死者の街
眼を覚ますと、僕は路上に横たわっていた。
少女が僕の顔を覗き込んでいる。
僕は身体を起こし、ゆっくりと辺りを見回した。僕が生活している見なれた街。そこには誰もいなかった。普段、たくさんの人が通る歩道にも人陰一つなく、また、いつも渋滞している車道にも車一つなかった。誰もいない街に、僕と少女、ただ二人だけが居た。
「何も覚えてないの?」
少女が僕の顔を覗き込み、笑いながら話しかける。
「飛び下りたのよ、あなた。そのビルの屋上から。」
そう言って少女が指差したビルを見上げる。見覚えのあるビルだ。
僕の働いている会社が四階に入っているビル。僕がこのビルの屋上から飛び下りた?しかし彼女がそういうのだから、きっとそうなのだろう。そう僕は理由もなく納得していた。
ビルの向こう側にある空は、空間を拒絶するような重たくて軽い灰色をしていた。雲に覆われた空の灰色とは少し違う。まるでポスターカラーで塗られたかのような、ぺったりとした、奥行きのないニュートラルグレーの空だった。
「思い出した?」
少女が続けて僕にそう言った。
僕はもう一度思考を試みる。このビルの屋上から僕が飛び下りた?自殺をしたという事なのだろうか?だとすれば、理由は一体何だったんだろう?僕は思い出そうと試みたが、何も思い出すことはできなかった。
「そうか、僕は飛び下りたのか。」
僕は、彼女にそう言った。
「だとしたらここは、死後の世界、とかいうやつなのかな?」
「死後の世界…っていうのも何かイメージ合わないわよねえ。そうだなあ、なんて言おう。」
「死者の街。」
この街には誰もいない。ただ僕と少女だけが取り残された誰もいない街。ぺっとりと塗られた空。ぺっとりと塗られた地面。誰もいない街に意味や理由があろうはずもなく、ただ、そこに建っているだけのビルの群れ。
「わたしもね。…わたしももう、死んじゃってもいいかなあ、って思ってたの。」
驚いて僕は少女の顔を見つめた。見透かすかのように笑って少女はこう続けた。
「こんな小娘に、死ぬほどの悩みなんか無いって思ってるんでしょう?こう見えて色々あるのよこれでも。でもさ、いざ自分が死んじゃうとなるとなんだか寂しいわよねえ。」
少女の話を聞きながら、僕はビルの前を通る幹線道路の続く先をじっと見つめていた。その先にある風景は、とても居心地の良い楽園のような場所にも思え、また、全く何も無い、無の世界のようにも思えた。
「きっと、あっちの方向なんだよね。」
僕の思考を見透かすかのように、彼女はそう言った。
「良く分からないんだけどさ、なんかそんな気がするの。」
僕らはあちらへ向うべきなのだろうか?取り返しのつかない一方通行の道がそこにあった。僕たちの目の前に垂直に続く三途の川は、アスファルトに覆われたニュートラルグレーの四車線だった。
その時、背後に大勢の人の気配を感じた僕らはゆっくりと振り向く。その瞬間たくさんの人々が、ゆっくりと早足で僕たちの横をすり抜けて行く。表情のない、そのたくさんの人々は皆、空や道路と同じ灰色の服を着ていた。
世界では、一日にどれくらいの人間が死ぬのだろう。そんなことを僕はぼんやりと考えた。一年ではどれくらいの人数になるのだろう。では、百年では?数えきれないくらい沢山の人々が連なる、永遠に続く行列。僕はその中のちっぽけな一人に過ぎない。
「ねえ、戻ろう?」
延々と続く死者の行列を見つめながら、彼女はそう呟いた。
「え?」
僕がそう聞き返すと、彼女は僕の顔を見つめて微かに笑い、そしてもう一度、はっきりとこう言った。
「戻ろう?」
そして少女は僕の手を取る。
少女の温もりが、指先を通して僕に伝わる。温かかった。ニュートラルグレーの街の中で、ただ、彼女の手だけが温かかった。何故だか分からないけれど、とめどなく涙が溢れ出した。
街のざわめきが聞こえてくる。気が狂ってしまいそうなほど、全身が激しく痛む。今までに経験した事のないほど強烈な、引き裂かれるような痛みだ。うめき声を上げようとするが声すら出ない。人々のざわめきが聞こえる。
「だーかーらぁ飛び下りなんですって!」
と、誰かが言った。きっと携帯電話で救急車でも呼んでいるのだろう。
「下にいた女の子も巻き込まれて・・・」
同じ声が続けてそう言った。驚いて、僕は眼を開けようとする。しかし瞼の力が入らず、上手く眼を開ける事ができない。中途半端に開かれた瞳から、ぼんやりとした光が入ってくる。
誰かが僕の手を握っている。
とても、とても弱い力で、誰かが僕の手を握っている。