箱
ぼってりしているカーテンを急き立て、陽光を招き入れた。その時に濃い埃が舞い上がり、ルーシャンは咳き込んでしまう。
胸元を撫でながら、顔を上げる。
(太陽が、あんなに高い…)
左手を目の上に翳し、深海からは決して見られなかった空を慈んだ。
その空の下には、故郷が腕を広げている。まるで、鏡のように空を映していた。
(…ここは、本当に海が近いのね……)
両手を曇り窓に添え、額を寄せる。軽く身体を凭せた。ワンピースの裾が密やかに揺れる。
このワンピースは、小瑪が買ってきてくれていた衣類の一つだ。たくさんあった中で、ルーシャンが一番に気に入ったノースリーブのそれは、七色の糸が織り込まれている。上品さと愛らしさで仕上げられていた。
実はルーシャン、誕生日に姉達から、虹色珊瑚で織られた衣を贈られていた。地上に出てきた時も纏っていたのだが、人間に捕まってしまい、気付けばもうどこにも見当たらなかったのである。
(大好きな衣だったのに…)
瞼を下ろすと、五人の姉達が、父母が、大勢の人達が、笑いかけてくれている。
(帰りたいよ…でも、気になるの。あの人…小瑪が…)
翡翠の瞳をぼんやり潤ませ、陸と海との境を見つめる。
時間も忘れ、ただそうしていると肌寒くなってきて、ルーシャンは小さく震えた。
ベッドに置いてあったカーディガンを持ち上げ、羽織る。
(…いい匂い)
そのカーディガンは、小瑪の匂いが染み付いていた。懐かしい故郷の、潮の香り……
海の側に住んでいるからそのような香りがするのか、それとも元々の体臭だからなのか…理由はどちらとも採れるだろう。
顔を上げたルーシャンの目は、自然とあの宝石箱へ流れる。
白い茨が絡みつき、玄い箱を束縛しているよう。上蓋には真紅の薔薇が一輪、妖妖しく見張っている。
(とても綺麗…)
箱を手に取ると、詰められていた本がパタパタパタと倒れた。
(何か、入っているのかしら)
他人の物を勝手に触ってはいけないと判っていても、好奇心に押されてしまう。
(ごめんなさい!)
ルーシャンはぎゅっと目を瞑り、勢いの儘に蓋を開ける。
そうして、恐る恐る右目だけを使って見てみた。
(……カギ?)
中には、小瑪の館と共に長い年月を経たであろう古い鍵がひとつ。
両目を開き、鍵を見つめた。
(どこの鍵かしら…?)
ルーシャンは、ぐるりと部屋を見渡す。だが、どこにも鍵穴はない。別の部屋にあるのだろうか。
何の鍵か――小瑪に尋ねることは、できない。愚かな真似をするな、と怒るに決まっている。
(………)
箱を本棚に戻し、扉に向かった。
(…小瑪は、いないのかしら)
古いせいで、扉はいつも鳴く。床も、軋む。それらが、余計に静寂を際立たせた。
何故だか、胸が締め付けられ、心細くなる。
小瑪以外の人間が住んでいる気配はない。
(ここで…こんな場所で、小瑪は独り…)
自分は、ここで独り暮らせるだろうか。
(…私には、できない。きっと、狂ってしまう。自分はそうと気付かなくても……)
階段の手前まで来て、振り返る。
太陽の位置は高いのに、隅には闇が息づいていた。
(…貴男は、どうなの? 小瑪…貴男の心は……)
考えても、答えに行き着かない。
…他人の心なんか判らない。ましてや、相手は人間。住む世界が、考え方が、違う。