名
小瑪は、ルーシャンの頭をひとつ撫でる。
「…好きな服を着て、身体を冷やさないように。寝る前に、蝋燭の火を消して」
風の繊維を集めたような亜麻色の髪から指を抜き、膝を伸ばした。手には、紙袋二つと箱ひとつ…彼の荷物はそれだけ。
「…おやすみ」
紅い唇を柔らかく弛ませ、流れる動作で部屋から出ていく。
ルーシャンは座り込んだまま、小瑪の手の名残を惜しんでいた。
…冷たい手。でも、温かい。
さくらんぼみたく熟れた唇に、小さく微笑みを乗せる。
…人間達が着る服って、どんなのかしら。
ルーシャンは紙袋を引き寄せ、口を開いた。
燦燦と照る太陽の下で、小瑪はいつもの喫茶店にいた。隅にある席で、紅茶を啜っている。
「…下ろしたばかりの服は、なんとも心を浮かせてくれる」
フフ、と、頬を和ませた。
黒いタートルネックシャツと皮のパンツは変わらないが、クリーム色のセーターと玄色のブーツが新しい。特に、ブーツがお気に入りだ。滑らかな玄は赤みがかっており、一時に同じ様をしていない。
「…しばらくは、これで大丈夫だな」
一口、紅茶を含む。
「…これ以上は、必要ない」
街の人…男、女、子ども、老人…日常を生きる人々。未来を夢見て。
違う時間の中に在る小瑪にも、望みがあった。
それは、常人と大差ないこと。
「……近いのかも、しれない」
吐き出した息に言葉を潜ませ、瞼を下ろした。服の上から、鎖骨の中心に触れる。
眼裏に浮かぶ、想い人……
「にいちゃん!」
聴覚に響く明朗な声が、物思いに耽る小瑪を現実に戻す。
瞼を上げると、昨日の少年が勝手に正面の席に腰を下ろすところだった。
初めて声をかけられた…小瑪はふぅと吐息し、紅茶を口に運ぶ。
「昨日、帰るのが遅かったから、母ちゃんに叱られちゃった。でも、お金は隠しておいたから平気だよ」
少年は得意げに喋った後、キョロキョロし出した。
「…ねえちゃんは? 一緒じゃないの?」
「…まだ寝ている」
「えー? おれより寝坊助じゃん!」
少年は大袈裟に反り返り、呆れる。そして、ガタッと身を乗り出した。
「な、ねえちゃんって、にいちゃんの恋人?」
「…違う」
「本当に?」
「…ああ」
「なーんだ」
オモシロくねぇと、舌を鳴らす少年。
「…それよりも、少年。仲間に疎外されたくなければ、私に近寄るな」
無表情で口を動かした小瑪に、少年はにやりと笑ってみせた。
「なに言ってんだよ! 自慢になるんだぜ、にいちゃんと話してると。みんな、スゲェって言ってる!」
「……」
「しかも、にいちゃんの家まで行った!」
「…それは、私が少年を雇ったからだ」
「それに、にいちゃん優しい」
「───…」
小瑪は僅かに瞠目し、微苦笑を洩らす。
『貴男は、優しいですね』
一呼吸置き、声を出した。
「…少年、」
「少年じゃない」
小瑪が何か言おうとするのを遮り、少年は真剣な表情をする。
「エミールだ」
小瑪はカップを取り落としそうになった。双眸を大きく揺らし、カップを落とさないよう震える手でテーブルに戻す。
「……どうしたの?」
少年──エミールは、小瑪の様子にびっくりし、自分が何かしたのだろうかと心配した。
「…な、何でもない。気にするな」
「いや、気にするよ。急に…」
小瑪は目を固く閉じ、ゆっくりと深呼吸する。
「おれ、何かした?」
「…何かしたと言えば、した」
「え?」
声を細く細く冷たくし、真っ直ぐエミールを見据えた。エミールは戸惑うように目を瞬く。
「…私に近寄るなと言った。邪魔をするな」
エミールは口を結び、瑠璃の瞳を見返した。
「…私は、この世界と関わってはならない」
「……辛いね、にいちゃん」
自分の事みたく眉を歪ませたエミール。
「独りは、辛いよ」
カタッ、と、席を立つ。
「…またね」
小瑪が黙ったままなので、エミールは肩をひとつ竦め、駆け去った。
「子どもが、知った風な口を………」
テーブルに両肘を突き、指を組ませた手の甲に額を預ける。
──エミールだ。
自分の名に誇りを持つ少年。
小瑪は、再び鎖骨の中心を触った。
「…何故、───」
苦しげに呻き、唇を噛み裂いた。緋い、赫い血が、つと流れる。