕方なく、左腕を顔から退ける。すぐ側でルーシャンが跪き、翡翠の瞳を心配げに揺らしていた。
『…疲れて、いるの?』
「…別に」
おずおずと、細い指が伸びてきて、唇に触れてくる。
『切れてる…』
痛みに堪えるような顔をしたルーシャン。
「…自分で噛み切った。君は痛くないだろう」
『私は、痛くない。でも、痛い…』
小瑪は、じっとルーシャンを見つめた。
『──…何か、あった?』
「…別に」
ルーシャンの指をそっと退ける。と、唇を意地悪く歪めた。
「…ああ、何かあったとすれば…君がここにいることだ」
『……小瑪…』
小瑪は腹立たしく舌打ちし、身体を起こす。艶やかな黒髪が、サラリと音を立てた。
(判っているはずだ。彼女に当たってどうする……)
細く息を吐き出し、不安を眉宇に漂わせるルーシャンの頭を撫でてやる。
「…本当に、何もない。君は、気にしなくていい」
血に彩られた唇を緩やかに和ませた小瑪。その唇の形が、ルーシャンの瞳に強く焼きついた。
「…服のサイズは合っているか?」
ルーシャンは頷く。
「…よく眠れた?」
『眠れた…』
ぎこちなくならないよう、ルーシャンは小さく微笑んだ。
(…笑わない。少しも…貴男は。貴男の瞳は、笑わない)
瑠璃色の瞳。呑み込まれてしまいそうな深い──
「…ヤミ?」
ルーシャンは、ハッとした。知らぬうちに、口が動いていたようである。小瑪が、不思議そうにこっちを見ていた。
「…闇が、どうかした?」
『な、何でもない! あ、えっと…明かりがないと、少し暗いなぁ…って…』
慌てて繕うルーシャンに、小瑪は首を傾ぐ。
「…まぁ、掃除をすれば少しは明るくなるんだろうけど……」
天井を仰ぎ、ソファの背に身体を預けた。
ルーシャンは安堵の息を洩らし、小瑪の膝を揺する。
『小瑪はどこで寝ているの? 私が来るまで、あの部屋で寝ていたんでしょう?』
「…ああ。今は、このソファを使っている」
小瑪はソファの表面を撫で、年老いた感触を確かめた。
『部屋はいっぱいあるのに…』
「…どれも使えない」
『掃除すれば、大丈夫でしょう? 私、手伝う』
「…見たのか、他の部屋…」
感動のない声。
ギクリと、ルーシャンは口を押さえる。小瑪を上目遣いに見た。
『…ご、ごめんなさい』
“負けるが勝ち”ではないが、謝るが勝ちだ。変な言い訳をするよりも、一番に謝っておけばまず間違いはない。
「…構わないけど、他の場所ではしない方がいい。僕だから、君は強く咎められずに済む。それに……」
小瑪は瞼を落とし、ソファに沈む。
「…そう永くは、もう必要ない家だ」
囁かに零された言葉が、ルーシャンの胸を打った。
(…必要ない? どうして? どこかへ行ってしまうのかしら…?)
目を閉じた小瑪の姿は、これ以上の侵入を拒絶しているようだ。
ルーシャンが知りたい事は、すべて小瑪の中にある。だから、小瑪が話さない限り、ルーシャンは知り得ない。
難しい皺を眉間に刻んだルーシャン。
「…君は表情が豊かだな。君を見ていると厭きないが、気をつけた方がいい。それ故に、顔に出やすいということを…」
降ってきた声に、ルーシャンは顔を上げる。
小瑪が、唇だけで笑んでいた。
(まるで、泣いているよう…悲しい)
翡翠の瞳を波立たせる。
(…でも、愛しい…)