第五幕 決断と退場 第十五話 結衣が見切る
四月になった。
桜が咲いた。商店街のアーケードの外に、一本だけ桜の木がある。真琴が来た頃から気づいていたが、近くで見たのは初めてだった。
結衣の新学年が始まる一週間前だった。
――――――
康介が店に来たのは、その日の昼過ぎだった。
今日は一人だった。前回連れていた女はいなかった。
カウンターの前に立って、真琴を見た。
「少し話せないか」
「弁護士を通してください」
「弁護士の話じゃない」
「では用件は」
康介は少し間を置いた。
「結衣に会わせてほしい。一度だけでいい」
「岸本弁護士に連絡を」
「真琴」
「桐原さんと」
「わかった、桐原さん」康介は少し声を落とした。「俺は結衣の父親だ。それだけは変わらない」
真琴は康介を見た。
「変わらないのは事実です。でも、それだけです」
「それだけじゃないだろう」
「養育費は二年間来ていません。連絡も来ていません。結衣の誕生日も、入学式も、何もありませんでした」
康介は黙った。
「その間、結衣は一度もあなたのことを聞きませんでした」
康介の顔が少し動いた。
「……それは」
「用件が終わりましたか」
康介は真琴を見た。しばらく何も言わなかった。
「結衣に選ばせてくれ」
「結衣は九歳です」
「子どもでも意思がある」
真琴は少し考えた。
「岸本弁護士に連絡してください。そこで話します」
康介は出て行った。
――――――
その日の夕方、岸本弁護士から電話があった。
「相手方から連絡が来ました。面会交流の申し立てを正式に行う、と」
「そうですか」
「桐原さん、一つ確認です。結衣さんは、相手方のことをどの程度知っていますか」
「父親がいること、離婚したこと、養育費が来ていないことは知っています」
「本人は何か言っていますか」
「何も言いません」
「それが、本人の意思だと思いますか」
真琴は少し考えた。
「わかりません。でも結衣は、言わないことを自分で選んでいると思います」
「わかりました。一度、結衣さんと話す機会を作れますか。本人の気持ちを確認しておきたい」
「わかりました」
――――――
その夜、夕飯を終えた後、真琴は結衣に言った。
「話がある」
結衣はテーブルの向こうで真琴を見た。
「お父さんのこと」
結衣は黙っていた。
「戻ってきた。結衣に会いたいと言っている」
また黙っていた。
「どう思う」
結衣はしばらく考えた。テーブルの上に置いた手を見ていた。
「会いたくない」
「なんで」
「だって」結衣は少し間を置いた。「ずっと来なかったから」
「そうか」
「お母さんが大変な時も、来なかった。工場クビになった時も、お店始めた時も、来なかった」
真琴は結衣を見た。
「全部知ってたか」
「うん」結衣は頷いた。「だって一緒に住んでるから」
真琴は返事をしなかった。
「今さら来ても」結衣は言った。「なんかいやだ」
「いやだ、だけか」
結衣は少し考えた。
「怖くはない。怒ってもない。ただ、いやだ」
真琴は頷いた。
「わかった」
「会わなくていい?」
「結衣が会いたくないなら、会わなくていい。ただ、弁護士の先生に一度話す必要がある。本人の気持ちを確認するって」
「弁護士の先生に話せばいい?」
「そう」
「わかった」結衣は頷いた。「行く」
それだけ言って、結衣は宿題を広げた。
話が終わった、という態度だった。
――――――
翌週、岸本弁護士の事務所に結衣を連れて行った。
岸本は結衣と二人で話したいと言った。真琴は廊下で待った。
三十分後、結衣が出てきた。
「終わった」
「どうだった」
「話した」
「何を話したか、聞いていいか」
結衣は少し考えた。
「会いたくないって言った。なんでかも言った」
「先生はなんて」
「うん、わかった、って」
真琴は頷いた。
岸本が廊下に出てきた。
「桐原さん、結衣さんの意思は明確です。これは調停の場でも十分に主張できます」
「相手方は」
「正式な申し立てをするかどうか、まだ確認中です。ただ、結衣さんがこれだけはっきり意思を示せば、裁判所も軽視できない」
真琴は頷いた。
「ありがとうございます」
――――――
帰り道、結衣と並んで歩いた。
結衣が言った。
「ねえ、お母さん」
「うん」
「お父さんって、なんで今さら来たの」
真琴は少し考えた。
「わからない」
「お母さんはわかってるんじゃないの」
真琴は結衣を見た。
「……金が理由だと思う」
「お金?」
「詳しくはわからない。でもそう思う」
結衣はしばらく黙って歩いた。
「じゃあ、結衣に会いたいのは本当じゃないの」
「本当かどうかは、お父さんにしかわからない」
「でもお母さんはそう思ってる」
「そう思ってる」
結衣はまた黙った。
しばらくして言った。
「正直に言ってくれてありがとう」
真琴は返事をしなかった。
結衣はそれ以上何も言わなかった。
二人で並んで、春の道を歩いた。
――――――
一週間後、岸本から電話があった。
「相手方から連絡がありました。申し立てを取り下げます、と」
真琴は少し止まった。
「理由は」
「明確な理由は言っていません。ただ、結衣さんの意思を聞いた、とだけ」
「そうですか」
「当面は動きがないと思います。ただ、いつ再び接触してくるかわかりませんので、引き続き記録は残しておいてください」
「わかりました」
電話が切れた。
真琴はしばらく受話器を持ったまま立っていた。
終わった、という感覚はなかった。
でも今日のところは、ここまでだと思った。
――――――
その夜、結衣に伝えた。
「お父さんの件、今は動きがなくなった」
「そっか」
結衣は宿題をしながら答えた。顔を上げなかった。
「怖かったか」
「ちょっとだけ」
「そうか」
「でも、お母さんがちゃんとしてたから」
真琴は返事をしなかった。
結衣は宿題を続けた。
真琴は夕飯の後片付けをした。
水の音だけが、台所に続いた。
――――――
翌朝、四時にシャッターを上げた。
春の空気だった。冬より柔らかい。息は白くならない。
厨房に入って、換気扇を回した。
出汁を取り始めた。
今日来る顔が浮かんだ。
佐々木が来る。田中が来る。村井が明日の朝来る。中川は夜だ。
坂口たちの現場は今月末に終わる。その後のことはまだわからない。
真琴は昆布を鍋に入れた。
水が少しずつ温まっていった。
康介のことは、今日の弁当には関係がない。
結衣が自分で見切った。
それで十分だった。
(第十五話・了)




