鍵
その部屋は、冷たい空気を漂わせていた。
他の部屋と違い、塵一つなく、時間の流れを感じさせない。いつかの瞬間が、凍り付けになったよう。
正面に大きな四角い窓が二つある。しかし、カーテンで閉ざされていた。
部屋の中央には、低いテーブルと、テーブルを挟む二つのソファ。広い空間であるのに、それだけの家具しかない。
そして、右の壁には、絵が一枚。額縁は銀で仕立てられていた。
とば口からはよく見えないので、絵の前まで移動する。
『───!』
ルーシャンは目を見張り、いっぱいに息を呑んだ。
そこには、海に突き出た岩に腰掛けて、表情を和ませている人魚が…
金剛石や緑玉石、青玉をちりばめたように鮮やかな海。岩に砕ける波が、藍玉の輝きを放っている。
白金の真っ直ぐな髪は月光に融ける…白蓮の肌は一点の穢れもなく…瞳は月長石をあしらっている…ルーシャンが知っている誰よりも、美しい人魚。
また、尾鰭も、ルーシャンが見たことのない銀をしていた。真珠を粉々に、光を保っているよう。
(──なんて、なんて綺麗な…)
自然に泪が溢れた。胸がいっぱいになり、心を奪われる。
泪でぼやけた視界の中、人魚はある人物と重なった。それは、
(──…小瑪?)
小瑪…人魚は、小瑪に似ている。
思わず、ルーシャンは手を伸ばし、人魚の輪郭をなぞろうとした。が、伸ばした状態で、止まる。
(小瑪…小瑪は、人魚?)
溜まる泪が、つうと頬を伝った。
(潮の香り……だから、潮の香りが?)
手を引っ込め、カーディガンの袖を鼻先に持っていく。
(でも、どうして? 人間の──)
刹那、脳裏に閃光が走り、影が弾けた。
闇を纏う謎の人……
(あの人…小瑪も、あの人に会った? それで、私みたいに、何かと引き換えに…?)
あ、と、ルーシャンは口を押さえる。
(ばれたら、泡になる! どうしよう…小瑪も、私と同じ?)
視界がグラグラした。
(……口にしなければ、大丈夫かしら? 人魚同士なら…)
頭が短絡してしまいそうだ。
目の前にあるのは、謎ばかり。
本人に答えを求める訳にはいかない。
(…絶対に訊けない。泡になってしまう危険性があるもの。それに、何より、小瑪が嫌うわ…部屋に鍵を掛けていたほどだもの、ヒトには見せたくなかったんだわ…)
後ろに退るルーシャン。ソファに背をとられる。
(私は、見てしまった…小瑪が知ったら、きっと…ううん、絶対に怒る)
みるみる目を丸くし、
(そしたら、もうここには、いられなくなる…)
ブルッと慄えた。
(そんなのは、イヤ!!)
秘めた空間から、ルーシャンは逃げ出す。
鍵を掛け、封印し直した。
肩で息をし、鍵を握り締め―――
ギギィイイ……
カッと目を見開き、ルーシャンは扉の前で凍りついた。
…玄関が、主人の帰りを知らせる。
バタァン…
今、小瑪が二階に来たら、ルーシャンを不審に思うだろう。何をしていたか、確実にばれる。
(どうしよう…どうしよう…!)
足音が階段へ向かってくる。
(ダメ…来ないで…お願いっ!)
ルーシャンは動けず、ぎゅっと目を瞑り、鍵を握ったまま祈るようにした。
…願いが通じたのか、足音は階段から離れていく。